10 師匠からの提案
森林が広がる丘陵地帯。
そこには、この広い森が見渡せるほどの高い丘があった。
気持ちのいい風が緩やかに吹き抜ける。
その先には、まるで何かを待っているかのように、1匹の狼型の魔物が静かに横たわっていた。
静かに目を閉じている彼の耳が、突然ピクリと動く。
そして、何かを察知したかのように、紫色の双眸を開いて頭を上げた。
ジッと見据えるその広大な森の先。
そこで起きた何かを感じ取ったのだろうか。
彼は森の先を見据えたまま、ゆっくりと立ち上がると、一声の遠吠えを上げる。
透き通るように精錬されたその声は、まるで誰かに何かを知らせるているかようにも聞こえた。
空に反響するように、広い森にその声が大きく響いていく。
それを見届けた狼型の魔物は、再び森の先にその眼を向けた。
そして、ゆっくりと振り向くと、森の中へその姿を消した。
◆
翌朝、目を覚ますと、わたしは自分が泣いていたことに気づいた。
何の夢を見たのかは覚えていない。
けど、おそらくは怖い夢を見たんだとわかる。
昨日、あんなことがあったんだから無理もないと思う。
まさかゴブリンを狩りに行って、クリムゾンベアに襲われるとは夢にも思っていなかったのだから。
昨日のことを思い返しながら、目尻に溜まった涙を拭うと、今度は後悔の念が胸に押し寄せてくる。
本当なら、わたしがクリムゾンベアに立ち向かうべきだったのかもしれない……。
クリムゾンベアは兎人族の天敵だ。
これまでどれだけの仲間たちが、その凶爪の犠牲になったかはわからない。
だからこそ、あの場において、わたしは立ち向かうべきだったのではないだろうか。
過去からのしがらみ……その一部だけでも、わたしの手で断ち切るべきではなかったのだろうか。
そんな思いが胸の奥から溢れてきたが、その反面で、あの時に感じた違和感を思い出して再び疑念が浮かぶ。
クリムゾンベアの恐ろしさは、わたしたち一族がよく知っている。
だからこそ、わたしは動くことができなかったと思っていた。
でも、あの時、わたしの中には黒い感情が生まれ、その感情のせいで動くことができなかった。
襲われる瞬間、ドス黒い……まるで悪意のようなそれに、心が染まっていく感覚……。
結果として、わたしは師匠に助けられ、命を救われた。
そして、その黒い感情も消えていた。
あの感情の正体が何なのかはわからない。
でも、なんとなくだけど、良くないものなんじゃないかな……。
そんな気がしていた。
「おはようさん。よく眠れたか?ちと話があるんじゃが……」
布団の上で昨日のことを思い出していると、ドアをノックする音が聞こえた。
目を向けると、師匠がドアの隙間から顔を覗かせている。
中に入っていいかと視線で確認してきたので、わたしはこくりと頷いてそれを承諾した。
師匠はホッとした様子でドアを開けると、優しい顔で微笑みながら部屋にあった椅子にゆっくりと腰掛けた。
それを見て、私もベッドから起き上がった。
「お……おはようございます。どうしたんですか?こんなに朝早く……。」
普段、師匠はわたしの部屋に入ってくることはなかった。
その理由はよくわからないけど、師匠曰く、年頃の女子の部屋にジジイが入るなど言語道断とのこと。
だから、今日の訪問はかなり珍しいことであり、わたしも驚いていた。
「すまんすまん。早いのはわかっちょったんじゃが、お主に話しておきたいことがあってのぉ……。どうじゃ?昨日の疲れは落とせたか?」
師匠は心配そうな表情を浮かべている。
昨日のことは、師匠にとっても想定外だったんだろうな。
でも、話したいことってなんだろう……。
そう思いながら、わたしは師匠の問いかけに静かに首を縦に振った。
それを見てホッとしたのか、師匠は一度咳払いをするとゆっくりと話し始めた。
「まずは昨日の件。お主には怖い思いをさせてしまってすまんかった。まさかこの時期に、アレがで出歩いとるとは思わなんだでのぉ。」
申し訳なさそうに頭を掻く師匠。
でも、それについては、正直に言えばわたしは何とも思っていなかった。
"穴持たず"の出現は、イレギュラー中のイレギュラーである。
クリムゾンベアの習性を熟知している兎人族でさえ、あの状況では運が悪かったと思うしかない。
それだけの話なのだ。
