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沈黙する特異点  作者: もとき
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第二話 真鍋 恒太

 地元の工業高専に通う三年生、真鍋恒太が十八歳の誕生日を迎えた日の朝のことである。


 洗面所で寝ぼけた顔を洗い、歯ブラシを咥えたまま、昨晩から保存液に浸けていたコンタクトレンズを両目に入れる。


 歯磨きを続けていると、目玉が冷たくなる感触とともに、視界に各種表示が重なって見えてきた。今日はいつもと違う表示だ。


『お誕生日おめでとうございます』

『本日をもって年齢保護プロファイルが解除されました』

『TELOS-7標準機能群へのアクセス権限を更新しました』

『成人向け標準プランへ自動移行されました』

『契約内容が更新されました』

『三ウィンクで新しいエンドユーザー使用許諾契約にアクセスできます』


エンドユーザー使用許諾契約なんて別端末で読ませばいいのに、どうしてこの端末で読ませようとするのかねぇ――恒太の本日一回目の具体的な意思表示は、法と実装のあいだの妙な妥協点への突っ込みだった。しかも、その苦情は歯磨きペーストと一緒に洗面台へ流れていった。


 顔を上げると、視界の右上に小さく時刻が出ていた。

 七時十二分。


 口をゆすぎ、タオルで顔を拭きながら、恒太は半ば駆け足で洗面所を出た。居間兼食堂には、すでに母の姿はない。流しの脇には、出勤前に慌ただしく使った気配だけが残っている。母は医療事務で、朝が早い。いつものことだった。


 ダイニングテーブルでは父がトーストを片手に、ぬるくなりかけたコーヒーを飲んでいた。ニュース音声は流れていたが、父は画面ではなく紙の地方紙を広げている。恒太が入ってくると、新聞の上からちらりと目だけを向けた。


「起きたか。十八歳」


「起きたよ。おはようございます」


「夜更かししてたんだろ」


「してない。ちょっとだけ」


「その“ちょっとだけ”が毎回長いんだ」


 父はそう言って、焼きたてではなくなったトーストの皿を顎で示した。恒太は礼もそこそこに一枚ひっつかみ、ジャムも塗らずにかじりつく。噛みながら視界の片隅で通知群をもう一度呼び出すと、成人向け標準プラン移行の文言がまだ律儀に残っていた。


「なんか朝イチで課金開始のお知らせが来た」


「大人になったってことだ。プラン変更分はお小遣いから相殺しておくからな」


「祝いの言葉より先に契約更新見せるの、感じ悪くない?」


「感じは悪いな。でも世の中だいたいそんなもんだ」


 父はコーヒーをひと口すすったあと、新聞を畳んだ。


「フルアクセスになるんだろ。便利になるのはいいが、あんまり任せすぎるなよ」


「分かってるって」


「分かってる奴は、その言い方をする」


 柔らかい調子だった。叱るというより、儀礼に近い小言だった。十八歳になった息子に、とりあえず一度は言っておくべき文句を、父も父なりに選んでいるのだと分かる。


 恒太は二口目のトーストを押し込みながら、はいはいと頷いた。聞いてはいる。だが頭の半分は、実験棟までの最短到着予測と、一限開始までの残り時間に持っていかれていた。視界の左端には、薄く遅刻リスクのバーまで出ている。


「……あ、やべ」


「なんだ」


「今日、一限から実験」


「今ごろ気づいたのか」


 恒太は右手で右目のふちを軽く押さえた。レンズの位置を直す癖だった。表示がわずかに揺れ、通学ルートが半透明の線になって視界の奥に重なる。


『学科実験棟までの推奨到着経路を表示します』

『現在出発した場合、始業八分前に到着します』


「行ってくる」


「朝飯それだけか」


「売店でなんか食う!」


「せめて速度超過の警告は出されるなよ」


「出されたことないし」


 それだけ言い残して、恒太は鞄をひっつかむと玄関へ向かった。背中越しに、父が「免許も契約も責任がつくんだからな」と投げてきたが、返事をするころにはもう靴を踏み込んでいた。


 表に出ると、春先の空気がまだ少し冷たい。駐輪場の端に停めた通学バイクは、古いモデルの電動バイクだ、電源セルだけは最新の物にしてある。自動制御も車線協調もない。速度管理も衝突予測も、やるのは結局、人間の手足だ。ただし、コンタクトレンズ側のアシストは遠慮なく働く。


