第三章「社会人、また動きだした恋」
「……で、またその顔」
居酒屋のカウンター席。
向かいに座る裕史が、呆れたように言う。
「どの顔」
「“人生諦めてます”みたいな顔」
「失礼」
「図星だろ」
図星だった。
美鈴は小さくため息をつく。
「別に諦めてるわけじゃない」
「ただ、必要ないだけ」
「出た」
「何が」
「“恋愛いらないです”って言いながら、たまに寂しそうにするやつ」
「……しない」
「する」
即答される。
昔から、裕史には敵わない。
「ていうか」
裕史がグラスを置く。
「そのまま一生ひとりでいいの?」
「いいよ別に」
「嘘」
「……なんでそう思うの」
裕史は少しだけ笑って。
「お前、本当に平気なやつはそんな何回も“平気”って言わねぇよ」
と言った。
返す言葉が、なかった。
翌週。
「今日からインターン入るから、黒田さん教育よろしく」
上司の声に、美鈴は「はい」と返す。
会議室の扉が開く。
「谷沢海です。よろしくお願いします、先輩」
その瞬間。
止まったままだと思っていた時間が、
少しだけ動き出した。
茶髪のベリーショート。
人懐っこい笑顔。
距離の詰め方が妙に自然で、やけに人当たりがいい。
――こういうタイプ、苦手。
軽そうで。
誰にでも同じ顔をしていそうで。
たぶん、信用すると痛い目を見る。
そう思った。
「黒田さんって、意外と怖いっすよね」
「は?」
インターン初日の昼休み。
いきなり失礼なことを言われて、美鈴は眉をひそめた。
「いや、なんか最初もっと優しい人だと思ってました」
「十分優しいでしょ」
「そういうとこっすよ」
「どういうとこ」
海はケラケラ笑う。
失礼なくせに、不思議と嫌味がない。
だが。
仕事になると、彼は別人だった。
「……これ、昨日の資料見て自分なりに整理してきました」
差し出された資料を見て、美鈴は思わず目を見開く。
新人とは思えないほど丁寧にまとめられていた。
「……すご」
「一応、本気でここ来てるんで」
軽い笑顔のまま言うその目だけが、真剣だった。
その瞬間。
少しだけ、見方が変わった。
「黒田さんって、思ったより喋るんすね」
「……またそれ?」
「いや、嬉しいっす。俺だけ心開いてもらえてる感じして」
「勘違い」
「じゃあもっと頑張ります」
「何を」
「口説き落とすの」
心臓が、一瞬止まりそうになった。
「……冗談でしょ」
「半分くらいは」
「半分も本気なの?」
「はい」
あまりに真っ直ぐで、
思わず言葉を失った。
こういうの、困る。
年下で。
距離感近くて。
冗談みたいに好意を口にして。
でも時々、本気の顔をする。
――困るに決まってる。
そしてその頃から。
橋本裕史の態度が、
少しずつ変わり始めていた。
「……で、そのインターンの子とはどうなの」
居酒屋のカウンター席。
裕史が何気ないふうを装って聞いてきた。
「どうって?」
「いや、最近よく話題出るから」
「別に。教育係してるだけ」
「ふーん」
明らかに納得していない返事だった。
「なに、その反応」
「いや別に」
「絶対なんかあるでしょ」
問い詰めると、裕史は少しだけ眉を寄せた。
「……そいつ、お前のこと好きだろ」
不意打ちだった。
「は?」
「聞いてりゃわかる」
「そんなわけ」
「ある」
即答。
妙に断定的なその言い方に、少しだけ戸惑う。
「……仮にそうだとしても、ないよ」
「なんで」
「年下だし」
「大学生だし」
