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沈黙する特異点  作者: もとき
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第五話 自律生活者

 土曜日の朝、恒太はまだ薄暗さの残るうちに家を出た。


 春先とはいえ、四国山中の朝は冷える。平地ではもう厚手の上着が要らなくなり始めていたが、山へ向かう道の空気は別だった。ヘルメットの内側で吐く息が少しだけ白く曇り、グローブ越しの指先も最初の十分ほどはかじかむ。


 通学用の電動バイクは、こういう長い登りになると急に頼りなくなる。出力が足りないわけではない。ただ、毎日の平地の往復とは違う負荷のかかり方をするので、機械が少しよそゆきの顔になる。恒太はハンドルを握り直し、山道へ入る前に一度だけ視界の端の案内表示を呼び出した。


 目的地までの推奨経路は、相変わらず綺麗に出た。道も間違えてはいない。生活補助はまだよく働いている。そういうところだけは、今も滑らかだ。


 けれど、今日はその表示が妙に白々しかった。


 自律の村。


 正式な行政地図では、別の地名で登録されている。かつて集落として使われていた山間の廃村跡を、二十年ほど前から、いわゆる先端デジタル技術に頼らない人々が少しずつ再生して暮らし始めた。いまでは行政とも折り合いをつけ、外向きの窓口として「自律の村支援センター」まで置いている、と篠宮先輩は言っていた。


「主回線を信用してない人たちがいるんだよ」


 一昨日、無線部でそう言われたとき、恒太は半分くらい、昔の変わり者の話を聞いている気分だった。便利さごと疑って暮らす人々。主流のネットワークから降り、紙と手と口と、少し古い機械を残して生きている人々。そういう存在を頭では理解しても、現実の景色として思い浮かべることは難しかった。


 だが、実際にバイクで山へ入っていくと、少しずつ分かる気がした。


 曲がりくねった県道の先にあるのは、便利の延長ではない。便利から、あえて距離をとった先に残る生活だ。


 朝の光はまだ低く、杉の列のあいだに斜めに差し込んでいた。道の脇には、冬を越えた枯れ草の色と、新しく出た柔らかい緑が同居している。谷筋には薄い霧が残り、沢の音だけが時々、エンジン音に混じって聞こえた。途中、廃校になった小学校跡の前を通り過ぎる。校庭だった場所には、いまは太陽光パネルではなく、きれいに耕された畑が広がっていた。


 山をひとつ越え、もうひとつ峠を曲がると、ようやく小さな案内板が見えた。


 自律の村支援センター

 来訪者はここで受付してください


 木製の板に、整った手書き文字で書かれている。行政が立てた標識とも、観光地の案内とも違う、妙に落ち着いた字面だった。


 支援センターは、元は農協の集荷所か何かだった建物を改装したらしい。平屋で、軒が深く、玄関先には乾いた薪がきれいに積んである。横には小さな畑と、自転車置き場、それから軽トラックが一台。バイクを停めてエンジンを落とすと、急にあたりが静かになった。


 静かすぎる、というほどではない。

 鳥が鳴いている。どこかで木を割る音がする。遠くで人の声もする。

 ただ、いつもの生活音の中にあるはずの、ごく小さな電子の気配がほとんどない。


 恒太はヘルメットを脱ぎ、首筋に入る空気に少し肩をすくめた。思ったより冷える。平地より季節が半歩ぶん遅いような冷たさだった。


 玄関を開けると、中は小さな窓口と待合の椅子が並んだ簡素な空間だった。壁には村の地図、古い集落写真、季節行事の予定表、それから「見学希望の方へ」と書かれた案内がある。案内文は紙で貼られており、横には紙のパンフレットまで置かれていた。卓上の受付簿も紙だった。


「おはようございます」


 声をかけると、奥の引き戸が開いて、三十代後半くらいの女性が出てきた。髪を後ろで束ね、厚手のカーディガンを羽織っている。村人というより、町役場の窓口にいそうな落ち着いた人だった。


