第十一章 「ここにいる」
五月になっていた。
街路樹の葉が濃くなって、風の中に緑の匂いが混じるようになった。
朝、駅まで歩く時間が、少し気持ちよくなった。
それだけのことを、燈は今年は少し丁寧に感じていた。
去年の五月も同じ道を歩いていたはずなのに、同じには思えなかった。
紗江と会うようになって、もうすぐ七ヶ月になる。
七ヶ月、と数えてから、そんなに経ったのかと思った。
長い気もするし、短い気もした。
どちらともわからないのは、たぶん、その時間が自分の中に自然に溶け込んでいるからだと思った。
特別な時間だったのに、特別という感じがしなくなっていた。
それは、薄れたのではなく、馴染んだのだと燈は思っていた。
日曜日の午後、紗江の部屋にいた。
初めて来たのは四月の終わりだった。
どちらが言い出したか、もう覚えていない。
気づいたら、そういう流れになっていた。
紗江の部屋は、想像していた通りだった。
広くはないが、整っていた。
本棚があって、文庫本が並んでいた。
背表紙の向きが揃っていた。
窓際に小さなテーブルがあって、椅子が二脚あった。
今は二脚とも使われていた。
紗江は本を読んでいた。
燈はテーブルの上に雑誌を広げていたが、途中からほとんど読んでいなかった。
窓から入る光が、部屋の中で動いていた。
その動きを、なんとなく見ていた。
静かだった。
この静けさが、今は苦ではない。
最初のころは、沈黙が続くと何か言わなければという感覚があった。
いつからそれがなくなったか、燈にはわからない。
気づいたらなくなっていた。
「コーヒー、飲みますか」と紗江が本から目を上げずに言った。
「いただきます」
「もう少ししたら」
「急がないです」
また静かになった。
紗江がページをめくる音がした。
外で鳥が鳴いた。
遠くで子どもの声がした。それだけだった。
燈は窓の外を見た。
空が青かった。
五月の空は、冬の空とも秋の空とも違う。
光の角度が違うのか、色の深さが違うのか、うまく言えないが、今の季節の空だと体でわかる。
去年の五月、この時間に何をしていたか、思い出せなかった。
今年の五月は、たぶん忘れない気がした。
コーヒーを淹れながら、紗江が「雪国、もう一度読んでますか」と言った。
「読んでいないです」
「また図書館で借りますか」
「買いました」
紗江が振り向いた。
「買ったんですか」
「手元に置いておきたくなって」
「読みましたか」
「読みました。二回」
紗江が少し目を細めた。
目を細めた、というより、何か温かいものが顔に出た、という感じだった。
「どうでしたか、二回目」
「一回目より、広かったです」
「そうか」と紗江は言った。
小さく、でも確かに、嬉しそうな声だった。
コーヒーを二つ持って、テーブルに戻った。
紗江が向かいに座った。
カップを両手で包む癖は、一月の川沿いで初めて気づいて、今も変わらなかった。
「紗江さん」と燈は言った。
「はい」
「今、幸せですか」
紗江が少し止まった。
止まってから、カップを持ったまま、少し考えた。
「急ですね」
「急ですが」
「……幸せかどうか、うまく判断できないですが」
「できないですか」
「幸せという言葉が、大きすぎて。自分に当てはまる気がしなくて、いつも」
燈は頷いた。
わかる気がした。
幸せという言葉は、どこか遠くにある言葉のような気がして、自分の足元には見つからない。
「じゃあ」と燈は言った。
「今、ここにいていいと思っていますか」
紗江がゆっくり燈を見た。
「……思っています」と紗江は言った。
「俺も思っています」
それだけだった。
それだけで十分だった。
幸せかどうかわからなくても、今ここにいていいと思えること。
それが今の二人の言葉だった。
大きな言葉より、足元にある言葉の方が、二人には合っていた。
コーヒーを飲んだ。
温かかった。
紗江がまた本を開いた。
燈もまた雑誌に目を落とした。
今度は少し読めた。
窓から光が入って、部屋の中でゆっくり動いた。
時間が、静かに流れていた。
夕方近くなって、燈は帰り支度をした。
玄関で靴を履きながら、「また」と言いかけて、止まった。
「今度」と言い直した。
紗江が小さく笑った。
「今度」と紗江は言った。
「いつにしますか」
「来週末」
「来週末」
「都合が悪ければ」
「悪くないです」と紗江は言った。
いつもの答えだった。
ドアを開けると、夕方の風が入った。
五月の風は、柔らかかった。
「夏になったら」と燈は言った。
「夏になったら」と紗江は繰り返した。
「少し遠くまで行きましょう」
紗江が少し首を傾けた。
遠く、というのがどこか、聞かなかった。
聞かなくていい、と思ったのかもしれない。
「いいですね」と紗江は言った。
「じゃあ」
「気をつけて」
燈は階段を降りた。
外に出ると、空がまだ明るかった。
五月の夕方は、日が長い。
去年より今年の方が、その長さが嬉しかった。
歩きながら、今ここにいていいと思っています、という紗江の言葉を思い出した。
自分も、そう言えた。
言えたことが、今日一番のことだった気がした。
特別なことは何もなかった。
コーヒーを飲んで、本を読んで、窓の光を見ていた。
それだけの午後だった。
それだけの午後が、今の燈には十分だった。
電車に乗って、窓の外に夕暮れが流れた。
夏になったら、と言った言葉が、頭の中でまだ温かかった。
少し遠くまで。
その先に、あの夜の終点がある気がした。




