第3話 「盤上のピタゴラスイッチ」
翌朝。
国立・国際環境防衛学園の広大な敷地の一角に設けられた「第4市街地演習場」は、重苦しい空気に包まれていた。
コンクリートの残骸が転がる精巧な廃墟のレプリカ。上空には生徒の挙動を監視する数十機の小型ドローンが羽音を立て、物陰には自動索敵・迎撃用のターレット(自動砲台)が潜んでいる。
「これより、第一回『市街地・生存回避シミュレーション』を開始する」
装甲車の上に立つ教官が、拡声器で無機質に告げた。
「ルールは単純だ。廃墟のスタート地点から、ペイント弾やスタンガンを装備した無人兵器の目を潜り抜け、300メートル先のゴールへ到達しろ。被弾すれば即失格、及び大幅な減点。特に、下位の科に所属する者にとっては、この点数が半年後の『退学勧告』に直結すると思え」
退学勧告。それはつまり、この学園からの「追放」を意味する。
その言葉に、第8予備科の生徒たちの間に明確な絶望が広がった。彼らの大半は、この過酷な演習で生き残るだけの判断力も身体能力も持ち合わせていない。
「……っ、はぁっ、はっ……」
湊の斜め前で、如月が過呼吸気味に肩を上下させていた。
彼女の顔色は土気色で、防衛用ゴーグルを持つ手は痙攣したように震えている。得意のはずの座学とは違い、一瞬の判断ミスが「死」に直結する実技は、プレッシャーに脆い彼女にとって最大の鬼門だった。
(……心拍数140。視線のブレが酷い。自律神経が完全にパニックを起こしているな)
湊は、無表情のまま如月の様子を観察していた。
この状態の彼女が演習場に入れば、開始十秒で自動砲台の餌食になるだろう。
――ジジッ。
湊の耳の奥にねじ込まれた極小の通信デバイスから、微かな電子音が響いた。昨夜、自室の換気口から小さな虫型ドローンが運んできた、祈からの支給品だ。
『おはよう、湊くん。準備はいいかしら?』
鈴を転がすような、深海の底から響く祈の甘い声。
(ああ。……だが、確認しておきたい。俺は『自分の意思』で都合よくスーパープレイができるわけじゃない。あれはあくまで、身の危険に反応する無意識の生存本能だ。俺に「あそこを撃て」と指示を出しても、身体は動かないぞ)
『ええ、分かっているわ。あなたは自我のある人間ではなく、条件反射で動く精巧な殺戮兵器。だから、私があなたに与えるのは「命令」ではなく、「トリガー」よ』
祈の声には、狂気じみた知性が滲んでいた。
『私が学園のシステムに干渉して、あなたの周囲の監視カメラ映像を0.3秒遅れのループ映像に差し替える。あなたはただ、いつも通り「生き残る」だけでいい。あとは全部、私の計算の盤上よ。さあ、ゲームを始めましょうか』
祈の合図とともに、教官の電子ピストルが鳴り響いた。
「次、如月! 出ろ!」
怒声に弾かれるように、如月が廃墟へと足を踏み入れる。
湊もまた、数秒の間隔を空けてその後を追った。
廃墟の中は静まり返っていた。しかし、センサーの赤い光があちこちで点滅しているのが見える。
如月はガチガチに強張った足取りで、瓦礫の陰に隠れながら進む。しかし、彼女の動きは素人目にも分かるほど単調で、周囲の警戒が完全に疎かになっていた。
――ピピピッ!
突如、如月の右斜め前方の瓦礫が開き、隠蔽されていた六銃身のガトリング式ペイント砲が姿を現した。赤いレーザーサイトが、如月の胸元を正確に捉える。
「……あ」
如月は逃げることも、避けることもできず、蛇に睨まれた蛙のように完全に硬直した。
頭が真っ白になる。終わった。被弾する。退学になる。私の人生は、ここで――。
『――死にたくなければ、私の言う通りに動きなさい』
突然、如月が装着している防衛用ゴーグルの内蔵スピーカーから、冷酷な少女の声が響いた。
同時に、ゴーグルのディスプレイに、一本の「青いライン(光の道標)」が強烈な輝きと共に浮かび上がる。
『右へ1メートル跳べ。今すぐ』
それはアドバイスではなく、絶対的な命令だった。
如月は声の正体を疑う余裕などなかった。迫り来る銃弾への恐怖が、思考を上書きする。彼女は悲鳴を上げながら、青いラインが示す通りに、無様に見苦しく右の瓦礫へとダイブした。
ダダダダダッ!!
