悪役令嬢レティシアの“周囲の記憶”
侍女が控えめな歩幅で先導し、レティシア――いや、健次郎はその後に続いた。
ガルデニア公爵家の廊下は、朝日に照らされて磨かれた床が静かに光を返し、壁にはいくつもの絵画が整然と並んでいる。天井には古い伝承を描いたらしい天井画が堂々と広がり、金の縁取りが淡く輝く。敷き詰められた絨毯はとろけるように柔らかく、踏むたびに靴底が吸い込まれるような感触を返してくる。
暖炉には細かな彫刻が施されており、それだけでも一流の職人を何人も抱えていることが想像できた。さすがは公爵家――ヨーロッパの王侯貴族の館でも、ここまで徹底した装飾はそう多くはないだろう。
しかし華やかな装飾とは裏腹に、この屋敷に満ちている空気は妙に緊張していた。
すれ違う使用人は皆、まるで一定の距離を測るかのように端へ寄り、硬い表情で頭を下げる。
その目には、敬意よりも“警戒”が色濃い。視線を合わせた瞬間に肩をすくめる者もいた。
(……なるほど。どうやら“レティシアは暴れる令嬢”という評価らしい)
健次郎はその反応を、審判としての癖で冷静に採点していく。
苛烈な選手や観客を相手にしてきた目は、この通路に染みついた空気の“質”を即座に把握した。
――恐怖。
――不信。
――そして、できれば関わりたくないという切なる願い。
侍女が緊張のあまり肩を固くして歩いているのも、別に彼だけに向けられた態度ではない。
レティシアという少女そのものが、屋敷で長く積み上げてきた“評判”なのだ。
(人格が変わったと思われるのは、もう少し後の話か……。まずは情報収集だな)
廊下の向こう、重厚な両開きの扉が見えてきた。
そこが“朝食の間”。
レティシアの“新しい一日”が、いよいよ始まろうとしていた。
朝食の大広間の扉が、侍女によって静かに押し開かれた。
豪奢なシャンデリアが朝の光を受けて鈍く輝き、長いテーブルには銀器と白磁の皿が整然と並べられている。
その中央付近に、ガルデニア公爵家の家族三人がすでに着席していた。
父――ガルデニア公爵は、新聞を畳むように視線を上げ、レティシアの姿を見た瞬間、わずかに眉を跳ね上げた。
> 「レティシア……? 今日は……その……どうしたのだ、その目つきは」
目つき、という言葉に健次郎は内心で軽く頷く。
どうやら、レティシアは“睨みつけるような目”が常態だったらしい。
母である公爵夫人は、ナイフを置くのも忘れたように指先を止め、怯えるような声音で言った。
> 「ええと……ご機嫌、よろしいのかしら……?」
その声色は、実の娘に向けるにはあまりにも慎重すぎた。
まるで“機嫌を損ねれば何が起こるかわからない”と怯える者の声だ。
そして最後に、レティシアの弟である少年――冷静沈着な眼差しを持つ優等生タイプの少年が、あからさまに警戒を隠そうともせず、訝しげに言った。
> 「静かすぎる。姉上、何か……企んでいるのですか?」
その声音には兄妹らしい甘さは一切ない。
まるで“危険人物の動向”を探るような、淡々とした警戒心だけがある。
(ここまでの反応が自然に出るということは……)
健次郎は心中で結論を下した。
(“暴君レティシア”という評価は、この家の中で完全に定着しているわけだ)
その静かな確信を胸に、彼はゆっくりと席へ向かう。
その歩き方一つですら、家族の視線が細かく動き、些細な変化を読み取ろうとしているのがわかる。
――恐れと警戒。
――そして、突然“落ち着いた”レティシアへの戸惑い。
公爵家の空気は、張りつめた薄氷のように緊張していた。
レティシアが席についた瞬間――家族の視線が、まるで“触れれば壊れる精密機械”を見守るように、慎重に、しかし露骨に集中した。
その反応ひとつひとつが、かつてのレティシアの姿を雄弁に物語っていた。
父・公爵は、手元のカップを持ち上げる動作の途中で止まり、娘を値踏みするように見つめる。
> 「医師を呼ぶべきか……? いや、しかし落ち着いたのは良いことか……?」
“落ち着いていること”すら健康を疑われる――
その事実が、以前のレティシアがどれほど荒れていたかを示していた。
(……どれだけ暴れたんだ、この娘は)
健次郎は心の中で淡く突っ込みを入れる。
その横で、公爵夫人はハンカチを握りしめ、震えるように呟く。
> 「昨日までは……あんなに情緒が不安定でしたのに……」
“情緒が不安定”という表現の裏には、単なる気まぐれでは済まされないほどの振れ幅――
怒鳴り、泣き、怒り、そしてまた誰かを罰する。
そんな日々が容易に想像できた。
弟はパンを一口も食べず、ひたすら姉の動きを観察している。
> 「いや、落ち着いた姉上というのが一番不気味なんですけど」
それは、幼いなりの本音だった。
普段から睨みつけられ、気に入らないだけで理不尽な罰を下し、
さらには“嫌がらせの常習犯”として周囲の令嬢たちに恐れられていた姉――