 エンジンスイッチを入れる。ダッシュボードの自己診断メッセージが走ってヨシとだけ告げる。


『通学ルートを設定しました』

『路面温度、良好』

『二つ先の交差点で工事車両あり。左側注意』


 恒太はヘルメットの顎紐を締め、軽くアクセルを開いた。父の言うとおり時代遅れかもしれないが、自分で動かしている感じは嫌いではなかった。ナナは横から口を挟むが、ハンドルまでは奪わない。そのくらいの距離感がちょうどいい、と今の恒太は思っている。


 住宅街を抜け、幹線道路へ出る。視界の隅に速度表示が浮かび、制限を超えそうになると控えめな色変化で知らせてくる。警告音は鳴らない。恒太の運転癖を学習したうえで、鬱陶しくならない範囲に調整されているのだ。


 信号待ちのあいだ、横断歩道の向こうを同じ制服の学生が二人、イヤリングに向かって何か話しかけながら歩いていくのが見えた。片方は笑っていて、もう片方は眠そうだった。みんな同じ朝を生きているのだな、と恒太はぼんやり思う。誕生日だろうが平日だろうが、一限は容赦なく始まる。


 学校までは順調だった。速度アラートは一度も出ない。急な割り込みもなく、雨もなく、信号も運がよかった。正門脇の駐輪場にバイクを滑り込ませ、鍵を抜くころには、視界の到着予測は始業十分前へと更新されていた。


『実験棟まで徒歩四分』

『本日の一限は材料力学実験です』

『前回の注意事項を再表示しますか』


「いい。覚えてる」


 そう答えてから、恒太は一瞬だけ足を止めた。

 前回の注意事項など、たしかに覚えている。覚えているのだが、いま自分が思い出そうとしたのは内容そのものではなく、ナナが再表示しようとしていた画面の輪郭だった気がして、ほんの少しだけ妙な感じがした。


 だが、そんな違和感は実験棟の白い壁を見た瞬間に消えた。

 遅刻しない。それだけで十分だった。


 怒濤の百分授業二つをぶち抜いた実験を終えて中庭に出ると、春先の陽射しは思ったより強かった。実験棟の白い壁がやけにまぶしく、恒太は目を細めながら購買の総菜パンの袋を破った。焼きそばパン。指先にソースがつくのを嫌っている余裕はない。腹が減っていた。


 ベンチに腰を下ろしたところで、同じ実験班の連中がぞろぞろ寄ってきた。


「お、いたいた」

「本日の主役」

「成人一号」


「一号は余計だろ」


 恒太が袋を膝の上で押さえながら言うと、向かいにどかっと座った友人が紙パックのコーヒー牛乳にストローを刺しながら言った。


「で、フルアクセスどうだ?」


「どうって言われてもな……あんまり実感ないな」


「うそつけ。なんかあるだろ。契約支援が深くなったとか、進路相談がえげつなくなったとか」


「朝から一限で材料力学だぞ。そんなもん試す暇あるかよ」


「いや、お前なら試す」

「わかる」

「絶対試してる」


 口々に決めつけられ、恒太は焼きそばパンをひとかじりしてから、渋々認めた。


「まあ、昨晩ちょっとだけ触った」


「ほら見ろ」

「何やった」

「進路?」

「金融?」

「十八禁?」


 最後の一言だけ、全員の食いつきが妙に良かった。恒太は眉をしかめた。


「なんでお前らそういう方向にばっかり反応いいんだよ」


「人類普遍の関心事だからな」

「高専男子だぞ」

「むしろそれ以外の何を期待した」


 恒太はため息をつき、パンをもう一口かじった。


「一応試したよ。駄目だったけど」


「えっ」

「なんで」

「十八歳だろお前」


「十八歳だけじゃ足りないんじゃないのかな」


「は?」


「俺ら学生だって情報はナナに握られてるじゃんか。なんたらカードと連動させてるし。十八歳以上かつ非学生という論理積じゃないと突破できないんじゃないのかな、知らんけど」


 一瞬、全員が黙った。


 それから、いちばん背の高い友人が嫌そうな顔をした。一人は頭を抱えて芝生に転げた。


「うわ。最悪」

「地味に嫌だなそれ」

「夢が絶たれた。俺来月の誕生日それなりに楽しみにしてたんだぞ」


「だから知らんって。そう見えたってだけ。『利用条件を満たしていません』しか出なかったし」


「理由は?」


「出ない。サポート参照ってだけ」


「嫌だなあ」

「めちゃくちゃ嫌だな」

「でも、ありそうなんだよなあ……」


 笑い話のはずだったのに、そこだけ妙に生々しかった。誰も声を荒らげはしない。ただ、自分の知らないところで自分の属性が束ねられ、見えない条件表の上に置かれている感じが、なんとなく気持ち悪かった。


