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沈黙する特異点  作者: もとき
3/7

第三話 綻び

 家に着くころには、空はもう青から群青に移りかけていた。

 恒太が玄関を開けると、台所のほうから香ばしい匂いがした。母はもう帰ってきているらしい。医療事務の朝は早いぶん、帰りもそう遅くはない。


「ただいま」


「おかえり。手ぇ洗ってきなさい」


「はーい」


 洗面所で手を洗いながら、恒太は鏡に映る自分の顔をちらりと見た。朝から学校に行って、実験をやって、昼に騒がれて、午後の数学で黒板の前に立たされて、放課後は無線部に顔を出した。まだ一日しか経っていないはずなのに、妙に長かった。


 食卓には、誕生日祝いだろうか、父がテイクアウトしてきたであろう骨付鶏と、ざく切りの瑞々しいキャベツ、オニギリが並んでいた。父はもう席についていて、仕事着のシャツの袖をまくったまま、先に麦茶を飲んでいる。恒太が座ると、母も最後の皿を置いて、ふうと小さく息をついた。


「今日ね、職場で少し揉めたのよ」


 箸を持つより早く、母がそう切り出した。

 こういう日は、だいたい職場で何かあった日だ。


「また?」


 と父が言う。


「また、じゃないわよ。今日はちょっと本気で疲れたの。複数の指定難病がある患者さんの公費計算で、支払いの順番と上限の扱いが絡んで、ただでさえ面倒なのに」


 父は「ふうん」とだけ返した。その一言に、母は軽く眉をひそめる。


「ふうん、じゃないの。計算結果そのものは出るのよ。ナナが出してくれるから。でも、どういう優先順位でその自己負担額になったのか、どうしてこっちの制度を先に当てるのか、その理由が前みたいに出てこないの」


 恒太は骨付鶏を持ち上げたまま、少しだけ顔を上げた。


「理由が出ない?」


「そう。若い子たち、みんなそこで手が止まっちゃって。間違ってたら怖いし、患者さんに聞かれても説明できないから。私だって制度全部を暗記してるわけじゃないんだから、根拠が薄いと押し切れないのよ」


「でも結果は合ってるんだろ」


 父が骨付鶏に齧り付きながら答える。


「たぶんね。たぶん、じゃ困るの。お金の話なんだから」


「一時的な仕様変更じゃないのか。こういうの、そのうち直るだろ」


 母は呆れたように父を見る。


「あなた、そういうとこ本当に気楽よね」


「気楽っていうか、騒いでもしょうがないだろ。現場が回るなら、今日は今日で回して、明日ベンダーに問い合わせればいい」


「その“回す”のところで止まってるって言ってるの」


 父はそれ以上は何も言わなかった。

 手を動かしながら、まあ大変だな、くらいの顔をしている。事なかれ主義というほど悪い人ではないのだが、父は昔から、目の前の不具合を「今すぐ大騒ぎするほどのものではない」に分類する癖があった。


 恒太には、母の言っている面倒さの中身まではよく分からなかった。

 指定難病、公費、自己負担、制度の優先順位。どれも聞いたことはあるが、自分の生活からは少し遠い。だが、昼の数学の黒板と、篠宮先輩の部室で聞いた短すぎる返答を思い出すと、それをただの愚痴として流しきれない感じはあった。


「……学校でも、ちょっと似たようなことあった」


 恒太がそう言うと、母が顔を向けた。


「学校で?」


「うん。なんか、ナナの説明が薄いっていうか。答えは出るんだけど、その先がない感じ」


「へえ」


 父はそこで初めて少しだけ興味を示したが、すぐに湯のみへ手を伸ばした。


「混んでるだけじゃないのか」


「そうかも」


 恒太はそう答えた。

 そうかもしれない。回線負荷、仕様変更、プロファイル調整。理由はいくらでも思いつく。思いつくのに、胸の奥の妙なざらつきだけが消えなかった。


 食後、恒太は自室に戻った。

 机の上には、今日まで先延ばしにしていた数学の課題が置いてある。プリントではなく、電子配布された解説を自分のノートへ手書きで写し、そのうえで途中の定義と注意事項を抜き出して整理しろ、という類いのものだった。


