第2話「深海からのコンタクト」
防衛学園の対応は、徹底して無機質だった。
教室に乱入した自律型戦闘ドローンは、駆けつけた重武装の警備教員たちによって迅速に回収された。粉々に吹き飛んだ窓ガラスも、授業が再開されるまでのわずか十分の間に、清掃用ドローンと自動修復システムによって真新しい防弾ガラスへと張り替えられた。
「……先ほどの騒ぎは、学園のナビゲーションシステムの軽微なエラーによるものだ。君たちの命に別状はない。授業を再開する」
無精髭を生やした第8予備科の担任教師は、黒板にめり込んだ高威力のゴム弾をペンチで引き抜きながら、ひどく面倒くさそうにそう言い放った。
軽微なエラー。直撃すれば頭蓋骨が陥没していたというのに、学園側はそれを「事故」として処理したのだ。生徒たちの命など、その程度の扱いということだ。
「……ふざけないで。あんな殺戮兵器の暴走が、エラーなわけないじゃない……っ」
放課後の薄暗い教室。
如月は、自身の防衛用端末を強く握りしめながら、忌々しげに吐き捨てた。
隣の席から観察する湊の目には、彼女の強がりの裏にある「恐怖」がはっきりと見て取れた。瞳孔はわずかに開き、呼吸は通常より20パーセント浅く、速い。完璧にアイロンがけされたスカートを掴む白い指先は、小刻みに震えている。
彼女は、この学園の冷酷なシステムに怯えきっているのだ。
「佐藤くん。あんた、本当に運が良かったわね」
「……ああ。宝くじでも買おうかと思うよ」
「ふざけないで。次は死ぬかもしれないのよ」
如月は湊を鋭く睨みつけた。
しかしその視線には、底辺に落ちた自分と同じ目線に「誰か」がいてほしいという、無意識の依存と懇願が混じっていた。
「明日は基礎体力の測定があるわ。いいこと? 足手まといにならないように、しっかり準備しておきなさい。私は……私は絶対に、這い上がるんだから」
誰に言い聞かせるでもなくそう言い捨てると、如月は逃げるように教室を後にした。
誰もいなくなった教室で、湊は自身のスニーカーを見下ろした。
綺麗に結び直された靴紐。
あのドローンの暴走はエラーなどではない。明確な殺意を持ったハッキングだ。それを確信していながら、湊の心拍数は驚くほど平常だった。死の恐怖がない。むしろ、自身の身体に残る「無意識に定規を蹴り上げた感覚」の方が、よほど不気味だった。
*
その日の深夜。
第8予備科に与えられた寮は、学園の敷地の最果てに位置する、まるで刑務所のような無機質なコンクリート造りの建物だった。
三畳ほどの狭い個室。硬いベッドと、壁に備え付けられた旧式の学習用端末があるだけの、冷え切った空間。
湊は暗闇の中でベッドに横たわり、天井の染みを数えていた。
眠気は来ない。脳の一部が常に覚醒し、周囲の足音や風の音、微かな電子音をレーダーのように拾い続けている。いつ「敵」が襲ってきても、0.1秒で相手の頸動脈を切り裂けるよう、枕の下には昼間に拝借したカッターナイフの刃を仕込んである。
――ジジッ。
不意に、部屋の隅にある学習用端末の電源が、勝手に入った。
青白い光が、狭い部屋を照らし出す。
その瞬間、湊の身体は思考よりも速く動いていた。
音もなくベッドから跳ね起きると同時に、手首のスナップだけで、手に持っていたカッターナイフの刃を投擲する。
パァンッ!という破裂音。
寸分の狂いもなく飛来した刃が、端末上部に付いているカメラレンズを正確に貫き、粉砕した。さらに湊は流れるような動作で床を蹴り、端末の背面に回り込むと、分厚い電源ケーブルを素手で強引に引きちぎった。
バチッと火花が散り、端末の画面が完全に沈黙する。
カメラによる視覚情報と、電源という供給源。その両方を、開始わずか二秒で物理的に破壊したのだ。それが、生存本能という名のバグを抱えた湊が弾き出した「最適解」。
しかし。
『素晴らしい判断ね。電子の攻撃に対して、物理的な完全破壊で応じる。それが一番確実で、一番恐ろしいわ』
部屋の天井――火災報知器に内蔵された超小型スピーカーから、鈴を転がすような少女の生の声が降ってきた。
どこか楽しげで、それでいてひどく冷たい、深海の底から響くような声。