「軽そうだし」
並べ立てると、裕史はなぜか複雑そうな顔をした。
「……じゃあ、押されたら落ちんの?」
「は?」
「本気で来られたら」
その問いに、言葉が詰まる。
考えたこともなかった。
「……知らない」
「ふーん」
それ以上、裕史は何も言わなかった。
けれどその表情は、
どこか面白くなさそうだった。
数日後。
「黒田さん、今日仕事終わり空いてます?」
オフィスで、海が当然のように聞いてくる。
「空いてるけど」
「じゃあ飯行きましょ」
「なんで」
「好きな人誘うのに理由いるんすか」
さらっと言われて、心臓が跳ねた。
「……そういう冗談いいから」
「冗談じゃないっす」
真っ直ぐな目だった。
逃げ場がなくなるくらい、真っ直ぐで。
その日の夜。
なぜか美鈴は、そのことを裕史に言えなかった。
そして。
その沈黙が。
少しずつ、
何かを変え始めていた。
結局、その日は断りきれなかった。
「……ご飯だけだからね」
「最初からそのつもりっす」
海は満足そうに笑った。
想像していたより、ずっと楽しかった。
会話は途切れないし、
気遣いもできるし、
年下特有の子どもっぽさもない。
むしろ時々、驚くほど大人びた顔をする。
「黒田さんって、もっと隙ない人かと思ってました」
「どういう意味?」
「ちゃんと笑うし、ちゃんと可愛いなって」
「……そういうの軽い」
「本気なのに?」
まただ。
冗談みたいな顔で、本気を言う。
困る。
こんなの、慣れてない。
でも。
嫌じゃない自分がいた。
その帰り道。
スマホが震える。
裕史
『今日飲まね?』
画面を見た瞬間。
なぜか胸が少しだけ痛んだ。
『ごめん、今日予定ある』
送信して、少し後悔する。
すぐに返信が来た。
『そっか。りょーかい』
たったそれだけ。
いつも通りの軽い文面。
なのに。
その短さが妙に引っかかった。
それから数日。
裕史からの連絡は減った。
飲みに誘われることもなくなった。
仕事終わりにたわいない連絡が来ることも減った。
忙しいだけかもしれない。
そう思うのに。
妙に落ち着かなかった。
「……黒田さん」
オフィスの帰り、海がふと真面目な声で言った。
「俺、たぶん本気で好きです」
足が止まる。
「最初は綺麗な人だなってだけだったけど」
「今はちゃんと中身ごと好きです」
冗談じゃない顔だった。
逃げられないくらい、真っ直ぐだった。
「……ごめん」
咄嗟に出たのは、その言葉だった。
「まだ、そういうの……考えられなくて」
海は少しだけ寂しそうに笑って、
「そっすか」
とだけ言った。
その夜。
なぜか真っ先に思い浮かんだのは、
橋本裕史の顔だった。
どうして。
断ったのに。
ちゃんと、断ったはずなのに。
胸の奥がこんなにざわつくんだろう。
海の告白を断ってからも。
胸のざわつきは、消えなかった。
違う。
海のことじゃない。
たぶん、これは。
もっと別の――
「……なんでこんな気になるの」
スマホを見つめたまま、美鈴はひとり呟く。
トーク画面の一番上には、橋本裕史の名前。
最後のやり取りから、もう一週間近く経っていた。
今までならありえなかった。
どちらからともなく連絡して、
くだらない会話をして、
気づけば会っていたのに。
なのに。
自分から送る勇気が出ない。
もし。
私だけが寂しいと思っていたら?
もし。
今までの関係を、
私だけが特別だと思っていたら?
――また、勘違いだったらどうするの?