それよりも何よりも、わたしの胸には引っかかっているものがある。
もちろん、あの時の真っ黒な感情のこともそうだけど、今考えていたのはそのことではない。
だが、それを今、自分でどうこうできるわけもなく……。
わたしは、師匠の言葉に対して「大丈夫です。」と、一言だけ返した。
「そうか……。お主は本当に強い子じゃな。」
師匠はそうやって小さく笑ってくれた。
けれど、正直に言えば、わたし自身はそんな風に思うことはできなかった。
たかが2、3匹のゴブリンにだって苦戦する。
クリムゾンベアだって出会った瞬間に腰を抜かす始末。
そんな自分のいったいどこが強いんだろう。
そんな気持ちで胸がいっぱいになり、ついつい俯いてしまう。
自分自身の弱さに対する焦り。
これが、今わたしの胸の中でつっかえている感情だった。
そんなわたしを見て、師匠も何かを感じていたものがあったんだと思う。
心痛察するに余りあると言った感じで、わたしに優しく声をかけてくれた。
「ほんでのぉ、わしもいろいろ考えたんじゃが、お主にはあることをちゃんと伝授しておこうと思ってのぉ。」
「え……?で……伝授……ですか?」
師匠から突然の提案は、落ち込んだわたしの気持ちを驚かせるのに十分だった。
伝授……?それっていったいどんなことを教えてくれるんだろう。
もしかして、奥義的な何かかな?
必殺技とか、それともスキルの上位互換的な?
師匠の提案は、いつも唐突で突然だ。
けど、今回のそれは、暗かったわたしの心を晴らしてくれた。
同時に、胸の高鳴りも与えてくれた。
わたしは強さを求めている自分がいることに、いつしか気づいていた。
さっきみたいに、自分の弱さに嫌気が差していたことが何よりの証拠だろう。
"伝授"という言葉に、わたしはの心は完全に惹かれていたのだ。
「そうじゃ。少し難易度は高いが……どうじゃ?挑戦してみんか?」
顔を上げたわたしに、師匠はそう付け加えた。
その顔にはいつもの優しさと安心感が浮かんでいた。
わたしが話に食いついたことで、ホッとしたんだろうな。
そんな風に思いつつ、わたしは少し思案する。
難易度が高いのは、ちょっと気になる。
でも、これはもしかしたら師匠の強さを知ることができるチャンスではなかとも思う。
難易度が高いということは、より師匠の強さに近いということ。
なら、それを知ることができれば、わたしだって少しは強くなれるのではないだろうか。
せめて、クリムゾンベアを前にしても、恐怖で震えない程度には……。
そう考えたら、無意識に拳に力が入っていた。
いつまでも、ここに住まわせてもらえるわけではない。
いつか、ここを出ていかなければならない時から来るだろう。
だって、わたしは家に帰らなければならないんだから。
だから、その時が来るまで、できる限りをこの人から学んでおかないと。
そんな気持ちになったわたしは、師匠の瞳をまっすぐに見据えた。
「や……やります!教えてください!」
その言葉を聞き、師匠はニカリと笑う。
「よぅし!その意気じゃ!それが習得できたならば、ドラゴンくらいは相手にできるからのぉ!」
は……?ドラゴン……?
理解が及ばず、わたしは全身フリーズしてしまう。
師匠……今、ドラゴンって言ったよね……
え?聞き間違いだよね……?
冷や汗が流れる。
だが、師匠はニコニコと笑っている。
それを見て、わたしは彼が本気なんだと感じた。
いや……まずはクリムゾンベアを倒せるくらいでいいんだけど……。
そんな本音が頭の中をグルグルと回っているが、それを言い出すことはできない。
だって、これからの修練メニューについて、目の前で嬉しそうに呟いている師匠をみたら、そんなこと言い出せるはずがない。
「よし!ほんなら、今日から頑張ろう!お主なら絶対に習得できるからの!ほほい!」
師匠は楽しげに笑うと、ゆっくりとわたしの部屋から出て行った。
ド……ドラゴン……
わたしは、そんな彼の背中を静かに見送ることしかできなかった。
ご愛読ありがとうございます!
やはり、あの熊の魔物を差し向けたのはこの狼なんでしょうか…謎が深まります。
しかし、じじいの思考はいつでも予測不能ですね笑
ドラゴン倒せるレベルを目指すとなると、パルトがちょっと可哀想な気も…笑