 空気を変えるように、別の友人がペットボトルの茶を振った。


「で、そっちは。真面目な話。ほんとに何が増えたんだよ」


「契約支援とか、優先経路の細かい設定とか、進路相談の深度とかじゃないの」


「ふわっとしてんなあ」


「だって、まだ朝から学校来て実験してパン食ってるだけだぞ。いきなり世界が変わるわけじゃない」


「いや、変わるだろ。十八歳ってそういうイベントじゃん」


「選挙いけます、車の免許取れます、契約できます、課金増えます、以上」


「最後のやつだけ現実感あるな」


 笑いが起きた。


 恒太もつられて少し笑った。実際、その通りだった。朝いちばんに来た通知の中で、いちばん記憶に残っているのは、権限更新よりプラン変更のほうだった。


「でもさ」


 と、同級生の一人がイヤリングを指でつつきながら言った。


「大人向け標準プランって、もっとこう、ナナが先回りして何でも教えてくれるもんだと思ってた」


「何でも、は元からじゃね」


「いや、そういうんじゃなくて。ほら、もっと理由まで丁寧にさ」


「あー」


 恒太はそこで、実験の前に一瞬だけ覚えた妙な感触を思い出した。前回の注意事項を再表示するか、とナナは言った。覚えている、と自分は答えた。覚えているはずだった。なのに、思い出そうとしたとき、内容そのものより、再表示されるはずの画面の輪郭のほうが先に浮かんだ。


