エピローグ 「終点まで」
七月の終わりだった。
夜の電車は冷房が効いていて、外の熱気とは別の世界のように静かだった。
燈は窓際の席に座って、窓の外を見ていた。
隣に紗江がいた。
同じ電車に乗ったのは、偶然ではなかった。
今夜は会社の飲み会があって、同じフロアの人間が何人か集まった。
紗江も来ていた。
最近はそういうことが普通になっていた。
同じ場にいて、それぞれに話して、帰り際に自然に並ぶ。
特に示し合わせるでもなく、そうなっていた。
電車に乗った時、紗江が「今日、乗り過ごしてみませんか」と言った。
燈は少し止まった。
「乗り過ごす、というのは」
「意図して、ということです。終点まで」
燈はしばらく紗江を見た。
紗江は窓の外を向いていた。
向いたまま、少し待っていた。
「行きましょう」と燈は言った。
去年の十月、燈はこの電車で眠っていた。
飲み会の帰りで、気づいたら終点だった。
それだけのことだった。
隣に紗江がいたのは、ただの偶然だった。
乗り過ごしましたね、と言われて、そうですね、と答えた。
それだけだった。
あの夜から、もうすぐ一年になる。
今夜は眠っていない。
隣に紗江がいる。
偶然ではない。
それだけのことが、燈には今夜、少し大きく感じられた。
大きく、というより、重い、というより、確かだった。
確かにここにある、という感触だった。
窓の外に、夜の街が流れていった。
駅を過ぎるたびに、人が降りた。
車内が少しずつ静かになっていった。
「あの夜」と燈は言った。
「乗り過ごしてから、家に帰って、すぐ眠れたんです」
「そうなんですか」
「なぜか眠れる気がした。それが不思議で、少し覚えています」
紗江が窓の外を見たまま、「なぜだったと思いますか」と聞いた。
燈は少し考えた。
「今は、少しわかる気がします」
「何が」
「静かだったから。あの夜、紗江さんの隣が静かだったから」
紗江が燈を見た。
燈も紗江を見た。
どちらも何も言わなかった。
言わなくても、伝わっていた。
伝わっていることを、二人とも知っていた。
電車が終点に近づいていった。
終点のホームは、がらんとしていた。
夜の十一時を過ぎていて、駅員が一人、遠くを歩いていた。
ベンチが並んでいて、自動販売機が光っていた。
去年の十月と、たぶん何も変わっていない場所だった。
紗江はホームに降りて、少し周りを見た。
去年ここに来た時、紗江は一人だと思っていた。
終点まで来てしまったという、少し間の抜けた感覚の中に、一人でいた。
隣に人がいることに、しばらく気づかなかった。
気づいてから、乗り過ごしましたね、と言った。
他に言葉が思いつかなかった。
今夜は、最初から隣にいる。
「同じ場所ですね」と紗江は言った。
「同じ場所です」と燈は言った。
「全然違いますね」
「全然違います」
二人で少し笑った。
同じタイミングで笑った。
ホームの端まで歩いた。
線路が暗い中に続いていた。
夜風が来て、紗江のマフラーを少し揺らした。
七月なのにマフラーはないが、あの夜の感触が体のどこかに残っていた。
「燈さん」と紗江は言った。
「はい」
「去年の夜、声をかけてよかったです」
燈が少し間を置いた。
「俺も、答えてよかったです」
それだけだった。
それだけで十分だった。
二人の間に積み上がってきたものを、大きな言葉で包もうとしなかった。
包まなくても、ここにある。
足元に、確かにある。
紗江はホームの先を見た。
今いる場所が、少し広くなっている、と思った。
燈と話すようになってから、ずっとそう思ってきた。
図書館で、公園で、喫茶店で、川沿いで、部屋の窓際で。
そのたびに、少しずつ広くなってきた。
広くなることが怖かった時もあった。
怖い方向が悪い方向じゃないと、燈が言った。
そうかもしれない、と思った。
今は、そうだと思っている。
蓋は、もう要らない。
感情を持て余すことも、まだある。
うまく言えないことも、まだある。
それでも、蓋をしなくていい場所が、一つできた。
その場所が今夜、終点のホームにある。
「帰りの電車、調べますね」と紗江は言った。
「俺が調べます」と燈は言った。
スマートフォンを取り出した。
「あります?」
「あります。あと十七分」
「じゃあ、もう少しいましょう」
「いましょう」
二人でホームのベンチに並んで座った。
自動販売機の光が、足元まで届いていた。
遠くで電車の音がした。
どこかへ向かう電車の音だった。
十七分、何も話さなかった。
話さなくても、隣にいた。
隣にいることが、今の二人には言葉と同じだった。
いや、言葉より少し多かった。
言葉にならないものが、隣にいることの中にあった。
電車が来た。
二人で乗った。
今度は乗り過ごさなかった。
乗り過ごさなくても、隣にいた。
それで十分だった。
それ以上のことは、何もいらなかった。
窓の外に、夜の街が流れた。
来た道を、戻っていった。
紗江は窓の外を見ながら、今夜のことを、忘れないと思った。
忘れたくない、ではなく、忘れない、と思った。
それだけの夜だった。
隣で燈が、静かに窓の外を見ていた。
それだけで、よかった。
完