 要するに写経である。


 AIが万能になった時代の課題らしい、と恒太は思う。

 解答そのものを出させないためというより、手を動かして頭の中へ経路を刻み込め、という意図なのだろう。たぶん。たぶん、という言い方しかできないのが、今日の自分には妙に腹立たしかった。


 ノートを開く。

 ペンを持つ。

 だが、昼の黒板の前で止まった感覚が、まだ指先に残っている。


 これ、本当に意味あるのか。


 ただ写す。

 似たような定義を並べる。

 あとで試験に出るから覚えろ、と言われる。

 その先に、自分の進路と何が繋がっているのか、正直よくわからない。


 恒太は天井を見たあと、小さく息をついた。


「ナナ」


 イヤリングに向かって呼ぶと、すぐに応答が来た。


『はい』


 いつもの声だ。

 いつものはずなのに、どこか窓口めいて聞こえる。


「こういう課題って、本当に意味あるの」


 数秒の間があった。 それから返ってきたのは、短い文だった。


『基礎反復は技能定着に有効です』


 恒太は顔をしかめた。


「いや、そういう一般論じゃなくて。俺の進路に、って意味」


『将来の進路適合性については現時点で断定できません』


「断定しろって言ってるんじゃなくてさ」


 自分でも、何を聞きたいのか少し曖昧だった。

 だが、曖昧なままでも以前なら、ナナはそのへんを拾って補助線を引いてくれた。工学の基礎としてどう繋がるのか、計算機実装や制御や解析のどこに関わるのか、自分の興味とどう接続できるのか。そういう“聞いてほしかった先”まで、先回りしてくれたはずだった。


 だから恒太は、少し苛立ちながら言い直した。


「これを今やる理由。いまの俺が、これを写経みたいにやる意味」


 返答はすぐだった。


『必要な情報は提示済みです』


 恒太はしばらく動かなかった。


 返事はある。

 音声も自然だ。

 文法も正しい。

 突っぱねられたわけでもない。


 なのに、その短さは、相談に対する答えというより、貼り紙の文面に近かった。


 恒太はペンを置いた。

 机の端に置いたノートには、まだ最初の一行しか写っていない。窓の外では、夜の風が網戸をわずかに鳴らした。


 昼の黒板。

 部室での短い説明。

 母の職場の揉め事。

 そしていまの、冷たい返答。


 ナナは黙っていない。

 それなのに、恒太はその夜、はじめてはっきりと、何か大事な部分だけがごっそり削がれ始めている気配を感じた。


 翌日の昼休み、中庭の空気は前日より少しぬるかった。恒太は購買のハムカツサンドの包装を剥がしながら、なんとなく昨日と同じベンチへ向かった。意識して選んだわけではない。ただ、座ってしまってから、ああまたここかと思った。


 昼の光の中では、昨日の違和感は少しだけ現実味を失っていた。家で母がこぼした愚痴も、夜に自室で受け取った冷たい返答も、朝になると「たまたま」で片づきそうな顔をしている。学校という場所は、いつだってそうだった。鐘が鳴って、授業が始まって、実験器具が並び、レポートの締切が迫ってくると、個人の薄気味悪さは大抵、後回しにされる。


