第二章「大学時代、踏み込んで傷ついた恋」
大学生活が始まってすぐ、
美鈴は二つのアルバイトを始めた。
一つは駅前の居酒屋。
もう一つは、ショッピングモール内のアパレルショップ。
「よろしくお願いしまーす」
先に慣れたのは、居酒屋の方だった。
騒がしくて、忙しくて、
でもその分みんな距離が近くて、楽だった。
「黒田ー、7テーブル片してー!」
「はーい!」
「動きいいじゃん、新人」
背後から聞こえた声に振り返る。
そこにいたのは、明るい茶髪の男。
「橋本裕史。たぶん一個上」
「“たぶん”って何」
「年齢とかあんま覚えねぇから」
「最低」
初対面から遠慮なく笑ってくるその人に、
少し拍子抜けした。
人懐っこくて、軽くて、うるさい。
けれど不思議と嫌じゃなかった。
そして。
もう一つの出会いは、
もっと静かに、自然に始まった。
「新人さん?」
アパレルショップのバックヤードで、
声をかけられて振り返る。
そこにいたのは。
長い金髪を後ろでひとつに結んだ、
見惚れるほど整った顔立ちの男だった。
「……あ」
「緊張してる?」
柔らかく笑って、その人は手を差し出した。
「佐々木誠司。よろしく」
その瞬間。
私はたぶん、少しだけ思った。
――今度こそ、ちゃんとできるかもしれない。
佐々木誠司は、ずるい人だった。
――もちろん、悪い意味じゃない。
ただ、あまりにも自然に優しかった。
「黒田さん、その畳み方だとシワ寄るよ」
「あ、ごめんなさい」
「ほら、こう」
背後に回って手本を見せる仕草も。
「接客、焦らなくていいよ。最初はみんなそんなもん」
失敗して落ち込む美鈴に、
さりげなくフォローを入れる言葉も。
「今日頑張ってたじゃん」
帰り際にさらっと褒めるところも。
全部がちょうどよくて、
押しつけがましくなくて、
心地よかった。
「……好きなんじゃないの、もう」
大学帰り、居酒屋バイト終わりの帰り道。
隣を歩く裕史がニヤニヤしながら言った。
「は!? なに急に」
「いや、最近ずっとその人の話しかしねぇじゃん」
「してない」
「してる。“誠司さんがね” “誠司さんってね”って」
「……うるさい」
図星だった。
でも。
「前みたいには、ならないよ」
ぽつりと零すと、裕史が少しだけ表情を変えた。
「……どういう意味?」
「今度はちゃんとするって決めたから」
好きなら、ちゃんと伝える。
逃げない。
勘違いを怖がって、何もできないまま終わるのは嫌だ。
あの頃の自分には戻りたくなかった。
裕史は少し黙ってから、笑った。
「……そっか」
その表情は笑顔なのに、どこか困っているように感じた。
それから数ヶ月。
誠司との距離は少しずつ縮まっていった。
シフト終わりに二人で帰ることが増えた。
仕事の相談をするようになった。
好きな映画も、音楽も、意外なくらい趣味が合った。
気づけば。
美鈴はもう、
完全に彼に恋をしていた。
「黒田」
帰り道。
夜の駅前で、誠司が立ち止まる。
「……今度、仕事抜きで会わない?」
心臓が、跳ねた。
――今度こそ。
今度こそ、この恋は。
ちゃんと始まる気がした。
その日から、世界が少しだけ色づいた気がした。
佐々木誠司と会う日は、
朝から何を着るか悩んでしまうし。
返信が来るだけで嬉しくて、
予定が決まるだけで一週間頑張れた。
――恋って、こういうものだったんだ。
高校時代には知れなかった感情を、
美鈴はひとつずつ覚えていった。
「黒田って、意外とよく喋るよね」
カフェで向かい合った誠司が、ふと笑った。
「……どういう意味ですか、それ」
「いや、最初もっと静かな子だと思ってた」
「それは誠司さんが話しやすいからです」
口にしてから、はっとする。
言い慣れない言葉だった。
だが誠司は照れたように笑って、
「……それ、普通に嬉しい」
と言った。
その瞬間。
胸の奥が熱くなった。
交際が始まったのは、その少し後だった。
夜の帰り道。
「俺、黒田のこと好きだよ」
そう言われて。
泣きそうになるくらい、嬉しかった。
初めて手を繋いだ日。
初めて名前を呼び捨てにされた日。
初めて恋人として隣に並んだ日。
全部が新鮮で、愛おしかった。
ようやく思えた。
――私でも、ちゃんと恋愛できるんだって。
「最近めっちゃ幸せそうじゃん」
居酒屋の休憩中、裕史がジュース片手に言った。
「そんなことない」
「ある。顔に出てる」
