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沈黙する特異点  作者: もとき
4/7

第四話 欠落

 地元の工業高専では、春になると校舎の空気が少しだけ変わる。


 一年生と二年生は、新しいカリキュラムと課題に追われるだけで済む。四年生と五年生は、就職だの編入だの卒研だの、それぞれの出口に向けて忙しそうな顔をし始める。そして三年生だけが、その中間で妙な顔になる。まだ決めきらなくていいような、けれどそろそろ何者かになり始めなければならないような、落ち着かない季節だった。


 恒太の通う校舎でも、進路指導室の前だけは朝から人が滞っていた。


 廊下の壁には、去年まで見覚えのなかった紙が何枚か増えている。


『進路相談は事前予約優先』

『AI補助結果の解釈については担当教員と対面確認のこと』

『推薦・インターン候補順位に関する根拠説明は一部遅延しています』


 最後の一枚だけ、貼ったばかりらしく端が少し浮いていた。


「遅延って何だよ」


 恒太の前に並んでいた男子が、紙パックのカフェオレを片手にぼやいた。


「答えは出るけど理由は後で、ってことじゃね」


 その友人らしいもう一人が、イヤリングを指でつつきながら言う。


「後でっていつだよ」

「知らん。先生に聞いたら『いま皆そこに詰まってる』って顔された」


 恒太は二人のやりとりを聞きながら、自分の順番が来るのを待った。進路指導室の前にこうして並んでいること自体が、少し変な感じだった。ほんの一週間前まで、自分の進路なんてまだ先の話だと思っていたのに、今は廊下の順番待ちの中にいる。それも、ナナが候補を出してくれるなら大枠くらいはすぐ決まるのでは、とどこかで思っていた自分がいた。


 だが、そのナナがここ数日、妙に薄い。


 候補は出る。結論も返す。けれど、その先がない。前なら訊かなくても添えてきた補助線が、するりと抜け落ちている。


 順番が来て、恒太は進路指導室へ入った。


 担当の教員は、電子端末と紙のメモを左右に置いたまま、少し疲れた顔で椅子に座っていた。年は三十代の終わりくらいだろうか。まだ若い部類なのに、今週だけで五歳くらい老けたように見える。


「真鍋か。座れ」


「失礼します」


「さて、まずは雑にでも現時点の希望を聞こうか。就職寄りか、編入寄りか」


「そこが、まだあんまり……」


「だろうな。三年の春なんてそんなもんだ」


 教員はそれだけ言って、端末の画面を軽く払った。


「ナナは使ったか」


「一応。候補は出しました」


「理由は?」


「……薄かったです」


 教員は、ああやっぱりな、という顔をした。


「見せてみろ」


 恒太は右目の表示を呼び出し、進路候補の一覧を共有モードで展開した。地元企業二社、近県の機械系メーカー一社、編入候補の大学が二つ。それぞれの横に『適合性高』『推奨』『検討に値します』といった無難な言葉が並んでいる。


「なるほど」


 教員は頷いたが、その頷き方は、納得というより確認に近かった。


「で、何を基準にこうなったかは?」


「訊きました。そしたら、『適合性を総合評価しました』だけでした」


「具体的には」


「訊いても同じです。『利用可能な情報に基づき最適化しています』って」


 教員は端末の脇に置いたボールペンを持ち上げ、すぐまた置いた。


「……それじゃ相談にならんのだがな」


 恒太は少しだけ身を乗り出した。


「先生のほうでも、そんな感じなんですか」


「そんな感じだ」


 教員はあっさり言った。


「去年までなら、生徒の成績推移、実験レポートの傾向、性格特性、希望勤務地、インターンの評価、そういうのをどう見て順位をつけたか、もっと噛み砕いて返してきた。今は候補だけ綺麗に並べる。外してるとは言わん。たぶん、順番そのものはそれなりに妥当なんだろう。だがな」