「……まあ、そのへんは、これから試す」


「なんだよ歯切れ悪いな」

「まさか、もう大人の現実に気づいたか?」

「契約のほうが本体だったとか?」


「うるさい」


 恒太はそう言ってパンの最後の一口を放り込み、立ち上がった。次の授業まで、あと七分。視界の端には次の教室への経路が薄く出ている。いつもの見慣れた案内だった。


 その見慣れた表示が、なぜか今日に限って少しだけ、説明を省いているように思えた。


 午後の数学は、校内でも悪名高い偏屈講師の担当だった。この授業では毎回、イヤリング型対話装置を教室前のトレイに置いてから入室しなければならない。


「今日は生身で考えろ」


 それがこの講師の口癖だった。


 恒太たちはいつものように小さく文句を言いながらイヤリングを外し、席についた。耳元が急に静かになる。

 コンタクトレンズの表示は残っていても、あの声だけはいない。


 講師は出席簿を閉じるなり、黒板に大きく書いた。


 マクローリン展開式


 教室のあちこちで、嫌そうな空気が動く。


「何をその顔をしている。二年でやった範囲の延長だぞ」


 講師はそう言って、何人かを見回し、それから恒太を指した。


「真鍋。出ろ」


 恒太は一瞬、昼休みの軽口の続きでも食らったような顔をしたが、周囲は助けてくれない。

 仕方なく立ち上がり、黒板の前へ出る。


 マクローリン展開。


 見たことはある。何度もある。

 ナナに訊けば、途中の意味まで丁寧にほどいてくれるやつだ。

 指数関数も、三角関数も、だいたい似たような顔で並んでいた気がする。


 気がする、というのがまずかった。


 チョークを持ったまま、恒太は止まった。


 最初の一行くらいは出ると思っていた。

 定義でも、形だけでも、何かしら手が動くと思っていた。

 だが、黒板の前に立つと、頭の中にあったはずの知識は、見覚えのある断片にばらけてしまった。


 微分。

 原点まわり。

 何階までだったか。

 どこに何が乗る。

 分母に何が来る。

 それで、どうしてあの形でいいのか。


 どれも、知っていたはずだった。


「どうした」


 講師の声が飛ぶ。


「二年で習った範囲の延長だぞ」


 延長。

 その通りだった。

 まるで未知の呪文を書けと言われたわけではない。

 踏み石は前に置かれている。

 置かれているのに、足が出ない。


 恒太は無意識に右耳へ手をやりかけ、何もないことに気づいて止めた。

 ナナに聞けば、多分すぐだった。どこから思い出せばいいか。なぜその形になるのか。今の自分がどこで詰まっているのか。

 そこまで含めて、耳元で静かに補助線を引いてくれただろう。


 だが今日は、その声がいない。


 黒板の前にいるのは、自分だけだった。


「……わかりません」


 恒太がようやくそう言うと、講師は呆れた顔もせずに言った。


「いい。なら、どこからわからんのかを言いなさい。そこが今日の授業だ」


 その問いにさえ、恒太はすぐ答えられなかった。


 わからない。

 だが、どこからわからないのかもうまく切り分けられない。

 覚えていたつもりだった。理解していたつもりだった。けれど実際には、知識の断片を、いつも誰かに繋いでもらっていただけなのかもしれなかった。


 針の筵の上に座るような百分授業が終わった。授業後半は講師による私的なAI排斥論の講義と言って良かった。

 ただ同級生の大半はAI無しで現場に放り出される事が無いことをとっくに見越しており、手計算で人を宇宙に送っていた時代とは比べるまでもなかった。


 恒太の通う高専には、学校名義の社団局を持つアマチュア無線クラブがあった。

 機材は学校の備品、コールサインはクラブのもの、だがマイクを握れるのは資格を取った部員だけだった。

 世界中にTCP/IPが張り巡らされているこの時代に、電波通信というアナクロさが恒太はなんとなく好きになった理由だ。アマチュア無線免許を取るほどでも無いけれどもクラブのもつ雰囲気が好きだった。


 今日もなんとなくアマチュア無線クラブまで来てしまった。

 ドアの上の「放送中」ランプが消灯しているのを確認してノックする。どうぞ、という声。


 4年生の篠宮先輩が放送卓脇で静かに読書をしていた。図書館から借りてきたのだろう。紙の書籍だ。


「どもです。今日は放送しないんですか」


「今日は部員も居ないし、いいかな~って。真鍋くんこそどうしたの」


「ちょっと、先輩に聞きたいことがあって……。今日、これが全部アンロックされたんですよ」


 恒太は自分の右目を指さす。


 篠宮先輩は本から目を上げた。しおり代わりに細い指を一枚挟んで閉じる。


「ああ、今日だったんだ。お誕生日おめでとう」


「ありがとうございます」


「で、全部って?」


「年齢保護プロファイル解除。成人向け標準プラン移行。契約更新。あとEULA」


 最後だけ妙に力を込めて言うと、先輩は小さく笑った。


「最後だけ急に現実だね」


「祝いの言葉より先に契約読ませようとするの、感じ悪くないですか」


「感じは悪い。でも、そういうところは昔から機械のほうが正直だよ」


 篠宮先輩はそう言って、脇の机に本を置いた。静かな人だった。静かなのに、言葉の切り方だけ妙に正確で、無線のログみたいに無駄がない。


「で、何か変わった?」


「それが、よくわかんなくて。昼休みにみんなにも聞かれたんですけど、あんまり実感ないんですよね」


「最初はそんなものだよ」


「そうなんですか」


「うん。増えるのは権利で、親切さじゃないから」


 恒太は思わず眉を上げた。


「親切さ?」


「未成年プロファイルって、思ってるよりだいぶ手厚いの。危なそうなところは先に丸めるし、説明も噛み砕くし、選択肢も絞ってくれる。成人向け標準プランは、そのへんが少し薄くなる。代わりに契約とか、夜間移動とか、自己責任で触れる範囲が広がる」