「お、いたいた」


 聞き慣れた声がして、同じ実験班の連中が二人、三人と寄ってきた。紙パックのジュース、焼きそばパン、からあげ棒。昼休みの持ち物まで昨日と大差ない。


「なんだよ、また成人観察会か」


 恒太が言うと、背の高い友人が首を振った。


「今日はちょっと違う」


「違うって?」


「ナナ、ちょっとおかしくないか?」


 恒太はサンドイッチを持ったまま固まった。


「……お前もそう思う?」


「思うよな?」

「やっぱり?」

「ほら見ろ」


 三人がほぼ同時にうなずいた。


「俺だけの現象じゃなかったんだ」


 恒太がそう言うと、向かいに腰を下ろした友人が、待ってましたとばかりにイヤリングを指先ではじいた。


「そうなんだよ。なんていうのかな、プロセスというか、途中式がないというか」


「わかる」

「それ」

「まさにそれ」


 言葉が重なった。


 そこへもう一人、遅れてやってきたクラスメイトが紙袋をぶら下げたまま合流する。


「何の話?」


「ナナの返しが妙に薄いって話」


「あー」


 そいつは座る前から嫌そうな顔をした。


「あった。朝、レポート添削させたら『記述を見直してください』しか出なかった」


「だけ?」


「だけ。前なら、どの段落がどう曖昧で、何を足せば伝わるかまで出たのに」


「うわ」


「しかも二回聞き返した。そしたら『表現の具体化を推奨します』だって」


「窓口かよ」

「雑すぎる」

「人の心がない」


「元から人じゃないだろ」


 そう言いながらも、誰も笑いきれなかった。


 別の一人が、芝生に足を投げ出したまま口を開いた。


「俺は朝、進路相談で使った。夏休みのインターン先の候補絞らせようと思って」


「どうだった」


「候補は出たよ。五つ。ぜんぶそれっぽかった」


「じゃあいいじゃん」


「いや、理由がない。なんでその順なのか、俺の何を見てそこを上に置いたのか、聞いても『適合性を総合評価しました』だけ」


「それは嫌だな……」


「嫌だろ。こっちは自分の人生の話してんのに」


 恒太は無意識に、自分の右目の縁を軽く押さえた。

 レンズの位置を直すいつもの癖だった。視界の隅には、次の授業までの残り時間と、購買棟裏の自販機前が少し混んでいるというどうでもいい情報が浮かんでいる。こういう生活補助は相変わらず滑らかだ。なのに、考えたいことを考えたい形で支える部分だけが、昨日から妙に心もとない。


「家でもあったよ」


 と、恒太は言った。


「母ちゃん、医療事務なんだけどさ。計算が超絶面倒くさい患者さんがいて、結果は出るのに、なんでその順で医療減免制度当ててるかの説明がなくて職場で揉めたって」


「それ、もう学校だけの話じゃないじゃん」

「普通に困るやつじゃん」

「いや、普通に怖いだろ」


「父ちゃんは『そのうち直るだろ』で流してたけど」


「大人ってそういうとこあるよな」


「いや、うちの親も言いそう」


 恒太は小さく苦笑した。

 言いそう、で済んでいるうちはまだいいのかもしれない。昨日の時点では、自分でもそう思っていた。


 だが、こうして一晩も経たないうちに、同じ違和感が何人分も並び始めると、「たまたま」で片づけるには数が揃いすぎている。


 背の高い友人が、声をひそめるでもなく言った。


「なあ、これさ。障害情報、出てんのかな」


「見た」


 即答したのは、さっき添削の話をしたやつだった。


「朝イチで見た。サービス状態、全部緑」


「全部緑?」


「全部緑。最適化支援、学習補助、経路案内、契約支援、生活支援、ぜんぶ通常運転」


「じゃあ仕様変更?」

「事前告知あったか?」

「見てない」

「俺も」

「誰か問合せした?」

「したけど、当たり前のような定型文しか返ってこない」


 短い沈黙が落ちた。

 中庭の向こうでは、別の学科の連中が笑いながら鬼ごっこみたいな真似をしている。購買の窓口にはまだ列ができていて、誰かのイヤリングからはごく小さく通知音が鳴った。学校そのものは、昨日までと変わらない顔をしていた。


 だからこそ、この会話だけが少し浮いていた。


「でもさ」


 と、芝生に座ったままの友人が言った。


「完全に壊れてるわけじゃないんだよな。答えは出るんだよ。たぶん合ってるっぽい答えが」


「そこが嫌なんだよ」


 恒太は思ったより強い声で言っていた。

 皆の視線が一度に集まる。


「壊れてるなら壊れてるで騒げるじゃん。でも、合ってそうなのに説明だけないから、自分が分かってないのか向こうが変なのか切り分けづらいんだよ」


 言ってから、自分でも少し驚いた。

 昨日の数学の黒板の前で止まった感触が、まだそのまま喉の奥に残っていた。


「……わかる」


 背の高い友人が、今度はゆっくり言った。


「昨日までなら、こっちがあやふやに聞いても、向こうが途中を補ってくれたんだよな」


「そう」

「補助線が消えた感じ」

「それだ」


 また、皆の言葉が重なった。


 補助線。


 恒太はその言葉を頭の中で繰り返した。

 補助線があれば、自分は分かった気になれた。いや、分かった部分も確かにあったのだろう。ただ、その線をいつの間にか自分で引くのではなく、誰かに引いてもらう側へ回っていたのかもしれない。


