第3話
……心地よい珈琲の香りに誘われるように、僕はゆっくりと目を開けた。
「――あら、気がつかれましたか?」
視界に飛び込んできたのは、レースのカーテンから差し込む柔らかな木漏れ日と、覗き込んでくる一人の少女の顔だった。ウェーブがかった黒髪をハーフアップにし、大きなリボンで留めている。翡翠色の瞳はおっとりと垂れていて、見つめられているだけでこちらの毒気が抜かれてしまいそうな、そんなお嬢様然とした雰囲気をまとっていた。
「ここは……、僕はたしか……」
「ここは如月の屋敷にございます。一昨日の晩、蜘蛛の人喰いに襲われていた私を、あなたが助けてくださったのですよ。覚えていらっしゃいませんか?」
鈴を転がすような声で微笑む。彼女は如月夜と名乗る。僕はあの人喰いを倒したあと、そのまま意識を失ってしまったらしい。
「……ありがとう、如月夜さん。君が無事で何よりだ。僕は深神八雲。……いや、それより、僕の左腕のデバイスはどこだ!?」
慌てて自分の腕を見るとデバイスがない。あの時着ていた、アンダースーツも脱がされており、今は白い寝間着を着せられていた。
「深神様、ご安心を。お探しの『珍しいからくり』なら、こちらに」
低く、深く響く、実に渋い声がした。振り返ると、銀髪を綺麗に整え、仕立ての良い三つ揃えのスーツを着こなした初老の男性が立っていた。手元には、アンティークな銀のトレイ。その上には、僕の『スサノオジェネレーター』が恭しく置かれている。
「私は当家に仕える執事の石動と申します。深神様の身に纏われていた衣服は、当世の技術では修繕不可能なほどに損耗しておりました。勝手ながらこちらで処分し、代わりにこれからの外套をご用意させていただいた次第です」
「処分……。いや、あれは戦闘に必要な……」
アンダースーツは装甲と完璧に噛み合う性能をしている戦闘服だが。まぁ、デバイスが無事なら妥協点か。
「おっと、深神様」
石動さんは、僕の言葉を優しく、しかし確固たる調子で遮った。
「お体が発していたあの尋常ならざる光、そして蜘蛛の人喰いを一撃で粉砕したあの技。普通の人間でないこと、状況からしてこの帝都の人間ではないことくらい、私にも分かります。ですが――お嬢様の命の恩人を、無作法に詮索するほど、私は不調法ではございませんよ」
その瞳には、すべてを察した上での、海のような包容力と深い理解が宿っていた。
「……参ったな。合理的に考えて、この状況で僕を匿うメリットは無いはずなのに」
「メリット、ですか? ふふ、深神さんは面白い言葉を使われるのですね」
如月さんが、クスリと品よく笑った。
「命を救っていただいたのですもの。恩返しをするのは当然の道理ですわ。さあ、いつまでも寝ていては体に毒です。お着替えをして、石動の淹れたとびきりの珈琲を召し上がってくださいな。それから、帝都をご案内いたしますわ!」
「え? 案内って、僕の体はまだ……」
「まあ! 一昨日から丸二日も眠り続けていらっしゃったのですから、体力はもう十分ですわ。さあさあ!」
「ま、待ってくれ!」
「ふふ、問答無用ですわっ!」
おっとりとした見た目とは裏腹に、如月さんの行動は驚くほど猪突猛進だった。愛らしい笑顔のまま、夜さんは掛け布団の端を両手で掴むと、まるで大漁旗でも掲げるかのような勢いで布団を剥ぎ取り、僕は面食らう。
「……石動さん、お嬢様はいつもこうなのか?」
「申し訳ありません、深神様。あのように見えて、一度言い出したら聞かないお方でして。どうぞお付き合いいただけますと、私も救われます」
