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9 黒い悪魔

「グルルルルルルァァァ!!!」



大きな咆哮から生まれた衝撃波が、辺り一面を震わせる。


身の危険を感じ、鳥たちが木々から一斉に飛び立つと、他の動物たちも蜘蛛の子を散らしたように森の奥へと逃げていく。



悪魔のように真っ赤に光る双眸。


大木よりも太い腕。


わたしなんか丸呑みできそうな大きな口。


そして、入れた物全てを噛み砕くであろう鋭い牙。



咆哮の主である真っ黒な巨躯が、わたしたちの目の前に姿を現した瞬間だった。



「こやつは……。一体なぜ、こんな時期に……。」



その魔物を見た師匠の声は、いつになく真剣に聞こえた。


それだけで、目の前の個体が危険な相手だと理解できた。



そもそもだけど、わたしはコイツの正体を知っている。


森に住む者の間では、"ブラックデビル"……黒い悪魔の異名で呼ばれる魔物であり、森の生態系の頂点に君臨している存在。


そうだ……こいつはクリムゾンベア。


兎人族にとっては、天敵とも呼べる熊型の魔獣である。




「まだ寝とる時期のはずじゃが……この時期に彷徨いとるとなると、もしや"穴持たず"かのぉ。」



庇うようにわたしの前に立ち、そう呟く師匠。


その言葉の意味は、わたしにも理解できた。



クリムゾンベアの習性は、まさに熊そのものだ。


冬眠するために獲物を狩り、秋終わりまでに栄養を蓄える。


そうして、脂肪を肥やすと巣を作って冬を越す。


越冬後、春先には目を覚まし、求愛時期を経て子孫を残す。


これが普通のクリムゾンベアの生態である。



だから、まだ春になっていないこの肌寒い時期に、コイツが彷徨いているなんて、普通に考えればあり得なかった。


あり得ないけれど、現にコイツはわたしたちの目の前にいる。


そこから考えられる可能性は2つ。


秋までに採餌が不十分で冬眠できなかった……あるいは、富栄養であるにもかかわらず"穴持たず"となった。


そのどちらかだ。




天敵を目の前にしたわたしの体は、完全に硬直していた。


早まる鼓動と胸の息苦しさ。


曲がった左耳の傷が疼く。


恐怖で胸と喉が締め付けられ、上手く声が出せなかった。


だけど、わたしはなんとか声を絞り出す。



「し…………しょ………」



蚊の鳴くような声しか出なかった。


でも、師匠は振り向くことなく、片手をわたしの前に出し、指でピースサインを作ってくれた。



ーーー心配せんでええ。そこで静かに座っとれ。



そう言っている気がした。


いや、そう言ってくれているのだ。



師匠からのメッセージを理解したわたしは、静かにコクリと頷いた。



そうだ……。


わたしの前には師匠がいるんだ……。


師匠なら、クリムゾンベアが相手でも、何の問題もないよね……。



そんな期待感が生まれると、わたしの心は少し落ち着きを取り戻し、目の前の状況に意識を向ける余裕ができた。



真っ黒な巨躯と相対する小柄な老人。


それは一見、異様な構図にも見える。


ちっぽけな人間族の老人が、巨大なクリムゾンベアを相手にするなど、普通に考えればあり得ないことだからだ。


だけど、わたしの眼にはそうは映っていなかった。



師匠の背中に見えるのは、昔聞かされた英雄譚の主人公。


勇猛で果敢。


そして、優しさと誠実さを兼ね備えた彼の姿を、師匠の背中に重ねている。



わたしの師匠は最強なんだ。


こんなクマ野郎なんか、すぐに倒してくれる!



わたしはそう信じていた。





「んで、お主は何でこんなところにおるんじゃ?まだおねんねしとる時間じゃろうて。」



飄々とした態度で、師匠がクリムゾンベアへ問いかける。


だが、当たり前だけどヤツからの返事はない。


クリムゾンベアは鼻息を荒くし、ただ師匠を睨みつけているだけだ。


おそらく、目の前の獲物をどう料理しようかと思案しているのだろう。


ヤツの殺気からは、そういった雰囲気が感じ取れる。


しかし、師匠は師匠でそんなことはお構いなしといった様子だった。



「しかしまぁ、"穴持たず"には容赦できんのぉ。お前さんは放っておけば、いずれはどこかの里に出て人を襲う。そうなる前に、ここでわしが止めにゃならん。すまんなぁ。」



そう言って、クリムゾンベアに向かって合掌する師匠。


そんな隙だらけの師匠の様子には、さすがのわたしも少し焦りを感じてしまった。



師匠のことは信じてる。


でも、それはちょっと余裕出しすぎなんじゃ……。


相手は一応でも、この森の頂点なのに。



内心ではそう思っているけど、相変わらず上手く声が出せず、ただただ背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。