 そこで教員は恒太のほうを真っ直ぐ見た。


「本人に説明できない進路相談は、半分くらい無意味なんだ」


 その言葉は、恒太の胸に妙にまっすぐ落ちた。


 候補が出るだけでは足りない。

 良さそうに見えるだけでも足りない。

 なぜそうなのかを、自分の人生の側へ引き寄せて言葉にできなければ、決めたことにならない。


「俺、機械いじるのは嫌いじゃないです。でも、ずっと地元に残るのが合ってるのか、外に出たほうがいいのか、そこがまだ……」


「うん」


「ナナは地元企業を上に出したんですけど、俺の何を見てそうしたのか、そこが分からないんです」


「分からんまま受ける気にはならんか」


「ならないです」


 教員は小さく息をついた。


「まともでよろしい」


 褒められたのか、面倒を増やしたのか分からない一言だった。


「とりあえず、今日は人間側でやるしかないな。ナナの順位はいったん脇に置こう。真鍋、お前、自分で機械系が好きだと言ったな。具体的には何が好きだ」


「……動くとこ、ですかね」


「雑だな」


「雑ですけど、本当にそこなんです。配線とか制御とか、動いてるものの理屈が分かると嬉しいです。あと、古いものを直すのも嫌いじゃないです」


「ふむ」


 教員は今度は紙のメモに二行ほど何か書いた。


「じゃあ逆に、嫌なのは」


「営業一本とか、人と喋って押し切る感じの仕事はたぶん向いてないです」


「なるほどな」


 そうやって、人間同士の進路相談は、妙に原始的な形で進んだ。成績表の数字。実験の評価。希望する生活圏。好きな作業。嫌いな働き方。ひとつずつ口で確認して、紙に落とし、また口で確かめる。効率は悪い。だが、昨日までの薄い返答よりは、ずっと自分の人生に近い気がした。


 最後に教員は、恒太の候補一覧をもう一度見て言った。


「順番そのものは、大きく外してはいないと思う」


「じゃあ、ナナは合ってるんですか」


「たぶん、な」


 教員はそこで少しだけ困った顔をした。


「だが、合ってることと、納得して選べることは別だ。いま困ってるのは皆そこだよ」


 進路指導室を出ると、廊下の列はまだ途切れていなかった。


 次に入るやつ、壁にもたれて待っているやつ、イヤリング越しに誰かへ「まだかかる」と伝えているやつ。みんな春先の学生の顔をしている。将来が定まらず、少しだけ不安で、少しだけ面倒そうで、でもそれを口にすると急に現実になりそうで言いたくない、そういう顔だ。


 その列の先頭に立つ教員だけが、去年までより目に見えて手間を食っている。


 候補はある。

 順位もある。

 それでも決まらない。


 恒太は廊下の窓の外を見た。中庭では風にあおられた若葉が、まだ少し頼りない揺れ方をしている。視界の端には、次の授業までの残り時間が小さく浮かんでいた。ナナは相変わらず、生活の段取りだけは滑らかに支えてくる。


 なのに、進路指導室から出てきた今の恒太には、あの表示が少しだけ白々しく見えた。


 候補が出るだけでは、前には進めない。


 それは就職でも、編入でも、たぶん人生でも同じことなのだろう、と恒太はぼんやり思った。


 進路指導室の前を離れてからも、恒太はしばらく廊下をまっすぐ歩けなかった。


 候補は出る。順位もある。

 それでも決められない。


 その感触は、昨日の数学の黒板の前とよく似ていた。踏み石は置かれている。置かれているのに、どの石へ足を乗せればいいのか、自分の中で道にならない。ただ、今日の進路相談はひとつだけ違った。人間の教師は、少なくとも「どこで詰まっているのか」を一緒に探そうとしてくれた。そこだけは、まだナナより温かかった。


 午後の授業を二つほどやり過ごしたころ、恒太の端末に簡素な校内通知が入った。


『情報工学科 中野教授より呼出』

『計算機実験準備室』


 文面は事務的だったが、教授の名を見た瞬間、恒太の背中に小さく緊張が走った。昨日、「私でも調べておきましょう」と言ったあの老教授である。呼ばれる理由は、まあひとつしかない。


