第1話 「記憶のない新入生」
自分が何者かの実験動物ではないかと疑い始めたのは、入学式からちょうど一週間が経過した、今日の朝のことだ。
佐藤湊の最も古い記憶は、「二週間前」にある。
気がつくと、ひどく無機質で、見知らぬ路地裏のコンクリートを見上げていた。過去の記憶は一切なく、自分が何者で、どこから来たのかもわからない。
ただ、空白の脳の奥底で、警報ベルのように絶え間なく鳴り響く強烈な直感だけがあった。
『見つかってはいけない。隠れろ。安全な場所へ潜り込め』
得体の知れない恐怖から逃れるため、湊の身体は「勝手に」動いた。
戸惑う脳を置き去りにして、手足が最適解を弾き出す。裏社会のネットワーク端末を息をするようにハッキングし、「佐藤湊」という平凡な身分を偽造。そして、国の最高機密機関であり、最も外部からの干渉を受けにくい要塞――
「国立・国際環境防衛学園」の入学試験に潜り込んだ。
筆記試験では、まるで最初から答えを知っているかのように手が動き、あえて「下から数えたほうが早い、目立たないギリギリの点数」を叩き出して合格した。
自分を追っている見えざる「敵」が何者かはわからない。だが、国家予算が注ぎ込まれ、表社会の厳重な監視下にあるこの学園にいれば、容易には手を出せないはずだ。
しかし、湊自身が最も恐ろしいと感じていたのは、追っ手の存在よりも「自分自身の異常性」だった。
記憶を失い、見知らぬ場所に放り出されたというのに、指先一つ震えない。心臓の鼓動は常に一定のリズムを刻み、極めて冷静に周囲の環境を分析している自分がいる。
まるで、感情のスイッチが物理的に切断され、純粋な生存本能だけが稼働しているかのように。
*
学園の最下層、第8予備科――通称「スクラップルーム」。
それが、目立たない成績で入学した湊に与えられた居場所だった。
一週間前の『入学式』は、この学園の異常な実力主義を象徴するものだった。
国家予算が降りる第1〜第3研究室(上位科)のエリート新入生たちは、国営放送のカメラが回る煌びやかな大講堂で、政府高官からの祝辞を受けていた。
一方、湊たち第8予備科の生徒は、講堂への立ち入りすら許されなかった。薄暗く澱んだこの教室に押し込められ、壁の粗悪なモニター越しに、エリートたちの晴れ舞台をただ見せつけられたのだ。
「……ちょっと、そこのあなた。いつまで窓の外をぼーっと見ているつもり? HRが始まるわよ」
不意に、澱んだ教室の空気を切り裂くような、凛とした声が響いた。
声の主は、真っ直ぐな黒髪を揺らす少女だった。アイロンの効いたシワ一つない制服、背筋の伸びた完璧な姿勢。どう見てもこのスクラップルームには似かわしくない、純度百パーセントの優等生だ。彼女の名前は確か、如月と言ったか。
入学式の日、モニターに映るエリートたちを最も憎悪の込もった目で睨みつけていたのが彼女だった。
湊は言われるがまま、窓際の最後列の席に腰を下ろした。如月は苛立たしげなため息をつきながら、湊の隣の席に座る。
彼女は実技試験で極度のプレッシャーからパニックを起こし、致命的なミスを犯してこの第8予備科に落とされたと噂で聞いていた。完璧主義ゆえに自身の失敗を許せず、周囲にも過剰なまでに厳しく当たってしまう。彼女もまた、重圧に折れた一人なのだ。
「佐藤くん、と言ったわね。無気力なのは勝手だけど、ここは結果がすべての防衛学園よ。半年後の実地演習でポイントを稼げば、科の昇格ができる。せめて私の足手まといにだけはならないでよね。私は絶対に、上位の科に返り咲くんだから」
「……善処するよ」
湊が気の抜けた返事をした、その時だった。
ジジッ……という、耳障りな電子ノイズが教室のスピーカーから微かに漏れた。
直後、ビーーーッ!というけたたましいサイレンが教室に鳴り響く。
『緊急事態。第3演習場にて、実地訓練中の自律型戦闘ドローンが制御不能に陥りました。生徒は直ちにシェルターへ――』
アナウンスが途切れるよりも早く、教室の窓ガラスが轟音と共に粉々に吹き飛んだ。
悲鳴が上がる。暴走した六脚型の大型ドローンが、外壁を這い上がって第8予備科の教室に乱入してきたのだ。