「グルルルルルル……」



少しの静寂が訪れた後、それ切り裂いたのはクリムゾンベアだった。


隙だらけの師匠を見て、料理の仕方を決めたのかもしれない。


ヤツはゆっくりと歩き出すと、師匠とわたしを中心に弧を描いていく。


獣らしく、目の前の獲物を見定めるように、だ。


のそりのそりと動く様子からは、体の大きさが改めて感じ取れた。



でも、師匠は一切動かない。


視線すら動かさない。


杖をついたまま、のほほんとした様子で正面を向いたまま立っているだけだ。



そんな両者を見守っているうちに、クリムゾンベアはいつしかわたしの後ろ側へと回り込んでいた。


そして、ピタリとその場で足を止めると、こちらにその巨躯を向ける。



え……これって……



その時、わたしはようやく理解した。


コイツの最初の狙いはわたしなんじゃないか、と。


初めから弱そうなわたしを狙っていたんじゃないか、と。


なぜだかわからないけど、心の奥底からそんな感情が湧き上がった。


わたしの本能がそう直感したのだ。



「あ……あ…………」



再び、得体の知れない恐怖心がわたしに襲いかかり、声にならない声が漏れ出ていた。


襲い来る強烈な悪寒のせいで、全身から汗が吹き出していく。


寒いわけではないのに、無意識に自分の体を抱き締めてしまう。



いやだ……死にたくない……



師匠がいるのに……何の心配もないはずなのに、なんでこんな事を考えてしまうんだろう。


そんな疑問が浮かんだ瞬間、今度は突然、酷い吐き気が襲ってきた。



な……何……この気持ちは……。



得体の知れない感情が……真っ黒な何かが、胸の中で暴れている。


恐怖心ではないそれが、頭から足の先まで全身で暴れ回っている感覚に体が麻痺し、完全に動かせなくなる。



わたしは、この暴れ回る内なる感情に、必死で耐え続けるしかなかった。




クリムゾンベアの真っ赤な双眸がこちらを見据えている。


でも、師匠は今だに振り向くことはない。


何で振り向かないのかはわからないけど、師匠はずっと動かないまま、わたしたちに背を向けている。


クリムゾンベアはそんな師匠の姿を見て、好機と捉えたのだろう。


小さく鼻を鳴らすと、こちらに向かって走り出した。


その巨躯からは考えられないほど、その動きは速い。


そして、再び大きな咆哮が耳を突く。



そんなヤツの姿を見て、わたしの中の感情がさらに大きく暴れ始めた。


真っ黒な巨体が、こちらに殺意を向けて走ってくる。


恐怖なのか何なのかわからない感情が、まるでわたしの心を鷲掴みにしている感覚に、再び酷い吐き気を催してしまう。



それなのに、ヤツから目を離せない……。



大きくて鋭い爪。


視界の中で、それがゆっくりとわたしに向かってくる様子が見えた。


当たれば一溜まりもないだろう。


わたしの頭なんて、簡単に潰されてしまう。



あぁ……これで終わり……なのかな。



黒い感情もいまだに暴れ回っており、体はまったく動かせない。



わたしは、諦めて目を瞑ってしまった。




だが、そんな時だった。


わたしの耳に師匠の柔らかい声が聞こえてきたのは。



「すまんのぉ。ゆっくり眠ってくれよ。」



そんな慈悲深い言葉と共に、チンッという小さな金属音が聞こえた。


そして、何か重たいものが地面に倒れ込む地響きも。


わたしは恐る恐る目を開けた。




「もう大丈夫じゃ。」



師匠の優しい笑顔が視界に飛び込んできて、ホッとする。


その後ろには首と胴体が分かれ、絶命しているクリムゾンベアの姿も見えた。



よ……よかった……。


助かったんだ……。



わたしの目から温かいものが溢れ落ちる。


気づけば、師匠に抱きついて泣いていた。



「怖い思いをさせてしまったのぉ。すまんかった。すまんかった。」



そう言ってわたしの頭を優しく撫でてくれる師匠。


彼の優しさと温かさを感じ、わたしの胸に安堵が広がっていく。


気づけば、先ほどまでわたしの中で暴れていた黒い感情は、どこかに行ってしまっていた。



あれは……いったい何だったんだろう……。



そんな疑問が浮かぶと同時に、私の眼にはあるものが映し出される。



何か腑に落ちない様子を浮かべる師匠の表情が、優しい笑顔の中に垣間見えたのだった。

ご愛読ありがとうございます!


やはり、じじいは強かったんですね!まずは一安心です!


しかし、パルトが抱いた黒い感情とはいったい…

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