――伝説のレフェリー、終幕へ向かう
東京のはずれ、古い体育館は、今夜も妙にあたたかかった。
外は冬に片足を突っ込んでいるのに、建物の中だけは季節を拒んでいるらしく、
まるで昭和の残り香がずっと焚きしめられているようである。
天井には黄ばみかけた照明が仁王立ちし、
鉄骨のわずかな軋みが、観客のざわめきにまぎれて律動する。
汗とビールと、もしかすると期待と不安も混ざった匂いが、
ゆっくりと会場の隅から隅へ流れていき、
その“濃度の高い空気”は、この夜に限って妙な心地よさをもっていた。
リングは、言うなれば「戦いのこわばり」を記憶している。
キャンバスには、長年の試合で刻まれた擦過のあとが、
光を受けてかすかに浮き立つ。
中央に散った白いチョークの粉は、誰が残したのか不明だが、
いかにも“ここは人が倒れる場所ですよ”と丁寧に示しているようで、
それなりに親切だった。
その中心に、津久田健次郎は静かに立っていた。
筋骨たくましいレスラーたちに囲まれ、
ひとりだけ妙に細く、妙に落ち着いている中年男性。
リング上の生物としては絶滅危惧種に見えなくもないが、
本人は特に気にしていなかった。
彼は“静寂の守り人”と呼ばれている。
リングにいるレスラーたちはだいたい叫び、吠え、魂を燃やすのが仕事だが、
彼だけは終始無表情で、呼吸ひとつ揺れない。
怒号の中にぽつりと置かれた静物のようで、
しかしその静物が右手をほんの少し上げるだけで、
奇妙なことに――乱れた動きが半拍だけ整う。
観客はその瞬間をほぼ誰も見ていない。
見えすぎて逆に認識されない、という種類の技術である。
いまの試合は荒れ気味だった。
蹴りと叫びがあちこち同時に生まれ、
もはや“誰が誰を攻撃しているのか”という倫理観が揺らぎ始めている。
だが、健次郎は焦らない。
こういう乱戦は、彼にとっては冬の鍋料理のようなもので、
煮詰まれば勝手にまとまる、と信じている節があった。
そのときだ。
観客席の上段から、妙に間延びした声が響いた。
「おーい……そこ危ないぞ……」
声は遠く、何かの冗談のようで、
どう聞いても“注意”というよりは“感想”に近かった。
観客の誰もが聞き流し、当然、健次郎も同じ処理をした。
リングの空気は常に騒がしい。
多少の違和感など、湯気のようにどこかへ消えていく。
――はずだった。
トップロープから飛んだ選手の影が、
照明を短く遮った。
筋肉の塊が高速で迫る。ラリアットだった。
普通の人間なら避ける。
しかし健次郎は、“レフェリーは選手の邪魔をしない”という
半ば呪いのような習性で、反射的に首を固定してしまった。
ほんの一瞬の迷い。
だが、迷いは重力よりも早く落ちる。
衝撃。
音が消え、世界が沈む。
白くはなく、ただ静かに暗く。
まるで紙片が水底に落ちるように、
輪郭も抵抗もなく、そのまま闇へ――。
それが、彼の人生の最後の瞬間だった。
……と、本人は思い込んだ。