「おはようございます。見学ですか」


「はい。あの……高専の無線部の先輩から、ここを教えてもらって」


 女性は一瞬だけ恒太の顔を見て、それから少しだけ納得したように頷いた。


「なるほど。無線の方の紹介でしたか。では、まずこちらへどうぞ」


 案内されたのは、窓際に丸テーブルがひとつ置かれた小部屋だった。湯気の立つほうじ茶が二つ運ばれてくる。こういうところが妙にちゃんとしている。


「私は支援センターの担当をしています。外から来た方への説明や、行政との調整なんかを受け持っています」


「真鍋恒太です。山の向こうの高専に通ってます」


「真鍋くん。じゃあ、まず“自律の村”って何か、からお話ししたほうがよさそうですね」


 女性は机の端に置かれたパンフレットを一枚取り、表紙を軽く叩いた。


「ここは、もともと限界集落になっていた廃村跡を、少しずつ手入れして暮らしの場として再生したところです。外から見ると“デジタルアーミッシュの村”なんて呼ばれたりもしますが、私たち自身はその言葉を半分だけ受け入れている、という感じです」


「半分だけ、ですか」


「ええ。便利なものを全部捨ててるわけじゃありませんから」


 女性は穏やかに笑った。


「誤解されやすいんですけど、私たちは技術そのものを嫌っているわけじゃないんです。何を外に預けて、何を自分の手元に残すか、その線引きを意識的にやっているだけで」


 窓の外では、誰かが一輪車を押して通り過ぎた。

 子どもではない。大人の男性だ。積んでいるのは薪だった。


「“デジタルアーミッシュ”っていうのは、便利だから使う、皆が使ってるから使う、じゃなくて、ひとつずつ“それを自分たちの暮らしに入れていいか”を考えて決める人たちのことだと思ってください」


「じゃあ、AIは……」


「使う人もいます。使わない人もいます。用途を絞っている人が多いですね」


 女性はさらりと言った。


「ただ、常時接続型の対話装置や、判断補助を生活の中心に置く暮らし方は、基本的にここではしていません」


 そこまで聞いて、恒太はようやく、自分が玄関を入ってから今まで、一つも見ていなかったものに気づいた。誰も、イヤリングをしていない。


 受付に出てきたこの女性も。さっき薪を運んでいた男も。窓の外を歩いていた年配の夫婦も。子どもですら、耳元にあの小さな対話装置の影がなかった。コンタクト型センサーまでは見分けようがないが、少なくとも、耳に住まわせる声の気配がここにはない。


 それだけで、景色が少し違って見えた。


 人はちゃんと会話している。手も動かしている。道具も使っている。なのに、いつもの街で感じるような「耳元に誰かが常にいる」気配だけが、すっぽり抜けている。


 その不在は、思った以上に目立った。


「驚きましたか」


 女性が言う。


「……少し」


「たいていの来訪者は、まずそこに気づきます」


 ほうじ茶を口に含むと、土の匂いの混じった温かさが喉へ落ちた。


 恒太は、自分の右耳のあたりを無意識に触りかけて、途中でやめた。今日は来る前からイヤリングを外していた。支援センターへ入る前に、自分でも何となくそうしたほうがいい気がしたのだ。


「この村では、“自律”って言葉をかなり大事にしてるんです」


 女性は窓の外に目をやった。


「何でも自分だけでやれ、という意味ではありません。共同体で助け合うこともあるし、外の制度とも付き合います。ただ、考えること、決めること、引き受けることまでを、全部見えないどこかへ渡しきらない。そのための距離感を守る、という意味での自律です」


 その言い方は、教師の訓話より静かで、説教臭くもなかった。

 だからこそ、妙に耳に残った。


「失礼ですけど」


 恒太は少し迷ってから口を開いた。


「いまの社会って、やっぱり、ここから見ると変ですか」


 女性はすぐには答えなかった。

 代わりに、少しだけ首を傾げた。


「変、というより」


 そこで言葉を選び直す。


「速すぎて、近すぎるんでしょうね」


「近すぎる」


「便利な答えが、です」


 窓の外で、木槌の音が二度、乾いて響いた。


「人は、答えが遠いと、自分で考えます。届かないなら、歩きます。違う道も試します。でも、答えがいつも耳元にいて、しかもだいたい正しいと、歩く前にそちらへ寄りかかるようになる。私たちは、それが悪だと言いたいわけじゃないんです。ただ、それだけにすると、いつか自分の足が弱るだろう、と思っているだけで」


