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第十章 「遠くなる前に」

 四月に入って、桜が咲いた。

 街が急に柔らかくなった。

 人の顔が変わった。

 新しい人たちが駅の改札を通り、地図を見ながら歩いていた。


 紗江は毎年この季節が少し苦手だった。

 新しいものが一斉に始まる感じが、自分には関係ない場所で何かが動いている感じがして、落ち着かなかった。

 今年はそれが少し違う、と思っていた。

 思っていたのに、四月の第二週に入ったころから、紗江は燈との連絡の返信を、少し遅らせるようになっていた。

 意図していたわけではなかった。

 最初は、忙しかった。仕事の引き継ぎが重なって、昼休みも席を立てない日が続いた。

 それが終わっても、なんとなく、すぐに返せなかった。

 返せない理由が、自分でもよくわからなかった。


 美穂に気づかれたのは、木曜日だった。

「紗江ちゃん、最近どう」と美穂が言った。

「普通です」

「また普通」

「普通です」

 美穂がしばらく紗江を見た。

「沢井くんと、何かあった?」

「何もないです」

「何もないのに、最近また顔が戻ってる」

「戻ってる、とは」

「前の顔。表情が少ない顔」


 紗江は何も言わなかった。否定できなかった。

「何もないんですけど」と少ししてから言った。

「何もないのが、少し怖くて」

 美穂が少し首を傾けた。

「何もないのが怖い、というのは」

「うまく言えないです」

 美穂は追わなかった。

 ただ、「そっか」とだけ言って、コーヒーを飲んだ。


 紗江が自分の中で起きていることに気づいたのは、その夜、部屋で一人でいる時だった。

 燈と会うようになってから、自分が変わった。

 変わったことは、悪いことではなかった。

 表情が増えた、と美穂に言われた。

 蓋が外れた、と自分でも思った。

 笑うつもりがないのに笑っていることが、増えた。

 それは全部、本当のことだった。

 でも、変わっていく自分が、時々怖かった。


 今まで蓋をして生きてきた。

 蓋をすることで、傷つかずに済んでいた。

 感情を出さなければ、感情で失敗しない。

 そういう均衡の中に、ずっといた。

 その均衡が、燈といることで少しずつ崩れていった。

 崩れることは、怖かった。

 崩れた先に何があるかが、わからなかった。

 近づきすぎているのかもしれない、と思った。

 近づきすぎると、離れる時に痛い。

 離れるかどうかわからないのに、そこまで考えていた。

 考えていること自体が、自分らしくなかった。

 らしくなくなっていることが、また怖かった。

 怖い、という感情が、こんなに種類を持っているとは知らなかった。


 土曜日、燈から「今日、時間ありますか」と連絡が来た。

 紗江は少し止まった。

 返信が遅れていることを、燈は何も言わなかった。

 責める文面でも、確認する文面でもなかった。

 ただ、いつも通りに聞いてきた。

 その、いつも通り、がまた少し怖かった。


 紗江は「今日は少し、難しいです」と返した。

 すぐに「わかりました」と返ってきた。

 それだけだった。

 それだけ、のことが、紗江の中で何かをかき回した。

 責めてこない。

 追ってこない。

 ただ、わかりました、と言う。

 それが燈という人だと知っていた。

 知っていたのに、今日はその「わかりました」が、少し遠く感じた。

 遠く感じたのは、燈が遠いからではなく、自分が引いているからだと、紗江にはわかっていた。

 わかっていて、引いていた。


 翌週の月曜日、廊下で燈とすれ違った。

 いつも通り、燈が先に気づいて、軽く頷いた。

 紗江も頷いた。

 それだけで通り過ぎた。


 通り過ぎてから、足が少し重くなった。

 十月のころと同じだ、と思った。

 あの頃は、目が合うと何も言わずに通り過ぎていた。

 それがあたりまえだった。

 今は、通り過ぎることが、少し痛かった。

 痛い、と感じていることに気づいた。

 蓋をしていた時は、痛いとも思わなかった。

 思わないように、していた。

 今は痛いと感じる。

 感じることができる。

 それは、蓋が外れたということだった。

 外れた蓋は、もう元には戻らない。

 戻らないことが、怖いのではないかもしれない、と紗江は思った。

 戻れないのに戻ろうとしていることが、怖いのかもしれなかった。


 火曜日の昼休み、紗江は燈に連絡した。

「今日の昼、社食行きますか」

 少しして、返信が来た。

「行きます」

 それだけだった。

 社食で隣に座った。

 トレーを並べた。

 燈は何も言わなかった。

 責めなかった。

 先週のことを蒸し返さなかった。

 ただ、いつも通りに座って、いつも通りに食べはじめた。


 紗江は少し息を吸った。

「先週、すみませんでした」

「いえ」と燈は言った。

「少し、怖かったんです」

 燈が紗江を見た。

「何が」

「近づきすぎることが。自分が変わっていくことが」

 燈はしばらく黙った。

 黙ってから、「そうですか」と言った。

「怒ってないですか」

「怒ってないです」

「なぜ」

「怖くなることは、あると思うので」

 紗江は少し止まった。

「燈さんは、怖くないですか」

 燈がまた少し黙った。

 今度は長かった。

「怖いです」と燈は言った。

「俺も、変わってきているので。変わることに、慣れていないから」

「そうか」と紗江は言った。「同じだ」

「同じかもしれないです」


 二人で少し黙った。社食の音が、遠くで続いていた。

「でも」と燈は言った。

「怖い方向が、悪い方向じゃない気がしています」


 紗江はその言葉を、少し頭の中に置いた。

 怖い方向が、悪い方向じゃない。

 そうかもしれない、と思った。

 蓋が外れることが怖いのは、蓋の向こうに何かがあるからだ。

 何もなければ、怖くない。

 怖いということは、何かがある。

 その何かは、悪いものではないのかもしれない。

「そうですね」と紗江は言った。

 燈が小さく頷いた。

 食事を再開した。

 隣に座って、並んで食べた。

 先週と同じ場所で、同じように食べた。

 でも、同じではなかった。

 少し、深いところが変わっていた。

 揺れてから戻ってきた場所は、揺れる前より少し、地面が固い気がした。


 昼休みの終わりに、席に戻りながら、紗江は「今週末」と言った。

「今週末」と燈は繰り返した。

「どこでもない場所に」

 燈が少し笑った。

 今度ははっきりと、口元が動いた。

「行きましょう」と燈は言った。

 紗江も笑った。

 笑ってから、笑っていることに気づいた。

 蓋をしていた時には、なかったことだった。

 それでいい、と思った。

 戻らなくて、いい。

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