同時に、部屋のスマート照明が勝手に赤色に変わり、電子ロックのかかった鉄の扉から「ガチャン」と施錠音が響いた。
『でも、無駄よ。ここはもう、私の胃袋の中だもの』
湊は舌打ちをした。
相手はただのハッカーではない。この学園のあらゆるインフラ、設備、ネットワークを根底から支配している「怪物」だ。今、この部屋の酸素濃度を操作されて毒ガスを流されれば、湊に防ぐ術はない。
「……何者だ」
『こんにちは、名無しの新入生さん。あるいは、佐藤湊くんと呼んだ方がいいかしら?』
天井のスピーカーが、クスクスと不気味に笑う。
『あなたの経歴、よくできているけれど、底流のコードに裏社会の癖が残っているわ。私が五分で作る偽造IDの方がまだマシね。何者から逃げているのかは知らないけれど、このままじゃすぐに追っ手に尻尾を掴まれるわよ』
「……お前が、今日のドローンをハッキングしたのか」
『いいえ。あれは外部からの雑なクラッキングよ。私はただ、その「結果」を監視カメラで0.05倍速で鑑賞していただけ』
少女の声が、ひどく甘ったるく、熱を帯びたものに変わった。
『机の上の定規を爪先で跳ね上げ、銃身を打ち据えて、ゴム弾の軌道を強引に上方へ逸らした。あの極限状況で、無意識のうちに弾き出した最適解。本当に……ゾクゾクするほど洗練された暴力だったわ』
湊は暗闇の中で目を細めた。
こいつは、知っている。自分の異常性と、あの瞬間に何が起きたかを。
「要求を言え。学園上層部に報告する気がないから、俺をここに閉じ込めているんだろう」
『察しが良くて助かるわ。取引をしましょう、湊くん』
スピーカー越しの少女は、まるで悪魔のように囁いた。
『私の名前は、白神祈。第1研究室の最深部で、この学園の全てを掌握している女よ。でも、私はその隔離室から一歩も出ることができない。外の空気を吸えば死んでしまう、哀れな欠陥品なの』
「……」
『私はあなたを覆い隠す完璧な「盾」になる。学園の監視システムも、外部からの探索も、全て私が偽装してあなたの正体を守ってあげる。その代わり――あなたが私の「手足」になりなさい』
「手足、だと」
『私には最強の頭脳があるけれど、現実世界に干渉する物理的な力が無いの。だから、あなたが私の描く戦術を、その異常な身体能力で実行してほしい。二人でこの退屈な学園を、理不尽なシステムを、裏から全部ひっくり返して遊びましょう』
湊の脳内で、凄まじい速度で生存確率の計算が行われていた。
この誘いを断れば、彼女はあの映像を学園上層部か、湊を追っている「組織」にリークするだろう。逆に彼女と手を組めば、この学園で最も強固な隠れ蓑を得ることができる。
肉体を持たない最強の「頭脳」と、記憶を持たない最強の「肉体」。
それは、ひどく歪で、しかし完璧なパズルのピースだった。
「……いいだろう。契約成立だ、白神祈」
『ふふっ、嬉しい。まさか本当に深海からこんな化け物を釣り上げることができるなんて』
「ただし、条件がある。俺の平穏を最優先にしてくれ。俺が目立つわけにはいかない」
湊の冷徹な要求に、祈は楽しげに同意した。
『もちろんよ。だから、盤面には「王様」が必要ね。裏で私たちが全てを操り、手柄は全てその王様に押し付ける。誰もあなたの異常性には気づかない。誰か、適任の神輿はいるかしら?』
「……一人、いる」
湊は、昼間に隣の席で震えていた少女の姿を思い浮かべた。
「プライドが高く、承認欲求が強い。そのくせ極度のプレッシャーに弱く、常に何かに依存したがっている。裏から成功体験という名の餌を与え続ければ、簡単に俺たちの都合のいい傀儡(操り人形)になる女が」
それは、感情の欠落した化け物による、冷酷極まりない心理分析だった。
如月という少女の人間性を「利用価値のある部品」として完全に解体し、盤面に配置する。
『素晴らしいわ。じゃあ、まずは明日の基礎体力測定……そのお姫様に、極上の「成功」をプレゼントしてあげましょうか』
暗い部屋の中で、湊は感情のない瞳のまま、初めて微かに口角を上げた。
ここから先は、理不尽な学園を蹂躙する、怪物たちの遊戯の時間だ。
第3話へ続く