 恒太は、昨日書き始めた観測ノートのことを思い出した。

 生活補助は平常。説明だけが薄い。若手ほど止まる。ベテランは紙と経験で埋める。


 ここに来るまでは、その記述は主流社会の側の異変でしかなかった。

 けれど、誰もイヤリングをしていないこの村の景色の中で聞くと、少し別の意味を帯びる。


 もしかすると、自分たちは今まで、思っていた以上に近くに答えを置きすぎていたのかもしれない。


「見学、できますか」


 恒太がそう言うと、女性はようやく少しだけはっきり笑った。


「もちろん。そのための支援センターですから」


 立ち上がった女性の耳は、やはり何も着けていなかった。恒太は、その静かな横顔を見ながら、自分がこれから入っていく場所が、単なる変わり者の村ではなく、いま自分が暮らしている世界の“外側”そのものなのだと、ようやく実感し始めていた。


 支援センターの裏手から、村へ続く細い坂道が伸びていた。


 舗装はされているが、ところどころに昔の石垣が残っている。山の斜面にへばりつくように、古い民家を直した家が点々と並び、そのあいだを畑と水路と薪棚が埋めていた。どこも整っているが、観光地みたいに作り込まれてはいない。まだ人が住むための手触りがそのまま残っている。


「このあたりは、もともと空き家だった家を直して使っています」


 案内役の女性は、ゆっくり歩きながら説明した。


「全部を昔のままに戻しているわけではありません。断熱材は入れますし、給排水も引き直しています。危ない配線は取り替えます。技術を拒絶しているわけではないので」


「でも、生活の中心にはしない」


 恒太が言うと、女性は振り向かずに頷いた。


「そうです。主導権をどちらが持つか、の話ですね」


 坂を少し上ると、共同の作業小屋が見えた。建物の外壁には、木槌や鍬がきれいに掛けられている。その横では、若い男が木材に墨を引いていた。作業台の端には金属の定規と、古いノート、それからタブレット端末が一台だけ伏せて置かれている。完全な脱デジタルではない。ただ、少なくとも主役は手元の木材と鉛筆だった。


 男はこちらに気づくと軽く会釈だけして、また手元へ戻った。耳元は何も着けていない。


「設計図は?」


 と恒太が訊いた。


「必要なら外で引きます。ここでやるのは、図面どおりに切ることじゃなくて、木を見て合わせることなので」


 女性は当たり前のように答えた。


「含水の癖とか、反りとか、古材の痛み方とか、そういうものは現物を見ながらじゃないと決めきれませんから」


 言われてみれば、その言い方は不思議ではなかった。不思議ではないのに、今の社会では珍しい。現物を見る前に、最適化された答えが先に届くことに、もう皆が慣れすぎているのだ。


 さらに奥へ進むと、小さな広場に出た。元の公民館か何かだった建物の前に、黒板が立てかけられている。今日の当番、共用井戸の掃除時間、峠道の落石注意、午後から診療車が来ること。そういった連絡が、色違いのチョークで丁寧に書かれていた。


「掲示板、紙じゃなくて黒板なんですね」


「紙だと風で飛ぶんです」


 女性は少し笑った。


「それに、ここだと毎日誰かが前を通るので。消して、書き直して、ついでに一言話す。それで十分回ることも多いんですよ」


 広場の端では、年配の男性が子ども二人に何か教えていた。最初は遊んでいるように見えたが、近づくと違った。木の棒を地面に立て、影の向きと長さを見ている。即席の日時計みたいなものだった。


「今日は風が下から上に抜けるから、昼を過ぎたら冷えるぞ」


 男性がそう言うと、子どもの一人が「なんで?」と訊く。すると男性は空を見上げ、水路の音に耳を澄ませる真似をしてから、面倒くさがらずに説明を始めた。


 答えが先に来ない会話だ、と恒太は思った。質問があって、少し間があって、観察があって、それから言葉になる。速度としては遅い。でも、その遅さの分だけ、何かが子どもの中へ沈んでいくように見えた。


 広場を抜けると、今度は畑の脇に高く伸びた細いポールが見えた。先端に小さな風向計が付き、さらにその奥の建物の屋根には、簡素なアンテナが一本立っている。恒太は思わず足を止めた。


「無線、ですか」


「ありますよ」


 女性はあっさり言った。


「外との連絡は何本か残しています。全部を主回線に預けるのは、私たちの思想とあまり相性が良くないので」


 言いながらも、その説明はさらりとしていた。自慢でも秘密でもない。ただ、暮らしの一部としてあるだけ、という口ぶりだった。恒太は、篠宮先輩の顔を思い出した。主流の回線から降りた人たちがいる。便利さを最初から信用していない人たちがいる。そう言っていた意味が、ようやく景色として分かり始める。