石動さんが困ったように、しかし愛おしそうに眉を下げて笑う。この二人の空気感には、どうにも頭が上がらない。僕はため息をつきながら、用意された衣服に袖を通した。用意されていたのは、紺色の着物に、縞模様の袴を重ねた『書生服』と呼ばれるものだった。足元は革靴。かつての機能性のみを追求した戦闘服とは真逆の、風情ある装いだ。衣服を整え、居間へと向かう。そこで僕を待っていた二人は、僕の姿を見るなり、同時にその動きをピタリと止めた。
「……あの、何かおかしいだろうか。着付けの寸法が狂っているとか」
「いいえ、お着物はとってもお似合いですわ! ……ただ、その」
如月さんが僕の顔をまじまじと覗き込み、翡翠色の瞳を丸くして、僕の『頭』を指差した。
「ずいぶんと……その、面白い形をされていますのね? 髪が、外側に向けて元気よく撥ねておりますけれど……それは当世の、新しい流行りなのですか?」
「あ、ああ……これか。いや、これは僕の世界の流行りで、ウルフカットといってだな……。その、狼の毛並みを模した、非常に合理的なデザインなんだ」
僕が真面目に説明すればするほど、如月さんは不思議そうに小首を傾げる。
「オオカミ、ですか? ふふ、ハイカラさんを通り越して、まるで未来の異国の方のようですわ!」
「確かに、お嬢様の仰る通りでございますな」
石動さんが珈琲をトレイに乗せて近づきながら、これまた興味深そうに僕の髪に視線を落とした。
「当世の帝都では、黒髪の短髪や丸刈りが主流。深神様のような鮮やかな茶髪で、後ろ髪をあえて残し、外側へと遊ばせる髪型は、西洋のモダンボーイでも早々お目にかかれません。……ですが、その不揃いなようでいて計算された毛先の流れ、実に新鮮で、お若さに満ち溢れておいでだ」
「……石動さんまで。そんなに不合理な頭に見えるだろうか」
大人の包容力で絶妙にフォローされ、僕は気恥ずかしさに顔をしかめるしかなかった。服装は書生服、けれど頭はウルフカット。この奇妙なアンバランスさを二人に笑われながらも、僕は石動さんが淹れてくれたとびきり香ばしい珈琲を飲み干し、屋敷の外へと連れ出された。
如月さんに連れられて一歩、屋敷の外へと足を踏み出した瞬間――僕は、その光景に言葉を失った。そして、推測は的中した。
「やはりここは……、大正の帝都……」
そこには、僕のいた崩壊した世界には存在しない、圧倒的な『生のエネルギー』が満ち溢れていた。赤レンガ造りの豪奢な洋館と、瓦屋根の古風な木造建築が、奇妙な調和を保って並んでいる。通りを見渡せば、着物姿の女性や、洋装のモダンガールが華やかにすれ違い、頭上にはクモの巣のように張り巡らされた電線が、青空を区切っている。ゴトゴトと甲高い音を立てて走る路面電車。パカパカと小気味よい音を響かせる馬車。大気を満たすのは、硝煙ではなく、どこかの露店から漂う甘い焼き芋の香りと、人々の活気ある笑い声。
「どうされました? 深神さん」
きょろきょろと辺りを見回す僕の顔を、如月さんが不思議そうに覗き込んでくる。彼女は今日、矢絣模様の小振袖に、エンジ色の袴を合わせ、編み上げのブーツを履いていた。大正の街並みに、彼女の姿はあまりにも美しく溶け込んでいる。
「……いや。合理的とは言えない混沌とした街並みだけど……綺麗だな、と思って」
「ふふ、そうでしょう? 私の、大好きな街ですわ」
自慢げに胸を張る夜さんの笑顔を見て、僕の胸の奥がチクリと痛んだ。
(もしこの美しい世界が過去ならば、いつかあの化け物たちに蹂躙され、僕のいた崩壊した未来へ繋がるというのか……?)
そんなことは、絶対にさせない。
「さあ、深神さん! 次はあちらの美味しい和菓子のお店へ行きましょう!」
「ちょっと待ってくれ如月さん! 僕の歩幅を計算に入れてくれないか!」
「夜、とお呼びくださいな!」
僕の手を引いて、おっとりと、しかし力強く駆けていく夜さん。未来を救うという重い決意を抱きながらも、僕はその突飛な温かさに、心地よく振り回されていた。