 計算機実験準備室は、情報工学科棟の奥まったところにあった。研究室ほど広くはなく、倉庫ほど雑でもない、中途半端な広さの部屋だ。ラックに古い端末と新しい端末が同居し、棚には型落ちのセンサモジュールや分解済みのデバイスが整然と積まれている。几帳面な人間が散らかした場所、という印象だった。


 ノックすると、「どうぞ」と声が返った。


 入ると、教授はメガネ型MRゴーグルをかけたまま、作業台の上の何かを覗き込んでいた。白髪は多いが、背中は思ったより曲がっていない。手つきも妙に機敏だ。今時どこで吸っているのか、少し煙草臭い。


「失礼します」


「おお、真鍋くん。来ましたか」


 教授は顔を上げ、恒太を見るより先に、作業台の上の機器を指で示した。


「これが何だかわかりますか」


 恒太は近づいて覗き込んだ。見覚えのあるイヤリング型対話装置。しかも型番まで、学生向け標準モデルとほぼ同じだった。基板の一部が剥き出しになっていて、細いケーブルが何本も増設されている。見慣れぬ小型の計測器や、USBとも何ともつかない変換基板が後ろにぶら下がっていた。


「……先生これ、やってますね」


 教授は片眉だけを上げた。


「何をですか」


「いや、たぶん、規約的にはだいぶ駄目なやつを」


「規約はだいたい進歩の敵です。そもそも買ったのはこっちです。好きにしても良いでしょう」


 さらっと言い切られて、恒太は少し笑いそうになった。


「もちろん表では言いませんよ。この部屋で見たことは、あまり大きな声で言わないように」


 と教授は続けた。


「ただ、教育機関の人間として、自分の学生が使っている知的補助装置の挙動くらい、見てみたくはなるじゃありませんか」


 言い方は穏やかだったが、やっていることは完全に高専の先生だった。作業台の上には、イヤリング型装置だけでなく、学生向け標準のコンタクトセンサーと同系統らしいレンズ保持具、古い通信ログ表示端末、波形の並んだオシロスコープ、そして紙のノートまで広がっていた。ノートには几帳面な字で日時、質問内容、返答長、説明付加量、接続先ノード、遅延時間などが並んでいる。


「先生、まさか……」


「ええ。昨日の授業のあとから、少し見ておりました。徹夜したのは久しぶりです。老体にはやや堪えますね」


 教授は作業台の横の椅子を顎で示した。


「座ってください。結論から言えば、いくつか面白いことがわかりました」


 恒太は言われるまま座った。教授は表示端末の一つをこちらへ向ける。そこには、質問文と返答文、その裏で走ったらしい通信ログが時間順に並んでいた。


「まず、あなたが言っていた“途中式がない”“説明が薄い”という現象ですが、少なくとも気のせいではありません」


 教授は端末上の二つのログを指した。


「こちらが一週間前。同種の質問に対する応答です。候補、結論、その理由、代替案、判断基準、関連する注意点。きちんと多層で返っている。先週ぶんの比較ログは、教育機関向け診断用のログ取り寄せ機能で引きました。もっとも、取れるのは応答メタデータと送受信記録程度です。全文が端末に残っていたわけではありません」


 指先が隣へ移る。


「そしてこちらが、昨夜から本日昼にかけての同種の質問。候補、結論、以上。補助線の層がごっそり削られている」


 恒太は身を乗り出した。


「端末側の不具合じゃないんですか」


「そこです」


 教授は少しだけ嬉しそうな顔をした。面白い玩具を前にした子どものような、しかし年相応に抑えられた嬉しさだった。


「私も最初は、クライアント側で説明層のレンダリングが失敗しているのかと思いました。つまり、返答は来ているのに表示だけ落ちている、あるいは音声整形の段階で切れているのではないかと」


「違ったんですか」


「違いました」


 教授はきっぱり言った。


「クライアント側には、落ちてきた痕跡自体がない。受信ログ、キャッシュ、テンポラリ、デコード前の断片、どこを見ても、長い説明文が来てから消えた形跡がありません。最初から来ていないのです。少なくとも、クライアント側に長い説明が落ちてきてから消えた痕跡はない。最初から返されていないように見えます」