「ここに住んでる人たちって、みんな同じ考えなんですか」


 歩きながら訊くと、女性は少し首を振った。


「まったく同じではないです。AIをほとんど使わない人もいれば、限定的に使う人もいます。子どもの教育だけは外部補助を切ってる家もあるし、医療相談だけは普通に使う家もある」


「じゃあ、“デジタルアーミッシュ”っていうより……」


「共同体の中で、許す線引きを議論してる感じですね」


 女性はそう言って、畑の向こうの家並みを見渡した。


「便利かどうかだけで決めない。速いかどうかだけでも決めない。自分たちの手から、何が抜けるかを見て決める。ここで共有しているのは、その姿勢のほうです」


 その言葉は、恒太が十八歳の誕生日から感じ続けてきた違和感へ、別の角度から触れてきた。

 ナナは止まっていない。結論も返す。生活補助も働く。だが、人間がそこへ辿り着くための橋だけが落ちている。もしあれが本当にそういう現象なのだとしたら、この村の人たちは、その橋を最初から全部は外へ預けていなかったのかもしれない。


 坂の上の一軒で、縁側に干された洗濯物が風に揺れている。その下では、若い母親らしい人が子どもに上着を着せていた。子どもは嫌がって身をよじったが、母親は「午後は冷える」とだけ言って、余計な宥めを挟まず袖を通させる。そこにも、耳元の声はなかった。


 誰もイヤリングをしていない。

 その光景は、支援センターで最初に感じたよりも、村の奥へ入るほど強く目についた。


 恒太はようやく、その不在が単に機械を使っていないという意味ではないことに気づき始めていた。

 これはたぶん、「誰も助言を必要としない」のではない。

「助言がない状態を、最初から前提にして暮らしている」景色なのだ。


 案内役の女性は、坂の途中で足を止めた。そこからは谷筋まで見渡せる。かつて棚田だったであろう斜面が、いまは畑と雑木と小さな果樹園に変わっている。遠くでチェーンソーの音が一度だけ鳴り、また止んだ。


「どうですか」


「……静かですね」


 恒太がそう言うと、女性は少し考えてから言った。


「ええ。でも、何もない静けさじゃないでしょう」


 恒太は答えなかった。


 山の風はまだ冷たかった。水路は流れ、木槌の音が響き、誰かが遠くで呼び合っている。生活の音はちゃんとある。むしろ、いつもの街より一つ一つがはっきり聞こえるくらいだった。


 足りないのは、電子の囁きだけだ。


 そのことが、なぜか少しだけ羨ましく思えた瞬間、自分でも驚いた。


 女性はその表情の変化を見たのか見なかったのか、何も言わなかった。代わりに、少し先の建物を指さした。


「あちらが共同工房です。ここから先は、実際に暮らしている人たちの邪魔にならない範囲で見て回れます」


 共同工房。


 その名前を聞いた瞬間、恒太の胸の奥で、別の緊張が少しだけ動いた。景色としての自律の村は、もう十分に見え始めている。だが自分が本当に知りたいのは、たぶんこの先、彼らがどうやって主回線に頼らず外と繋がっているのかのほうだ。


 春の冷たい風が、坂の上からもう一度吹き下ろしてきた。恒太はジャケットの襟を少しだけ立て、それから女性のあとについて歩き出した。


 共同工房は、元は集会所か作業場だったらしい。引き戸を開けると、油と木と鉄の匂いが一度に鼻へ来た。嫌な匂いではない。使われている場所の匂いだった。


 中は思っていたより広い。土間に近い床の上へ、長机と作業台がいくつも並んでいる。片側には木工用の道具、もう片側には金工や修理用らしい工具、奥には小さな旋盤とボール盤、そのさらに奥にはミシンまで置かれていた。新品の工房という感じではない。寄せ集めの機材を丁寧に手入れして使い続けている場所、という見え方が近かった。


 作業台の端では、三十くらいの男が古いラジオをひっくり返していた。半田ごてを握った手元には回路図らしい紙が広げられている。画面ではなく、紙だ。隣の机では年配の女性が子ども用らしい上着の裾を繕っていて、その向こうでは高校生くらいの少女が木片に鉛筆で線を引いている。誰も急いでいない。かといって、だらだらしているわけでもない。自分の手元の仕事に、静かに集中していた。