「なんか……大人扱いっていうより、放される感じですね」


「だいたい合ってるよ」


 篠宮先輩は頷いた。


「使える機能が増える、っていう言い方は半分だけ本当。ほんとは、向こうが手を添える量が減るだけのことも多い」


 恒太は「なるほど」と言いかけて、途中で止まった。

 その説明は、昼の数学の時間に自分が味わった嫌な感触と、妙に噛み合ったからだ。


「……それ、ちょっと思いました」


「何かあった?」


 恒太は放送卓の向かいの丸椅子を引き、腰を下ろした。


「数学で黒板に当てられたんです。マクローリン展開。二年でやった範囲の延長だぞ、って」


「きつい先生だね」


「きついです。で、見たことはあるんです。何回も。でも、前に立ったら全然繋がらなくて。わかんない、って言ったら、どこからわからんのかを言えって言われて」


 そこまで言って、恒太は苦く笑った。


「それすら、すぐ出てこなかったんですよね」


 篠宮先輩は少しだけ表情を改めた。

 慰めるでもなく、すぐに答えを言うでもなく、ただ話の形を確かめるみたいに一拍置く。


「公式を忘れた、っていう感じじゃなくて?」


「断片はあるんです。微分とか、原点まわりとか、そのへん。けど、一本の道にならないっていうか」


「繋がってないんだ」


「そうです。まさにそれです」


 恒太は思わず前のめりになった。


「しかも、前ならナナに聞けばたぶんすぐだったんですよ。どこが抜けてるかとか、なんでその形でいいのかとか。今日はイヤリング没収だったから、生身でやれって言われて……そしたら、何も出なくて」


 篠宮先輩は「ふうん」とだけ言った。

 その声は薄い相槌のはずなのに、妙に考えている響きがあった。


「それで、成人向け標準プランのせいかもしれない、って思ったんです」


「ありえなくはない」


「やっぱりですか」


「でも」


 篠宮先輩はそこで視線を少しだけ恒太の右目に向けた。


「今日だけ、妙に薄い感じはする」


 恒太は瞬きをした。


「先輩も?」


「今日、部室で少し試したの。次の公開運用の告知文、いつもなら候補を三案くらい出して、言い回しの差まで説明してくれるのに、今日は妙に短かった」


「どんな感じで」


「『部員募集を前面に出してください』だけ」


「短っ」


「短いよね」


 二人で顔を見合わせる。

 部室の奥で、受信機の待機音だけが細く鳴っていた。人の声ではない。電気の気配だけがそこにある。


「たまたまじゃないですか」


 恒太が言うと、篠宮先輩は肩をすくめた。


「たぶんね。回線負荷とか、プロファイル調整とか、そういう理由はいくらでもある」


「ですよね」


「でも、確認はしておこうか」


 先輩は右目を軽く伏せた。何かを視界で呼び出しているのだとわかった。

 それから、ごく小さく、しかし明瞭に言う。


「新入部員向けに、クラブ局と個人局の違いを百字以内で説明して」


 ほんの数秒の沈黙。


 先輩の目がわずかに細くなる。


「どうでした」


「答えは来た」


「来たんだ」


「『学校名義の社団局では、構成員が定められた範囲で運用する。個人局は免許人本人の局である』」


 恒太は黙った。

 正しい。たぶん正しい。だが、それだけだった。


「……それだけですか」


「それだけ」


 篠宮先輩は静かに息をついた。


「前なら、コールサインの扱いとか、機材の管理責任とか、初心者が混同しやすいところまで一緒に出たんだけど」


 恒太は右耳のあたりに触れた。昼の数学のときと違って、いまはイヤリングがある。それでも、欲しかった声の濃さが戻ってくるわけではない。


「なんなんですかね、これ」


「まだ何とも」


 篠宮先輩はそう言って、本の上に置いたままだったしおりを、指先でまっすぐに直した。


「ただ、君だけじゃないかもしれない、とは思う」


 その言い方が、恒太には少しだけ救いだった。自分が急に馬鹿になったわけではないのかもしれない。けれど同時に、それは別の種類の薄気味悪さでもあった。


 部室の窓の外では、夕方の光が校舎の壁を鈍く照らしている。放送中のランプはまだ消えたままだ。


 なのに恒太は、世界のどこかで、ごく小さなノイズが乗り始めているような気がした。


 篠宮先輩は数秒だけ黙って、それから椅子を引いた。


「……せっかくだし、受信だけしてみようか」


「今からですか」


「送信はしない。今日は聞くだけ」


 先輩が放送卓の電源を入れると、部室の静けさの質が変わった。

 待機音とは違う、生のざらついたノイズが薄く立ち上がる。

 恒太は思わず息を止めた。


 ナナの声は、いつも耳のすぐそばで完成された形で届く。

 けれど無線の音は違う。

 遠く、弱く、崩れかけたままこちらへ来る。

 拾う側にも少し努力がいる。


「聞こえる?」


「……はい」


「こっちは、まだ自分で拾えるから好きなんだ」


 篠宮先輩はそう言って、周波数ダイヤルに指を添えた。


 部室の窓の外では、夕方の光が校舎の壁を鈍く照らしている。放送中のランプはまだ消えたままだ。


 それでも恒太は、そのざらついた音の向こうに、今日一日ずっと失いかけていた何かの輪郭を、ほんの少しだけ感じた。


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