その姉が、静かに椅子に座り、テーブルマナーを守り、誰一人睨まない。
家族全員が理解していた。
“今のレティシア”は、あの暴君と同じ人間ではないと。
ただ、それを口にする勇気は誰にもなかった。
レティシア――いや、健次郎は、家族の戸惑いをひとつ残らず受け取りながらも、まるで“厳格な審判が試合前に姿勢を整える”ように背筋を伸ばした。
その所作のすべてが、奇妙なほど優雅に見えた。
ナイフとフォークは無駄な音を立てず、角度も運びも正確だ。
肘の高さは一定、食器の置き方は教本のように整い、食べるテンポも乱れない。
侍女はもちろん、家族までもが無意識に息を呑んだ。
――誰だ、この完璧な令嬢は。
しかし健次郎本人はそんな視線に気づきつつも、脳裏では別のことを考えている。
(怒鳴き散らす姫君だったのか……なるほど、過去の採点が甘かったようだな)
悪役令嬢の前科が次々と積み重ねられる中、彼は淡々と受け止める。
“レティシアの人格”と“自分の行動”を完全に切り離しているからこそできる冷静さだ。
(まずは“静かなレティシア”を維持して情報収集だ。ここで下手に動くのは危険だな)
無駄な言葉は一切発さない。
だが話しかけられれば、礼儀正しい返答を返す。
父が探るように問いかける。
> 「本当に……その、体調は良いのだな?」
健次郎は静かに頷いた。
> 「特に問題はありません、父上」
母が、まだ不安げに眉を寄せながら尋ねる。
> 「今日は……何か良いことでも……?」
健次郎は、口元をわずかに和らげる。
> 「ええ、少し考え事をしていただけです」
その落ち着いた声音は、昨日までのレティシアを知る者には異常と言っていいほど優しい。
家族は困惑しながらも、なんとか理屈を探し始める。
> 「ま、まあ……落ち着いたのなら、良いことよね……?」
> 「うむ……うむ……良いことだ……うん……」
無理やりの納得。
その裏で、弟だけが警戒心を隠さずレティシアを観察していた。
健次郎は、そんな空気をすべて把握した上で、皿の上の食事を静かに片づける。
――レティシアとしての最初の日は、家族の“困惑”をもって始まった。
家族が無理やりにでも“良い方向へ”受け止めようとする中、
その場の空気にただ一人、溶け込まない者がいた。
執事――ガルデニア家の最古参と言われる老人。
背筋はすっと伸び、皺だらけの手は背後で組まれている。
ひとつも乱れのない立ち姿は、まるで屋敷の柱のように動かない。
だが、目だけは別だった。
かつて主家の栄枯をすべて見届けてきたその瞳は、
レティシアを、鋭く、静かに、深く観察している。
(……昨日まで怒声を上げ、
食器を割り、
下働きの娘を泣かせていたお嬢様が……)
(それが、一晩でここまで完璧な礼儀と沈静を備えるものだろうか)
公爵夫人が「良い兆しかもしれないわ」と微笑み、
公爵は「落ち着いたのならば良し」と結論づけようとする。
弟は訝しげながらも“変化”をまだ理解しきれていない。
しかし、執事だけは違う。
彼はレティシアの手元、背筋、視線、呼吸のリズムまで
ひとつひとつ正確に見極めていく。
長年仕えてきたからこそ、昨日までのレティシアとはまるで別人だとわかる。
(偶然、ではない。
これは……“変化”という範疇を越えている)
(お嬢様に、何かが起きている)
微細な違和感を見逃さない鋭い目は、
健次郎――いや、レティシアを演じる男の存在を
誰より早く察知し始めていた。
だが執事は動かない。
疑問を口にすれば、場の空気を崩してしまうと理解しているからだ。
彼はただ、静かに見守る。
それが、長年この家を支えてきた者のやり方だった。
やがて、銀のフォークが皿の上で静かに音を止めた。
朝食の時間は、嘆息を呑み込むような奇妙な静けさのまま終わりを迎える。
レティシア――いや、自覚のないまま役を背負わされた健次郎は、
ナプキンを丁寧に畳み、椅子を引く音すら控えめに立ちあがった。
それだけで、公爵夫人は胸をなでおろし、公爵は腕を組んだまま安堵の息を吐く。
「今日は……落ち着いていたな、レティシア」
「ええ、ええ。ようやく更生なさったのね……きっと……」
弟だけは、眉間に深い皺を寄せていた。
姉の変化を喜ぶべきか、警戒すべきか判断がつかないという顔だ。
レティシアはそれらを淡々と視界の外に流し、
ただ一礼して広間から去ろうとする。
その後ろで――
ひとり、静かに見送る者がいた。
老執事。
彼だけは、家族の安堵を共有しない。
背後で扉が閉まる直前、
彼は誰にも聞こえないほどの小声で、しかし明瞭に呟いた。
「……お嬢様。あなたは一体、どちら様なのですか?」
問いは空中に溶け、
返事も、気づく者もいない。
レティシア――健次郎は、
その一言にまったく気づかぬまま、
新たな“役”の一日を静かに歩き始めた。