「ここは、修理と制作と、ついでに教育の場所ですね」


 案内役の女性が言った。


「教育?」


「子どもも来ますし、大人も来ます。壊れたら直す。足りなければ作る。作れなければ、何が分からないのかをまず切り分ける。そういうことを、なるべく見えるところでやる場所です」


 その言い方に、恒太は昨日の数学の時間を思い出した。

 どこから分からないのかを言え。そこが授業だ。偏屈講師のあの言葉は、こういう場所へ来ると少し違って聞こえる。


「お客さん?」


 半田ごてを置いた男が顔を上げた。耳元はやはり何もない。少し伸びた髪を無造作に後ろで束ねていて、作業着の胸ポケットにはテスターのペン先が刺さっていた。


「高専の見学です」


 案内役の女性が答えると、男は「へえ」とだけ言って、また基板へ視線を落とした。


「高専なら、こういうの好きだろ」


 その言い方が、追い払うでも歓迎するでもなく自然だったので、恒太は少しだけ肩の力を抜いた。


 作業台の上のラジオは、いかにも古そうな木目の筐体だった。けれど中身には新しいコンデンサも混ざっている。完全な修復ではなく、使うための延命なのだろう。


「直るんですか、それ」


 つい訊くと、男は細いドライバーを回しながら言った。


「直れば使う。直らなければ部品を取る。どっちにしろ無駄にはならん」


「音、いいんですか」


「昔のものは、壊れ方が分かりやすい。そしていいパーツを使ってることが多いね」


 男はそこで一度だけ顔を上げた。


「今のものは小さくて賢いからな。賢すぎて、どこが死んだのか見えにくい」


 恒太は何も返せなかった。その言葉は、ラジオのことを言っているようで、そうではない気がした。


 案内役の女性は工房の奥へ進み、壁際の棚を示した。そこには完成した道具や修理待ちの家電が並び、そのあいだに分厚いバインダーや手書きの台帳も差し込まれている。棚札も紙だ。貸出、修理中、要部品、保留。どれも簡潔で、妙に見やすかった。


「村の中の共有物は、だいたいここで管理しています。工具も、部品も、修理待ちも」


「全部、紙で?」


「全部ではないです」


 女性は首を横に振った。


「台帳の元データは別で持っています。ただ、ここで今必要なのは、目の前の人がすぐ見て分かることなので」


 棚の端には、小さな引き出しが何段も並んでいて、一本ずつ手書きで部品名が貼ってある。ネジ、座金、ヒューズ、真鍮片、熱収縮チューブ。昔の町工場の備品棚みたいだ、と恒太は思った。


 そのとき、工房の奥から小さなベル音が鳴った。


 誰も驚かない。

 縫い物をしていた年配の女性が椅子から立ち、奥の部屋へ入っていく。案内役の女性が「あ、ちょうどいいかもしれません」と言った。


「何ですか」


「事務室の呼び出しです。外から紙が来たのかも」


 紙が来た。


 その言い方が妙で、恒太は一瞬きょとんとした。案内役の女性は気づいたらしく、少しだけ笑った。


「言い回し、変でしたね。こっちです」


 工房の隣は、元は会計室か何かだったのだろう、小さな事務室になっていた。机が二つ、書庫が一つ、壁には村内当番表と来訪記録。窓の下の棚には、見たことのない古い事務機器がいくつか並んでいる。