「出てない」
「出てる」
即答されて、思わず笑う。
「……ありがとね」
「何が」
「前、背中押してくれたから」
あの時、
“今度はちゃんとする”と言った自分を、
笑わずに聞いてくれた。
それが少しだけ心強かった。
裕史は一瞬だけ目を伏せてから、
「……うまくいってんなら、それでいい」
とだけ言った。
幸せだった。
ちゃんと、幸せだった。
だからこそ。
少しずつ生まれ始めていた違和感に、
最初は気づかないふりをした。
違和感は、本当に些細なところから始まった。
連絡の頻度が、思ったより少ない。
美鈴が送れば返ってくる。
でも、誠司から来ることはあまりない。
「来週どっか行きません?」
『ごめん、その日予定ある』
『じゃあ再来週は?』
『そのへん忙しいかも』
会えば優しい。
会っている時はちゃんと恋人だった。
でも、会っていない時間にふと不安になる。
――私ばっかり、好きなんじゃないか。
「考えすぎだよ」
そう自分に言い聞かせた。
恋愛経験が少ないから、
距離感がわからないだけかもしれない。
これが普通なのかもしれない。
重いと思われたくなかった。
面倒な女だと思われたくなかった。
だから、飲み込んだ。
けれど。
飲み込めば飲み込むほど、
苦しくなった。
「……なんかあった?」
居酒屋終わりの帰り道。
隣を歩く裕史が、珍しく真面目な声で聞いた。
「え?」
「最近、元気なくね」
「そんなことないよ」
「嘘下手」
図星だった。
少し迷ってから、美鈴はぽつりと零した。
「……私ばっか好きみたいで、ちょっと疲れたかも」
言葉にした瞬間、
胸の奥の何かが少しだけ崩れた。
裕史はすぐには答えなかった。
しばらく黙って歩いてから、
「……それ、ちゃんと本人に言えよ」
とだけ言った。
「重いって思われるかも」
「思うようなやつなら、その程度だろ」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
だから。
私は、ちゃんと伝えようと思った。
今度こそ逃げずに、
向き合おうと決めた。
でも。
その選択が、
私をもっと深く傷つけることになるなんて。
この時はまだ、知らなかった。
「……話したいことがあるんですけど」
そう切り出した時、
誠司は少しだけ困ったように笑った。
「うん」
駅近くの小さな公園。
ベンチに並んで座る距離が、今日は妙に遠く感じた。
手のひらが汗ばんでいた。
「最近、その……」
「私ばっかり好きみたいで、不安になる時があって」
声が震えないようにするだけで精一杯だった。
「連絡とか、会いたい頻度とか」
「そういうの、私だけ温度高いのかなって……」
誠司は黙って聞いていた。
その沈黙が、何より怖かった。
「……ごめん」
やがて、彼は小さく息を吐いた。
その一言で、すべてを悟った。
「黒田は、何も悪くない」
違う。
そういう前置きの時に、
良い話だったことなんて一度もない。
「ただ……」
誠司は視線を落としたまま、続けた。
「ごめん」
「俺は、黒田ほど好きになれてなかった」
世界の音が、全部遠のいた気がした。
泣くつもりなんてなかった。
取り乱すつもりもなかった。
でも。
「……そっか」
絞り出した声は、情けないほど震えていた。
責められなかった。
だって誠司は、最後まで誠実だった。
嘘をつかなかった。
誤魔化さなかった。
ちゃんと向き合ってくれた。
だからこそ、苦しかった。
“嫌いになった”ならまだよかった。
“他に好きな人ができた”ならまだよかった。
でも違った。
私の方が、好きになりすぎただけだった。
「……ごめんな」
最後まで優しいその声が、
ひどく残酷だった。
この日。
私は知った。
踏み込めば報われるわけじゃないことを。
好きになれば、好きになった分だけ苦しくなることを。
そして。
もう二度と、
本気で誰かを好きになりたくないと思った。
それから私は、恋愛をしなくなった。
正確には――
できなくなった。
紹介をされても断った。
飲み会に誘われても理由をつけて帰った。
誰かに好意を向けられても、気づかないふりをした。
だって。
踏み込まなければ後悔して。
踏み込めば傷ついて。
じゃあ、どうすればよかったのか。
もう私にはわからなかった。
そうしているうちに、
大学を卒業して、就職して、
気づけば二十五歳になっていた。