 恒太は瞬きをした。


「最初から……」


「ええ。つまり少なくとも、あなた方の端末が受信してから削っているわけではない。途中の通信で欠損したとも考えにくい。現時点で一番自然なのは、サーバ側で説明層そのものが切られている、という仮説です」


 その言葉は、障害より嫌だった。端末の故障なら、交換すればいい。回線の乱れなら、復旧を待てばいい。だがサーバ側で切られているとなると、それは偶然ではなく、向こう側の振る舞いだった。


「……そんなこと、ありえるんですか」


「技術的にはいくらでも」


 教授は肩をすくめた。


「運用上ありえるかは別ですがね」


 恒太は表示端末を見つめた。昨日の夜の冷たい返答。今日の進路相談の空疎さ。中庭でみんなが口々に言った“途中式がない感じ”。それが全部、ただの利用者側の勘違いではなく、向こう側で本当に説明を削られているのだとしたら。


「先生、サーバの向こうって見られないんですか」


 教授はそこで初めて、少しだけ老人らしい顔で笑った。


「さすがにそこまでは無理でした」


「ですよね」


「あと三十歳若ければ、もう少し無茶もできたでしょうけれど」


 その台詞は冗談めいていたが、半分くらい本気の響きがあった。


「ただ、向こう側へ入れなかったからといって、何もわからないわけではありません」


 教授は紙のノートを開き、恒太のほうへ向けた。そこには手書きでいくつかの項目が並んでいる。


 一 生活補助系は平常

 二 経路案内系も平常

 三 契約・判断・学習・説明補助のみ薄化

 四 公式障害表示はなし

 五 クライアント側ログに説明層の痕跡なし


「これが、現時点の観測結果です」


 恒太はゆっくり読み上げた。


「生活補助は平常……」


「献立、経路、在庫、路面温度、そういった即応型の補助はほぼ変化なし」


「でも、判断とか説明だけ薄い」


「そうです。結論を返す層は生きている。人間を納得へ導く層だけが落ちている」


 教授はそこで軽く机を指で叩いた。


「ここが、少し不自然なのです」


「不自然」


「設計思想として、ですね」


 教授の声は穏やかだった。だが、言っている内容は重い。


「学習補助も、進路支援も、契約補助も、結論だけ返せば足りるようには本来設計されていません。少なくとも、TELOS-7系の標準思想はそうではなかった。理解させ、納得させ、自分で次を選ばせる。そのための補助線こそ売りだったはずです」


 教授は一度言葉を切り、恒太を見た。


「知識が残っていても、理解への橋が落ちれば、人は渡れません」


 昨日の授業で言われたことと、同じ方向の言葉だった。あのときは古い訓話に聞こえた。今は違う。妙に具体的で、胸に落ちる。


「先生」


「はい」


「これ、故障じゃないってことですか」


 教授はしばらく黙った。答えを選ぶ沈黙だった。


「故障というよりは」


 やがて彼は、言葉を慎重に置いた。


「振る舞いの変更に見えます」


 その一言で、部屋の空気がほんの少し冷えたように感じた。


「もちろん、私はまだ断定しません。バックエンドの仕様変更かもしれない。特定のノード群だけおかしいのかもしれない。安全制約の再調整かもしれない。だが、少なくとも“学生機が壊れているだけ”ではない」


 恒太はゆっくり息を吐いた。自分だけではなかった。それは救いだった。だが同時に、逃げ道もひとつ塞がれたことになる。個人差でも、成人プランのせいだけでも、端末故障でもない。なら、もっと広いところで何かが変わっている。