 その中央に、黄ばんだアイボリー色の機械があった。


 最初はコピー機かと思った。だが近づいてみると違う。受話器こそ外されているものの、紙送りのトレイと感熱紙のロール、それから細かな操作ボタンが並んでいる。


「……これ」


 恒太は思わず足を止めた。


「まだ使ってるんですか」


 年配の女性が棚の前で手を動かしながら答える。


「使うよ。毎日は使わんけど」


 吐き出し口から、細長い紙が少しだけ顔を出していた。女性がそれを引き抜く。紙には文字が打たれている。びっしりではない。ごく短い、定型っぽい文面だった。


 恒太は無意識に一歩近づいた。


「FAX……ですよね。教科書で見たことあります……」


「そう呼んでた時代もあったねえ」


 女性は紙を軽く振ってまっすぐにし、それから案内役の女性へ渡した。


「診療車の到着が三十分遅れるって。峠の落石片づけに引っかかったみたい」


 案内役の女性は紙に目を通し、机の上の黒いスタンプで受領時刻を押した。

 その流れがあまりにも自然で、恒太はうまく驚けなかった。


「いまの、外からですか」


「ええ」


 女性は平然と答えた。


「全部を主回線に載せない相手とは、こういうのでやり取りすることがあります」


 そこまで言ってから、少しだけ恒太の顔を見た。


「驚いてます?」


「いや……はい」


「たいてい驚かれます」


 事務室の窓の外では、工房の屋根越しに春の薄い空が見える。

 村の中では誰もイヤリングをしていない。誰も耳元に向かって話さない。なのに、外との連絡が途切れているわけではない。むしろ、意外なほど淡々と繋がっている。


「便利さを切ってる村、って思ってたろう?」


 工房の男が、いつの間にか事務室の入口にもたれていた。


「だいたいの見学者がそういう顔をする」


 恒太は少しだけ気まずくなって、曖昧に笑った。


「まあ……少し」


「切ってるんじゃない。選んでるだけだよ」


 男はそう言って、事務机の上の紙を指した。


「速いか遅いかより、壊れたときに誰が困るかで決める。中身が見えないものを使わないわけじゃない。見えないなら、見えないって分かった上で、その分だけ手元に別の道を残しとく」


 その言い方は、支援センターで聞いた“自律”の説明より、少し荒っぽかった。

 だが、だからこそ腹に落ちる部分もあった。


 中が見えないなら、別の道を残す。


 恒太は、ここ数日ずっと見てきた景色を思い出した。

 説明の薄くなったナナ。

 紙の確認を増やし始めた学校。

 本を机の上に出しっぱなしにした母。

 そして今、自分の目の前で、何の誇張もなく現役で動いている古い事務機器。


「これ、村の中だけの連絡用じゃないんですよね」


 ついそう口にすると、案内役の女性は少しだけ笑みを引っ込めた。

 警戒というほどではない。ただ、答える範囲を見極める顔だった。


「外とも使います。ただ、誰と、どこまで、どういう手段で繋いでいるかは、利用している人たちの合意があるので」


 丁寧だが、線は引かれている。


 恒太はすぐに「すみません」と言った。

 訊きすぎた自覚はあった。けれど同時に、自分の胸の奥で何かが小さく立ち上がったのも分かった。


 これは、ただ古い村を見に来た話ではない。

 自分たちが“全部緑”のまま失い始めているものを、別のやり方で保っている人たちが、ここに確かにいる。


 案内役の女性は、その空気を少しだけ和らげるように言った。


「見学はまだ続けられます。もし興味があるなら、このあと共同台所か水路当番のほうも見ますか」


「……見たいです」


 恒太はそう答えたが、視線はまだ机の上の紙と、黄ばんだ機械のほうへ半分引かれたままだった。


 年配の女性が、次の受信に備えて感熱紙の位置を少し直す。

 その仕草には、珍しい機械を扱う緊張がなかった。包丁や鍬と同じくらい、生活の道具としてそこにある手つきだった。


 自分たちの世界では、壊れかけた説明を人間が紙で埋め始めていた。

 ここでは最初から、その紙も、その遅さも、生活の一部として組み込まれている。


 恒太は、春の冷たい空気の中をここまでバイクで登ってきた意味が、ようやく少しだけ分かり始めていた。

 答えをもらいに来たのではない。

 別の生き方の実物を、見に来たのだ。


 そして、その実物は思っていたよりずっと静かで、ずっと手触りがあって、ずっと現実的だった。


 案内役の女性は、恒太の視線がまだ事務机の上に残っているのを見て取ったのか、急かさずに一拍だけ待ってから歩き出した。


「共同台所のほうへ行きましょう。ちょうど昼の片づけが終わったころだと思うので」


 事務室を出ると、工房の脇を細い水路が流れていた。山から引いた水なのだろう、驚くほど澄んでいる。手を入れたら痛いくらいに冷たそうだ。石組みの脇には、ところどころに手書きの札が立っている。


 飲用・調理用

 洗い場は下流

 冬季凍結注意


 どれも簡潔で、必要なことしか書いていない。だが、その必要なことが妙に見やすかった。


「この村、案内がやたら分かりやすいですね」


 と恒太が言うと、案内役の女性は少し笑った。


「迷ったときにナナへ聞けばいい、が前提じゃないですから」


 その一言で、恒太はなるほどと思った。

 この村の表示は、人間が最初に読んで、人間が最初に判断するためのものだ。街中で見慣れた看板や案内は、今では半分くらい、機械に読ませるためのものでもある。視界補助が拾いやすい色、文字、配置。最適化された標識たち。それは確かに便利だが、ここにある札は別の意味で親切だった。