あり得ない。演習場のドローンが、いくつもの強固な隔壁やセキュリティゲートを突破して、一直線にこの旧校舎へ向かってくるなど。明らかに、何者かが意図的に強固なファイアウォールをハッキングし、この第8予備科を――あるいは「誰か」を標的にして放ったとしか思えない不自然さだった。
赤いセンサーレンズが、無慈悲に教室内をスキャンする。ドローンの銃口が、硬直して動けない如月の眉間を正確に捉えた。
彼女の顔から一瞬で血の気が引く。「あ……」と、声にならない悲鳴が漏れた。
発砲の閃光。
訓練用とはいえ、直撃すれば頭蓋骨が陥没する高威力の硬質ゴム弾が放たれた。
カラン、と。
ひどく間の抜けた音が、静まり返った教室に響いた。
「……え?」
如月が恐る恐る目を開ける。彼女の顔の横、黒板の端に、ひしゃげたゴム弾がめり込んでいた。
湊は、自分の足元を見つめていた。靴紐が解けている。
「あぶないところだった。靴紐を踏んで転びそうになったよ」
湊はしゃがみ込み、ゆっくりとスニーカーの紐を結び直していた。
如月の目には、それが奇跡的な偶然の連鎖にしか見えなかった。銃弾が放たれた瞬間に、湊が靴紐を結び直そうとタイミング悪くしゃがみ込み、その頭上をゴム弾が通過し、さらに運良くドローンのセンサーに湊の脱げかけた靴のつま先が当たり、銃口の軌道が逸れたように見えたのだ。
「あ、あんた……なんて運のいい……」
腰を抜かした如月が震える声で呟く。他の生徒たちも、偶然が生んだ奇跡に呆然としていた。直後、駆けつけた教師陣の放った強烈な電磁パルスによって、ドローンは完全に機能を停止した。
しかし、湊自身はひどく混乱していた。
(……靴紐なんて、解けていなかったはずだけどな)
しゃがんだ記憶はない。ただ、窓ガラスが割れる少し前、微かな電子ノイズが鳴った瞬間に、ひどく不快な悪寒を覚えた。そして気づけば、視界が下がり、手は器用に蝶々結びを作っていたのだ。
これほどの異常事態だというのに、心臓の鼓動は全く乱れていない。脈拍は平常時のまま。まるで、自分の身体が自分のものではないような、ひどく冷たくて機械的な感覚。
恐怖も、驚きもない。ただ身体だけが勝手に「生存のための最適解」を弾き出したかのような、不気味なほどの静寂が湊の中にあった。
*
同じ頃。
学園の地下最深部。国家予算の半分を握るとされる第1研究室の中枢――分厚い鉛の隔壁に守られた「特別隔離区画」。
完全に無菌化され、無数の生命維持ケーブルが這い回る巨大な医療用カプセルベッドの中で、一人の少女が薄暗いモニター群の光を浴びて微笑んでいた。
彼女は、この学園の頭脳と呼ばれる天才情報分析官。過去の兵器開発事故の巻き添えにより、外界の空気に触れることすらできない重度の免疫不全と情報過敏症を抱え、この地下深くからネットワーク経由でしか世界と繋がれない「檻の中の女王」。
「……見つけた」
生命維持装置の静かな駆動音の中、少女の細い指先が空を這うように動く。
彼女の瞳に映るのは、奇跡でも偶然でもない。
先ほどの第8予備科の監視カメラ映像。それを0.05倍速で再生した映像には、恐るべき真実が記録されていた。
発砲の0.02秒前。
あの凡庸な顔立ちをした少年は、極限の生存本能によって無意識下で『回避』と『迎撃』の最適解を弾き出していた。しゃがみ込む動作のついでに、机の上に置かれていた金属製の定規を爪先で蹴り上げ、ドローンの銃身の下部をミリ単位の精度で弾き飛ばしていたのだ。一切の無駄を削ぎ落とした、洗練され尽くした暴力の軌跡。
それは、ただの人間業ではない。後天的に肉体の細胞レベルまで叩き込まれた、狂気的な反復練習と実戦経験の産物。
「彼なら、私の『手足』になれる」
少女は歓喜に打ち震えた。
自分は最強の頭脳を持ちながら、この隔離室から一歩も出ることができない。自身の描く完璧な戦術を、寸分の狂いもなく外の世界で実行できる「無敵の駒」を、彼女はずっと探していたのだ。
深い海の底で見つけた極上の原石。
少女は、外の世界へ繋がるモニター越しに、見えない少年の頬を撫でるようにそっと手を伸ばした。暗い無菌室の中に、彼女の狂気じみた、しかし純粋な笑い声が静かに響き渡った。
第2話へ続く