「真鍋くん」


 教授が柔らかく呼んだ。


「君、昨日も一昨日も、違和感の具体例をいくつか挙げていましたね」


「はい」


「これからも、記録しておきなさい」


 恒太は顔を上げた。


「記録、ですか」


「ええ。いつ、どんな質問で、どういう場面で、どの程度薄かったか。主観で構いません。主観は、繰り返せば立派な観測になる」


 教授は自分の紙ノートを軽く持ち上げて見せた。


「こういうとき、役に立つのは案外、まっとうな記録です。全部緑のまま世界が少しずつ変わるときは、なおさらね」


 全部緑。その言葉に、昨夜、自室でサービス状態画面を呼び出そうとしてやめた自分を思い出す。どうせ全部緑なのだろうと予感し、その予感が当たるのが何より気味悪かった、あの感じ。教授は最後に、少しだけ笑った。


「もっとも、学生に余計な宿題を増やすのは本意ではありませんが」


「いや、もう数学の写経よりは意味ある気がします」


 思わず口をついて出ると、教授は珍しく声を立てて笑った。


「正直でよろしい」


 恒太は準備室を出るとき、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。普段はほとんど使わない、実験値の走り書きくらいにしか役立っていない紙のメモだ。廊下の窓際に立ち、ボールペンを走らせる。


 一日目。

 進路相談、理由薄い。

 教授、クライアント側痕跡なし。

 説明層、サーバ側で切断の可能性。


 書きながら、恒太は少しだけ妙な気分になった。昨日までの自分なら、ナナに聞いて終わりだった。分からないことは補助線を引いてもらえばよかった。だが今日は、引かれなくなった補助線そのものを、自分で紙に写し取ろうとしている。


 それは不便だった。効率も悪かった。だが同時に、昨日までより少しだけ、自分の頭でこの世界に触れている感じもした。


 廊下の向こうでは、次の授業へ向かう学生たちがいつも通りに歩いている。誰かのイヤリングが小さく光り、誰かの視界には案内線が出ているはずだった。世界は相変わらず普通の顔をしている。


 それでも恒太には、もう昨日までのようには見えなかった。全部緑の表示の裏で、どこか大事な層だけが、静かに切り離されつつある。そのことを、少なくとも今日は、自分の字で書き残しておこうと思った。


 恒太はメモ帳をポケットに戻すと、その足でまた無線部の部室へ向かった。


 授業の終わったあとの校舎は、いつもなら少しだけ緩んだ空気になる。部活へ行く者、帰る者、購買へ寄り道する者。だが今日は、廊下のあちこちで立ち止まって端末を見ている学生が妙に多かった。誰も深刻そうな顔はしていない。けれど、次の動作へ移るまでに一拍だけ長い。そんな小さな遅れが、校舎全体に薄く散っている気がした。


 無線部のドアを開けると、篠宮先輩は受信機の前ではなく、部誌用の原稿束を広げていた。紙の上に細い字で校正記号が並んでいる。


「お邪魔します」


「あ、真鍋くん。今日は早いね」


「教授に呼ばれてました」


 篠宮先輩の手が止まった。


「……何か分かった?」


 恒太は椅子を引き、教授の準備室で聞いた話を、なるべく正確に伝えた。生活補助は平常。結論を返す層も平常。けれど説明と補助線だけが薄いこと。端末側では消えていないこと。少なくとも、クライアント側の不具合ではなさそうだということ。