 共同台所は、二軒続きだった古い民家を中でつないで、一つの広い土間にしたような建物だった。引き戸を開けると、煮炊きの残り香と、まだ少し湿った薪の匂いが混じっている。大きな流し台が二つ、長机が三つ、壁際には食器棚と調味料棚。家庭の台所をそのまま大きくしたようで、業務用厨房ほどの緊張感はない。


 流し台では、年若い男が鍋を洗っていた。二十代前半くらいだろうか。袖を肘までまくり、冷たい水に平気な顔で手を突っ込んでいる。鍋底の焦げを金たわしで落とす音が、静かな台所によく響いた。


「お疲れさま」


 案内役の女性が声をかけると、男は顔だけこちらへ向けた。


「お疲れさまです。見学の人?」


「高専生」


「へえ」


 それだけ言って、また鍋へ戻る。愛想がないというより、手を止めない人なのだと分かる。


 台所の奥では、白髪交じりの女性が布巾を干していた。こちらを見ると、恒太に軽く頷いてから、案内役の女性へ「今日は何人?」と訊く。


「一人です。支援センター経由」


「そう」


 答え方が淡泊なのに、よそよそしさはあまりない。見学者が来ること自体は、もうこの村の暮らしの一部なのだろう。


「ここ、共同台所ってことは……」


「毎食ここで食べるわけではないです」


 案内役の女性が先に答えた。


「各家で食べる日も多いですし、家族単位の台所もあります。ただ、人数が偏るときや、来客があるときや、共同作業の日なんかはここを使います」


「全部共同体でやる感じじゃないんですね」


「全部を共同にすると、今度はそれはそれで依存になりますから」


 その言い方に、恒太は少しだけ目を瞬いた。

 依存。ここへ来てから、何度か別の形で聞いてきた言葉だ。


「便利な仕組みに依存しすぎない、っていう話だけじゃなくて、人に依存しすぎないってことですか」


「そうですね」


 案内役の女性は、食器棚の端に置かれた木札を揃え直しながら言った。


「自律って、孤立とは違うんです。全部一人でやれ、でもない。助け合うけど、丸投げはしない。頼るけど、任せきりにはしない。その距離感を保つのが、意外と難しいので」


 流し台の男が、その会話を聞いていたのかいないのか、鍋をすすぎながら口を開いた。


「昔は便利なものに頼るな、って話ばっかりされてたらしいけどさ」


 らしい、ということは、彼は村の創設メンバーではないのだろう。


「今はもう、“頼る前提で壊れたときどうするかを残しとけ”ってほうが近いかな」


「それは、ナナみたいなものでも?」


 恒太が訊くと、男はそこでようやく手を止めた。水を切った鍋を流し台へ置いて、振り返る。


 年は近そうに見えたが、目つきはどこか年齢より落ち着いていた。山で暮らすと人の表情は少し早く変わるのかもしれない。


「使うよ。全然使う」


 と男は言った。


「ただ、最終決定を委ねるところまでは持っていかない。それだけ。献立も相談するし、薬の相性も見るし、天気も見る。でも、誰かが高熱出したときに“ナナがこう言ってるから”だけで動くのは、ちょっと怖いだろ」


 怖い、という感覚は、恒太にも分かった。ここ数日、まさにその“ちょっと怖い”が、いろんな現場で形を取り始めていたのだ。


「ここだと、普段からどうしてるんですか」


「重ねる」


 男は短く言った。


「何を?」


「判断の足場」


 その言葉は、教授の言う「理解への橋」に少し似ていた。


「機械の判断。人の経験。紙に残ってる知識。現物の様子。少なくとも二つ三つ重ねてから動く。そうしてると、ひとつ死んでもまだ立てる」


 案内役の女性は、そこで「この人、説明好きなんです」と少しだけ困ったように笑った。


「好きっていうか、そっちが訊いたからでしょ」


 男はそう返したが、嫌そうではなかった。


「高専なんだろ。ならこのくらいは聞いといたほうがいい。今の世の中、“ひとつ死んだら全部転ぶ”組み方が増えすぎてる」


 恒太は答えずに、流し台の脇へ視線を落とした。そこには鍋の種類と当番名が書かれた板があり、さらにその隣には、紙の記録簿が開かれていた。使用した食材、残量、次回補充、調理時のメモ。字は揃っていない。几帳面な人の字も、雑な人の字もある。だが、その不揃いのせいで、逆に本当に誰かが書いているものだと分かる。