「なあ、篠宮先輩んとこでも似たこと言ってた」


 何気なくそう漏らすと、友人たちが一斉に反応した。


「無線部の?」

「例の静かな美人先輩?」

「マイク握ると人格変わるって噂の」


「変なとこだけ共有すんなよ」


 恒太は顔をしかめたが、全員の目がちょっと真面目になったのは分かった。


「先輩、部活の告知文作らせたら、前なら候補三案と差分まで出たのに、昨日は『部員募集を前面に出してください』だけだったって」


「短っ」

「それもう会話じゃなくて指示書だな」

「ていうか先輩レベルでもそうなら、やっぱ個人差だけじゃないだろ」


 そこまで言って、紙パックのコーヒー牛乳を持った友人がふと周囲を見た。


「……これ、今ごろ他所でも同じ話してるのかな」


 誰もすぐには答えなかった。


 校舎の窓。

 中庭のベンチ。

 食堂の列。

 実験棟の陰。

 この学校のどこかで、いや、学校だけではなく、もっと別の場所で、同じように首をひねっている人たちがいるのかもしれない。


 医療事務の受付で。

 工場の制御室で。

 役所の窓口で。

 配送センターの片隅で。


 恒太は急に、自分たちが小さな輪になって弁当を食べているこの昼休みが、昨日までとは違う意味を持ち始めている気がした。


 次の授業まで、あと五分。

 視界の端に、その案内だけはいつも通りに浮かんでいる。


『移動を推奨します』


 それだけだった。


 いつもの経路表示も、いつもより少しだけよそよそしく見えた。

 恒太たちは誰からともなく立ち上がったが、もうその場にいる全員が、同じことをうっすら理解していた。


 これは、自分一人の不調ではない。


 ナナのほうが、何かを変え始めている。


 午後の「計算機概論」は、情報工学科の老教授が担当していた。定年を間近に控えたその人は、校内でも珍しく、メガネ型のMRゴーグルを常用している。学生たちのあいだでは「一周回って一番未来っぽい爺さん」と陰で呼ばれていたが、本人はそういう評判をたぶん知っていて、やはり気にしていない。


 教壇に立つと、教授は出席確認もそこそこに、ゆっくり教室を見回した。


「今のような計算機資源を、誰もが当たり前のように使えなかった時代が長くありました」


 声は老いていたが、よく通った。


「その頃から、人工知能はある種、人類の悲願でした。人の知的労働を助け、判断を補い、複雑さを引き受けてくれるものとして、あるいは善き隣人として。それが本当に実現して数十年。今では、皆さんが日常的に使えるところまで来た。これは大変なことです。先人に敬意を払いつつ、上手に使いこなしていきましょう」


 教室の何人かが、いつもの前置きだ、という顔をした。

 恒太もそう思いかけたが、そこで昨日から胸の奥に引っかかっていたものが、ふと口の近くまでせり上がってきた。


 手が上がっていた。


 教授が穏やかに目を向ける。


「真鍋くん」


「先生。その人工知能について、上手く使いこなしているつもりなんですが、ここのところ調子が悪いです」


 教室の空気が少しだけ変わった。

 数人が顔を上げる。恒太は続けた。


「答え自体は出るんです。でも、途中式というか、プロセスの出力が省かれてる感じで。なんでその判断になるのか、前なら一緒に出てきた説明が、ここ二日くらい急に薄いんです。何がいけないんでしょうか」


 教授はすぐには答えなかった。MRゴーグルのレンズ面に、ごく淡い表示が走る。何かを呼び出しているのだろう。障害情報か、更新履歴か、あるいは自分の利用ログか。教室は静まり返っていた。


 やがて教授は小さく瞬きをして、顎に手をやった。


「それが本当だとすると、たしかにおかしい話ですねぇ」


 その言い方には、学生を軽くいなす響きがなかった。恒太は少しだけ身を起こした。


「先生でも?」


「ええ。私でも調べておきましょう。少なくとも、学習補助系で説明の厚みが急に落ちるのは、設計思想として少し不自然です」


 教室の後ろで、誰かが小さく「やっぱり」と漏らした。

 教授はそれを聞き流し、教壇の端に指先を置いた。


「ただ、この際だから言っておきましょう。あ、教科書は閉じて結構です」


 ぱたぱたと紙の音がした。

 タブレット表示を消す者、ノートを伏せる者、半分だけ閉じて様子を見る者。教授は少しだけ笑った。


「我々は、AIがなくても生きていけます。まして、技術者であればなおさらです」


 いつもの訓話めいた調子だ、と恒太は思った。

 だが今日は、その言葉が少し違って聞こえた。


「この学校は、そういう教育をしてきているつもりです。皆さんには不満も多いでしょう。手書きの写経みたいな課題、手順を暗唱させるような実験、イヤリングを外させる授業。面倒でしょうとも。効率が悪いと思うでしょうとも」