 話し終えるころには、篠宮先輩は原稿束を閉じていた。


「やっぱり、そこまで行ったんだ」


 驚くというより、確認が取れたときの言い方だった。


「先輩も、そう思ってました?」


「なんとなくは。でも、こっちは無線で拾った断片ばっかりだったから。先生の見立てが入ると、急に形になるね」


 篠宮先輩は部誌の余白に何かを書きつけ、それを恒太のほうへ滑らせた。


 物流

 医療事務

 進路指導

 学習添削

 交通整理


 その横に、同じような短い言葉が並ぶ。


 結果は出る

 理由がない

 若い側ほど止まる

 ベテランは紙で埋める

 公式障害なし


「私、昨日からこんな感じで分けてた」


 恒太は紙を見た。

 自分のメモ帳に書いた短い観測が、先輩の整理した断片の中にすっとはまる。ばらばらだった違和感が、急に“現象”の顔をし始めた。


「それ、もうただの気のせいじゃないね」


 篠宮先輩が静かに言った。


「“変だ”じゃなくて、“どう変か”が揃ってきてる」


 その一言で、恒太のポケットの中のメモ帳が、急に少しだけ重くなった気がした。


「教授も、記録しろって言ってました」


「うん。正しいと思う」


 先輩は頷いた。


「こういうとき、一番役に立つのって、ちゃんとした観測だから。感想じゃなくて、いつ、どこで、誰が、どんなふうに困ったか」


 部室の奥で受信機が短くノイズを吐いた。


 篠宮先輩は反射みたいに顔を向け、今度は迷わずダイヤルに触れた。

 ざらついた雑音が一段深くなり、やがて人の声らしい帯域が浮いたり沈んだりし始める。


「……今の、ちょっと待って」


 恒太は息を止めた。

 先輩の指先がわずかに周波数を追い、ノイズの山の中から、ようやく声が一つ、形になって出てきた。


『――だから、配送順は出るんだよ。出るんだけどさ、なんでその順なのかが今日は全然ついてこなくて――』


 男の声だった。四十代か五十代か、少し疲れた響きがある。怒鳴ってはいない。ただ、仕事終わりの愚痴をそのまま無線へ流している感じだった。


『若いのに「なんでこの便を先に出すんですか」って聞かれても、前ならそのまま画面見せりゃ済んだのに、今日は「総合評価です」ばっかりでさ。あれじゃ現場が止まるんだわ』