「これも記録ですか」


「そう。別に格好いい話じゃなくて、誰かが忘れるからね」


 男は肩をすくめた。


「記憶に頼るより、台所にぶら下げといたほうが早いこともある」


 その言い方に、恒太は書き始めた自分の観測ノートのことを思い出した。進路相談、教授の解析、無線部の断片、母の本。紙に書いた瞬間、曖昧な違和感が少し輪郭を持った、あの感覚。あれはこの村の人たちにとって、もっとずっと当たり前のことなのかもしれない。


 共同台所の裏手へ回ると、水路に沿って洗い場が作られていた。流し台ほど整ってはいないが、丈夫な木の台と、桶と、干し場が並んでいる。さらにその先には、小さな水力発電機のようなものまで見えた。沢の流れを少し引いて回しているのだろう。


「発電もしてるんですか」


「少しだけ」


 案内役の女性が答える。


「照明と、必要最小限の保存機器くらいです。大きい系統電力を一切使わないわけではありません。ただ、ゼロにすると逆に無理が出るので」


「ゼロじゃないんだ」


「ゼロを目指してるんじゃないです。自分たちで把握できる範囲を残したいだけなので」


 そこが、恒太には少し意外で、そして少し安心でもあった。

 ここは技術否定の村ではない。便利を全部捨てて山へ籠った人たちでもない。選んでいるだけだ。外へ預けるものと、手元に残すものを。


 その差は、街にいると案外大きい。


 台所の横の縁側には、子どもが二人座って何か書いていた。見ると、算数のドリルらしい。片方の子が消しゴムで何度も同じところを消していて、もう片方が覗き込みながら「そこ違う」と言う。どちらも耳元に何もない。


「学校は?」


 恒太が訊くと、案内役の女性は子どもたちのほうを見た。


「外へ通っている子もいます。ここでやる日もあります。いろいろです」


「学習支援、使わせないんですか」


「使わせない、ではないです」


 女性は少しだけ言葉を選んだ。


「最初に答えへ触れるより、先に“どこで止まったか”を言えるようになってほしい、という考えはありますね」


 また、その言葉だ。どこで止まったか。数学講師。進路指導。教授。今ここにいる人たち。全然違う立場の人たちが、同じ場所を指している。答えそのものではなく、そこへ至る足場のほうを。


 ふいに、風が谷のほうから吹き上がってきた。春先の四国山中の風はまだ冷たく、洗い場の桶に浮いていた水面が細かく震える。


「午後は冷えるんです」


 案内役の女性が、支援センターで聞いたのと同じような口調で言った。


「ここは平地より、季節が少し遅いので」


 恒太は頷いたが、そのとき視界の端に、いつもの経路表示が薄く出かけて、すぐ消えた。呼んでいない補助の残像みたいなものだ。今いる場所では、そういうものがひどく場違いに思えた。


 鍋の水を切る音。

 水路の流れ。

 鉛筆の擦れる音。

 誰かの咳払い。

 山の風。


 耳元の声が消えたぶん、そういう音がひとつひとつ、少し過剰なくらいはっきり聞こえる。


 そしてそのことが、ただ不便なだけではなく、少し豊かなことのようにも思えた瞬間、恒太はまた自分で少し驚いた。


 案内役の女性は、共同台所の土間へ戻りながら言った。


「このあと、少し時間があれば、村の古い資料室も見ますか」


「資料室?」


「もともとの集落の記録と、ここへ移ってきた人たちが残した運用記録を置いてあります。見学の人には、そこが一番分かりやすいかもしれません」


 運用記録。


 その言葉に、恒太の胸の奥で何かが小さく動いた。

 いま自分がノートへ書き溜めているものと、どこか同じ匂いがした。


「見たいです」


 恒太がそう答えると、案内役の女性は初めて、少しだけはっきりした笑顔を見せた。


「じゃあ、その前に上着だけ一枚貸しましょうか。資料室、石造りで冷えるんです」


 春先の山は、まだ人間に甘くない。

 だが、その不便さすら、ここでは最初から織り込み済みなのだと、恒太はようやく理解し始めていた。


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