 教室のあちこちで、苦笑が起きた。


「ですが、ナナのサービスが突然終了したらどうしますか。太陽黒点活動による大規模障害は。災害時のライフライン喪失は。接続が細るだけでも、人は驚くほど簡単に判断の足場を失います」


 教授はそこで一度言葉を切った。


「万が一の可能性を考えて動ける大人になってください。道具を使いこなすとは、道具がなくても自分が何をしているか分かっている、ということです」


 その一言は、教室の空気を軽くしなかった。むしろ逆だった。昨日なら時代遅れの説教として受け流せたはずの言葉が、今日は誰の耳にも少し重く落ちた。


 教授は出席簿を閉じた。


「今日は少し早いですが、ここまでにしましょう。私もいくつか確認したいことができましたので」


 ざわ、と教室が動く。予定より十数分早い終了だった。学生たちは得をしたはずなのに、妙な静けさが残ったままだった。


 恒太が立ち上がると、机の上の端末に小さな通知が浮かんだ。


『次の行動を推奨します』


 それだけだった。

 行き先も理由も、以前のような補助もない。


 恒太はその短い一文を見つめ、それから顔を上げた。

 昨日までなら、ただ便利だった表示。

 いまはもう、その簡潔さ自体が、何かの症状に思えた。


 教授に早めの終業を告げられたあと、恒太はまっすぐ帰る気になれず、また無線部の部室へ向かった。


 ドアの上の「放送中」ランプは今日は点いていた。小さくノックしてから入ると、篠宮先輩が放送卓の前に座っている。昨日と違って本は開いていない。代わりに、受信機のダイヤルに指を添えたまま、少しだけ目を細めていた。


「お邪魔します」


「あ、真鍋くん。ちょうどよかった」


「何か入ってますか」


「同じ話が多い」


 先輩はそう言って、卓上の小さなスピーカーの音量をほんの少し上げた。


 ざらついたノイズの向こうで、男の声が短く切れた。


『配送支援がさ、今日ずっと変なんだよ。経路は出るんだけど、なんでその順かが無いんだわ』


 別の声が応じる。


『うちも似たようなもんです。見積り順位は出るのに、理由が薄くて、若いのが判押せなくなってる』


 少し間があいて、また別の声。


『学習補助も妙ですよ。説明を短くしすぎてる。あれじゃ使う側が埋めなきゃならん』


 先輩はダイヤルを少しだけ回した。別の周波数でも、似たような断片が入る。物流、事務、教育、保守。業種は違うのに、引っかかっている場所だけが妙に似ていた。


「みんな、同じこと言ってますね」


「うん」


 篠宮先輩は頷いた。


「障害っていうほど派手じゃないのが、逆に嫌なんだよね」


 恒太は無言でスピーカーを見た。無線の向こうの人たちは、怒鳴っているわけでも、助けを求めているわけでもなかった。ただ困っている。それも、どう困っているかを説明する言葉だけが、驚くほどよく似ていた。


 答えは出る。だが、その先がない。


 その薄い共通点が、受信ノイズより気味悪く思えた。


 帰り道、駅前の大きな交差点で、恒太はバイクをゆっくり減速させた。事故があったらしい。ワゴン車と配送用の小型EVが接触したのだろう、すでに救急は引き揚げたあとで、残っているのは警察と、片側交互通行を待つ車列だけだった。


 大した渋滞ではない。だが、流れ方が妙だった。


 いつもなら、こういう現場の交通整理はもっと滑らかだ。止める列、流す列、脇道から出す車、バスを先に通すかどうか。その判断が、ほとんど呼吸みたいに噛み合って進む。少なくとも恒太には、そう見えていた。