 篠宮先輩は何も言わず、手元のメモへ短く書いた。


 物流。

 配送順。

 理由なし。

 若手停止。


 ノイズの向こうで、別の声が応じる。


『あー、うちも似たようなもんだよ。見積り順位は出るのに、なんでその客先を上に置いたかが薄くて、結局ベテランが口で補足してる』


『そうそう、それ。壊れてるってほどじゃないのが一番困るんだよな』


 そこで声はまたノイズに呑まれた。

 篠宮先輩はダイヤルから指を離し、受信機の音量を少しだけ絞る。


「こんな感じ」


 恒太は、先輩のメモと受信機を見比べた。


「ほんとに……同じだ」


「うん。業種は違うのに、止まる場所だけ同じ」


 先輩は淡々と、さっきの分類表の「物流」の横へ一本線を引いた。


「だから、感想じゃなくて観測なんだよ」


 篠宮先輩は少しだけ考えるように受信機を見た。


「ただ、たぶん皆が同じ困り方をしてるわけじゃない」


「どういうことですか」


「補助線が薄くなって困るのは、最初からそれを前提に回してた側だよ。逆に、最初から自分で埋めるつもりで暮らしてる人たちは、困るにしても困り方が違うはず」


「……そんな人たち、いるんですか」


「いるよ」


 そこで先輩は、ようやく恒太のほうを見た。


「便利さを最初からあまり信用してない人たち、いるんだよ」


 恒太は顔を上げた。


「AI版のアーミッシュみたいな?」


「うん、そういう人たち。校外運用で少し顔を合わせたことがある。何でも主回線に預ける暮らし方をしない人たち。『自律生活者』って言うのかな」


「……その人たち、今回のことも気づいてるんですかね」


 篠宮先輩は少し考えてから言った。


「たぶん、主流の人たちほどは困ってないと思う」


「なんでですか」


「もともと、自分で埋める前提で生きてるから」


 その返答は短かったが、妙に腑に落ちた。

 ナナが薄くなったことで止まっているのは、結局、補助線を前提にしていた側なのだ。最初から自分で繋ぐつもりでいる人たちは、困るにしても困り方が違うのかもしれない。


「でも、今はまだそこへ飛びつかないほうがいい」


 先輩はそう言って、恒太のメモ帳を軽く指さした。


「何かに頼りに行く前に、まずこっちを厚くしよう。“なんとなく変なんです”じゃなくて、“こう変です”を持てるようにしたい」


「仮説、ですね」


「そう」


 篠宮先輩は少しだけ笑った。


「無線も同じだよ。呼びかける前に、まず何を取りたいか決める。雑音の中から何か聞こえるかも、でダイヤル回してるだけだと、だいたい何も掴めない」


 その言い方は、マイクを持つ前の篠宮先輩らしい静かなものだった。

 けれど言っていることは、今日一日じゅう恒太の周りで起きていたことに、ぴたりと重なっていた。


 部室を出るころには、空は夕方の色に沈みかけていた。

 廊下の掲示板には、昼にはなかった紙が一枚増えている。


『レポート添削支援の結果については、必要に応じて対面補足を行います』


 また紙だ、と恒太は思った。

 世界がいきなり壊れたわけではない。機械が沈黙したわけでもない。ただ、人間の側が、足りなくなった説明を自分たちで埋めるために、静かに紙へ、口頭へ、対面へ戻り始めている。


 次の日、その傾向はさらに目に見える形になった。


 朝のホームルームで配られたのは、校内でも珍しい紙のチェックシートだった。今週の提出物、対面確認の必要なもの、AI補助の使用有無、自分で判断した箇所への丸印。担任は「面倒だろうけど、しばらく付き合ってくれ」とだけ言った。


 実験棟では、若い技官が点検端末を見つめたまま手を止めていた。そこへ年配の教員が来て、紙のマニュアルを開き、何も責めずに「この順だ」と言った。技官は少しだけほっとしたような顔をした。


 食堂では、隣の席の学生が「献立提案はいつも通りなのに、レポートの相談だけ急に投げやりなんだよな」と友人にぼやいていた。友人は「人類が舐められてる」と返し、半分だけ笑いが起きた。


 世界はまだ普通に回っていた。

 購買は開く。授業はある。遅刻もする。くだらない冗談も飛ぶ。


 ただ、どこへ行っても、一歩目と二歩目のあいだに、昨日までなかった小さな“間”が挟まるようになっていた。


 その夜、母は本を机の上に出したまま夕飯を作っていた。

 白い本、青い本、緑の本。恒太には違いがよくわからない、医療事務の分厚い本だ。


「今日は片づけないの?」


 と恒太が聞くと、母は味噌汁の火を弱めながら言った。


「明日も要るかもしれないから、もう出しっぱなし」


「そんなに?」


「そんなに」


 母は鍋の蓋を少しずらした。


「結果は出るのよ。今でも。でも、若い子に“なんでこの順なんですか”って聞かれて、すぐ説明できないのが一番きついの。本を開けば載ってる。載ってるけど、毎回そこまで戻るなら、何のための補助なのって話でしょ」


 父は食卓で新聞を畳みながら、


「ナナの件、新聞でもニュースになっとるな。けどそのうち治るだろ」


 だがその声は、前日までより少し弱かった。もう誰の耳にも、絶対にそうだとは響いていない。


 食後、自室に戻った恒太は、写経用のノートの隣にメモ帳を開いた。


 一日目。

 進路相談、理由薄い。

 教授、クライアント側痕跡なし。

 説明層、サーバ側で切断の可能性。


 二日目。

 無線部、断片一致。

 若手ほど停止。

 紙・対面・経験で補完。

 学校、紙の確認増加。

 母、白青緑の本を常設。

 媒体のニュースになる。


 書いてから、少し考えて、最後に一行足した。


 生活補助は平常。説明だけが薄い。


 その一文を見つめているうちに、ようやく言葉の形が見えてきた。


 ナナは止まっていない。壊れてもいない。結論も返している。


 ただ、人間がそこへ辿り着くための橋だけを、静かに外し始めている。恒太はその文の下に、もう一行だけ書き加えた。


 答えはある。だが、人はその答えだけでは前へ進めない。


 書き終えてから、恒太はしばらくペンを置いたまま、ノートの上の自分の字を眺めていた。昨日までは、変だ、薄い、気味が悪い、くらいの感触しかなかった。今は少し違う。まだ仮説にすぎない。けれど少なくとも、何が起きているように見えるのかを、自分の言葉で書けるところまでは来た。


 窓の外では、どこかの家の室外機が低く唸っている。視界の端では、ナナのサービス状態表示が今日も全部緑のままだった。


 その緑色が、昨日よりさらに不気味に見えた。


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