その夜。
スマホが震えた。
裕史
『今、店いるけど来る?』
心臓が跳ねた。
返信なんて考える前に、
『行く』
と送っていた。
居酒屋の暖簾をくぐる。
カウンター席で振り返った裕史は、
少しだけ驚いた顔をした。
「……マジで来た」
「呼んだのそっちでしょ」
「いや、来ると思わなくて」
「何それ」
いつも通りの軽口。
なのに。
顔を見た瞬間、
どうしようもなく安心した自分がいた。
「……海くんとはどうなった」
不意に、裕史が聞いた。
「え?」
「進展あったんだろ」
なぜ分かるの、と聞こうとして。
やめた。
思えば、昔からそうだった。
言わなくても伝わる、そんな関係性。
「……断ったよ」
その瞬間。
裕史の表情が、わずかに揺れた。
「なんで」
「……好きじゃないから」
「そっか」
その一言に、
少しだけ安堵が混じっていた気がした。
沈黙。
いつもなら苦にならないそれが、
今日は妙に息苦しい。
「……なあ」
先に口を開いたのは、裕史だった。
「お前さ」
その声は、今まで聞いたことがないくらい真剣で。
「いつまで、“怖い”の言い訳にして逃げてんの」
息が止まる。
「向いてないとか言って」
「傷つきたくないだけだろ」
図星だった。
痛いほど。
「……っ、違」
「違わねぇよ」
裕史が苦しそうに笑う。
「ずっと見てたからわかる」
その言葉に。
心臓が、壊れそうなくらい鳴った。
「……ずっと見てたからわかる」
その言葉が、頭の中で何度も反響した。
裕史は、少しだけ目を伏せて笑った。
諦めたみたいな、
困ったみたいな、
そんな顔だった。
「大学の頃からも」
「今も…」
「好きになっては勝手に傷ついて」
「そのたび“向いてない”って言って逃げて」
「……見てて、もどかしかった」
胸が苦しい。
息が浅い。
何かを言わなきゃいけないのに、
言葉が出てこない。
「でも」
裕史が、まっすぐこちらを見る。
「もう無理だわ」
その一言だけで、
全部を悟った。
「友達のままでいようと思ってた」
「お前が誰かと幸せになるなら、それでいいって思ってた」
少し掠れた声だった。
「でも」
「他のやつに取られそうになって、無理だった」
「大学時代の時には後悔した」
世界が止まったみたいだった。
「もう同じ後悔はしない」
「…だから…好きだ」
「美鈴、俺と付き合ってほしい」
その瞬間。
ずっと見ないふりをしてきた感情が、
一気に胸の奥から溢れ出した。
ずっとそうだった。
嬉しい時、真っ先に話したかったのは裕史だった。
辛い時、会いたかったのは裕史だった。
誰かに好意を向けられて、真っ先に思い浮かんだのも裕史だった。
――なんで今まで気づかなかったんだろう。
「……でも」
声が震える。
「私、怖い」
涙が滲む。
「また好きになって」
「また傷ついたらって思うと、怖い」
裕史は少しだけ目を細めて。
泣きそうなくらい優しく笑って、静かに頷く。
「……うん」
「知ってる」
その優しさが、
余計に涙を溢れさせた。
「また、うまくできないかもしれない」
「重いって思われるかもしれない」
「好きになりすぎて、苦しくなるかもしれない」
吐き出すたび、
今まで胸の奥に押し込めていたものが溢れていく。
「それでも怖い」
情けないくらい、震える声だった。
裕史は、そんな私を見て笑った。
呆れるでもなく、困るでもなく。
ただ、どうしようもなく愛しいものを見るみたいに。
「……じゃあ、怖いままでいい」
その一言で。
張り詰めていた何かが、
音を立てて崩れた。
「恋愛って、たぶんそういうもんだろ」
「好きになったら不安になるし」
「傷つく時は傷つくし」
「正解なんて、最後までわかんねぇよ」
「でも」
裕史が、一歩だけ近づく。
「それでもお前がいいって思ったから、言った」
涙が止まらなかった。
ああ。
きっと私は。
ずっと、こう言ってほしかったんだ。
傷つかない保証なんてなくていい。
完璧な愛され方じゃなくていい。
怖くても、不安でも。
それでもこの人となら。
「……私も」
喉が詰まる。
それでも、今度は逃げなかった。
「私も、裕史が好き」
「…なんだと思う」
歯切れの悪い答えしかできない自分に腹が立つ。
でも、これが今の精一杯の答え。
その瞬間。
裕史の目が、少しだけ見開かれる。
「……反則だろ、それ」
「なにが」
「今の顔、可愛すぎて無理」
「うるさい」
泣き笑いみたいな声で返すと、
裕史もつられて笑った。
「それでいい、今はそれでいいんだよ」
「ゆっくりでいいから」
「2人で悩んだり、怒ったり、笑ったり」
「全部、大切な時間にしよう?」
その夜。
初めて繋いだ手は、
少し汗ばんでいて。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
恋愛に向いていない人間なんて、
たぶん最初からいなかったんだと思う。
ただ。
傷つくのが怖くて、
踏み込めなかっただけ。
それでも。
怖いままでも、
誰かを好きになっていいのだと。
ようやく私は、知ることができた。