 今日は違った。


 若い警官が路肩で端末を見て、手を上げかけて止まる。少し離れたところで年配の警官が何か言い返した。車の中から聞き取れるほど大きな声ではない。だが、言い合いをしていること自体が珍しかった。


 信号待ちのあいだに、風に乗って断片だけが聞こえた。


「いや、その規制順だとバスが詰まるだろ」

「でも推奨処理ではこちらが先です」

「だから、なんでだ」

「……根拠表示が出ていません」


 青になり、前の車列が少しぎくしゃくしながら動く。恒太もそれに続いて交差点を抜けた。


 事故そのものより、処理する側の手際のほうが頭に残った。警官同士があんなふうに噛み合わずに立ち止まるのは、珍しい気がした。


 家に帰ると、玄関の靴の向きだけで、母がもう帰っているのが分かった。食卓には湯気の立つ味噌汁と、白身魚の煮付けと、ひじきの煮物が並んでいる。父ももう座っていた。


「おかえり」


 母の声はいつも通りだったが、座ってみると少しだけ肩が落ちていた。


「今日はどうだった」


 父が何気なく聞くと、母は箸を置く前に言った。


「久しぶりに本を出したわ」


 恒太は味噌汁の椀を持ち上げたまま止まった。父は「ああ」とだけ言った。


 白と青と緑の本。それぞれ目的が違うが、医療事務の超アナログ聖典みたいな分厚い本だと恒太も知っている。棚の一番下にしまわれていて、母がそれを持ち出すのは、本当に面倒な案件のときだけだった。


「例の計算が面倒な患者さんが今日も来てね。計算結果は出るのよ。今日もちゃんと出た。でも、どうしてその順になるか、どの制度を先に当てるかの説明が出ないの」


 母は小さくため息をついた。


「若い子たち、そこで止まっちゃって。患者さんに聞かれても、説明できないから。結局、私が本を引っ張り出して、該当箇所を一個ずつ確認する羽目になった」


「結果は合ってたんだろ」


 父が言う。


「たぶんね。でも“たぶん”で窓口は回せないの。今日なんか、計算が合ってても、説明できないからみんな怖がってた」


「そのうち直るよ」


 父は悪気なくそう言って、煮付けをほぐした。


「ベンダーにだって問い合わせ来てるだろうし」


 母は呆れたように父を見た。


「あなた、そういうとこだけ本当に楽観的よね」


「楽観的っていうか、今夜のうちに制度が変わるわけでもないだろ」


「そうじゃないの。制度は変わってないのに、人間の側の説明力だけ急に痩せたみたいで気持ち悪いのよ」


 その言い方に、恒太は思わず顔を上げた。


 人間の側の説明力だけ急に痩せた。それは、そのまま今日一日ずっと感じていたことに近かった。無線部で聞いた声も、交差点の警官たちも、結局みな同じところで止まっていたのかもしれない。答えはある。結果も出る。だが、そこへ至る道を、自分の言葉でつなげられない。父はまだ「ふうん」と流し切る顔をしていた。母は緑本の厚さでも思い出したのか、箸を持つ手を少しだけ止めている。恒太だけが、その食卓にもう昨日までと同じ温度では座っていられなかった。


 食後、自室へ戻った恒太は、机に鞄を置いたまましばらく立っていた。窓の外はすっかり夜で、隣家の二階に灯りがひとつ見える。机の端では、昨日の課題ノートが開きっぱなしだった。


 今日はナナを呼ばなかった。


 呼べば答えるだろう。たぶん正しい答えを返すだろう。けれどいま欲しいのは、正しそうな結論ではなく、その結論へたどり着く足場のほうだった。


 恒太は椅子に座り、ノートを自分のほうへ引いた。昨日はただ記号に見えた行が、今日は昨日より少しだけ、重たく見えた。


 本を引く母。

 言い返す警官。

 電波の向こうで愚痴る誰か。

 そして、早めに授業を切り上げた老教授。


 世界はまだ普通の顔をしている。

 授業はあるし、信号は変わるし、夕飯の味も昨日とそう変わらない。


 それでも、どこかで同じ種類の小さな停止が増え始めている。


 恒太はペンを持ったまま、しばらく開いたノートを見つめていた。ナナのサービス状態画面を呼び出そうとして、やめた。どうせ全部緑なのだろうと思ったし、その予感はたぶん外れない。


 それが何より、薄気味悪かった。


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