直前まで如月が立っていた空間を、無数のペイント弾が通過していく。
間一髪。しかし、ターレットは即座に銃身を旋回させ、逃げ込んだ瓦礫の裏にいる如月にトドメを刺そうと狙いを定めた。今のダイブで足を捻った彼女に、もう逃げ場はない。
(祈。彼女が撃たれるぞ)
後方から様子を窺っていた湊が、通信機越しに思考を送る。
『ええ。だから、ここからはあなたの出番よ、湊くん』
祈が楽しげに笑った、次の瞬間。
湊の頭上を飛んでいた監視用ドローンの1機が、突如として『制御不能』を起こし、凄まじい速度で湊の顔面に向かって墜落してきた。
紛れもない、祈のハッキングによる意図的な「墜落」だった。
(……っ!)
湊の意思とは無関係に、彼の細胞が「死の危険」を察知して爆発的に稼働した。
視界がスローモーションになる。心拍数は一切上がらないまま、恐るべき静寂の中で、湊の身体が「最適解」を弾き出した。
避けるだけでは、破片を浴びる。ならば、迎撃。
湊は足元のコンクリート片を爪先で蹴り上げると、空中で反転しながら、そのコンクリート片を鞭のような回し蹴りで打ち据えた。
――パァンッ!
空気を裂く破裂音。
砲弾と化したコンクリート片は、墜落してくるドローンのローターを正確に粉砕。
さらに、砕け散ったドローンの金属部品とコンクリートの破片は、物理法則の極限の計算(祈のシミュレーション)に従って散弾のように飛び散り――そのうちの数個が、瓦礫の向こうで如月に狙いを定めていたターレットのセンサー部分に深々と突き刺さった。
ガガッ、ピーーッ。
視覚を潰されたターレットは沈黙し、機能を停止した。
「……え?」
目を固く閉じていた如月が、恐る恐る顔を上げる。
彼女の目の前には、なぜか機能を停止し、火花を散らしているターレットがあった。そして後方では、湊が「ドローンの墜落に驚いて、運良く瓦礫の陰に倒れ込んだ」ような姿勢でしゃがみ込んでいる。
『……立って、お姫様。まだゴールじゃないわ』
ゴーグル越しに、祈の声が甘く囁く。
『青い光の道を辿りなさい。私の言う通りにすれば、あなたは生き残る。誰もあなたをバカにできない、絶対的な頂点に連れて行ってあげる』
如月の瞳から、恐怖の涙がこぼれ落ちた。
それは安堵でもあり、歓喜でもあった。
自分の無力さに絶望していた彼女にとって、この謎の声と「完璧な正解を教えてくれる光の道」は、文字通り神の救済だった。
「……はいっ……!」
如月は立ち上がり、狂信者のような目で青いラインを追いかけ始めた。
ここから先の彼女は、もはや恐怖に怯える落ちこぼれではなかった。祈の完璧なルート指示と、背後で湊が引き起こす「偶然を装った異常な物理的破壊」によって、如月はまるで神がかった熟練の工作員のように、全てのトラップと無人兵器を潜り抜けていった。
*
「……第一種目、クリア。タイム、1分42秒……!? 歴代トップタイだと!?」
ゴール地点。
教官の信じられないというような絶叫が、演習場に響き渡った。
モニターを見ていた他の生徒たちも、如月の信じがたい無双劇に声すら出せず、ただ呆然と立ち尽くしている。
「はぁっ、はぁっ……」
ゴールラインを越えた如月は、肩で息をしながら、電光掲示板に輝く自身の名前を見上げた。
かつて彼女を嘲笑した上位科の生徒たちが、今、自分を畏怖の目で見つめている。
脳髄を焦がすような、強烈な快感。エンドルフィンが爆発し、視界がチカチカと点滅する。
『よくやったわ、お姫様。それがあなたの本当の実力よ』
祈の囁きが、如月の脳を甘く溶かしていく。
彼女はもう、声の正体を疑うことすらしなかった。ただ、この圧倒的な優越感を与えてくれる存在に、自身の全てを委ねる(依存する)ことだけを受け入れていた。
「見事な盤面だったな、祈」
遅れてゴールラインを歩いて越えながら、湊は通信機越しに小さく呟いた。
監視カメラには、湊が「運良くドローンの墜落から逃れ、如月の通った安全な道を後からついてきただけ」の平凡な生徒として記録されている。
『ふふっ。あなたの身体の反射速度、私の計算の1.2倍も速かったわ。本当に、可愛げのない化け物ね』
「これで、極上の神輿が完成したわけか」
『ええ。彼女はもう、私たちの声なしでは生きられない。完璧な共犯関係の成立よ』
歓声の中心で、誇らしげに胸を張る如月。
彼女は知らない。自分が、恐ろしい二匹の怪物たちの遊戯の盤上に置かれた、ただの「駒」に過ぎないということを。
理不尽な防衛学園を裏から支配する、不可視の反逆劇が、今静かに幕を開けた。
第4話に続く




