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剣の楽土  作者: かが介六郎
第一部 楽土の華

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幕間 騎士 イーゴン・アシュクーム

すぐ後ろから、浅く小刻《こきざ》みな息づかいが聞こえてくる。

背に伝わる重みは、確かに彼女が生きている証だった。

サヤ嬢は、とても気丈《きじょう》に振舞っている。

だが…ここ二日が山だろう。

かつてカレーの包囲戦で、耐えがたい空腹に苛《さいな》まれたことを思い出す。

彼女が感じている苦しみは、少しはわかってあげられる…


しかし、私の経験したそれとは違い、彼女にとってこれは、手を伸ばせば解消するかもしれない、誘惑《ゆうわく》との戦いでもある。

近くに水場がある気配を感じた。なるべく、早く通り過ぎなければ。

彼女が感じている渇きと恐怖を、私は”わかる”と言ってよいのだろうか。

私の共感など、何の意味もない。


散発的に、小規模な戦闘が起きている。

しかし、ツル殿とアサクラ殿の敵ではない。

不意打ちのつもりか、サヤ嬢を背負った私を直接狙う者もいたが、セラ殿が敷《し》く分厚い剣の壁を突破するものはなかった。

少々の騒音では、サヤ嬢の意識は戻らない。

それほど、彼女の眠りは深い。

…だが当然、安眠とはほど遠い。



「イーゴンさん…ごめん、なさい。」


おや、気が付きましたか、サヤ嬢。

謝ることなどありません。

どこか、一服できる場所を探しましょう。



彼女の心は、かなり不安定になってきている。

渇きは容赦なく、彼女の心を圧《へ》し折らんと、毎秒押し寄せているだろう。

さらには、迷惑をかけていると自責の念があると見える。

しかし、ここには彼女の存在を迷惑がる者は一人としていない。


ツル殿は進行ルートを吟味《ぎんみ》し、出来る限り最速で上層を目指す意識を明確にしている。

アサクラ殿はそれを細かく修正し、地形的にサヤ嬢に負担をかけにくい道を選択し、提案している。

セラ殿はサヤ嬢の心身のケアを、過剰なくらいに施《ほどこ》している。

彼女がいなければ、サヤ嬢の心は、とっくに壊れてしまっていたかもしれない。

私はどうだ。

何が、できる。


少しの間、落ち着ける場所を見つけた。

石造りの空間のようだが、馴染みのない材質だ。

西洋の建築様式ではない。よく見ると、石ではなく土だ。

硬い植物の繊維《せんい》のような物で編まれたベッドに、彼女を寝かせる。

意識は戻っているようで、目を合わせると、彼女は力なく笑った。


セラ殿に引き継ぎ、私とあとの二人は、二つある出入口を分担して見張る。

私は気を引き締め、注意深く警備した。

襲撃はしばらくないが、それは、今は起きていない、というだけだ。油断はできない。

誰もいない空間に剣を向け、いもしない敵を睨《にら》みつける。

それが私の役割だと自分自身に言い訳をした。

役割に没頭《ぼっとう》して、思考を塗り潰す。

その浅はかさが、ひどく滑稽《こっけい》で自嘲《じちょう》した。

…私には、まだ出来ることがあるのではないのか。



さて、出発しますよ。ええ、平気です。

この程度、問題ありません。私は、一晩中だって走れますよ。

ああ、あの時はセラ殿の生前の話をしていたのですか。

それは構いませんが、私の人生は、人に話して面白いものかどうか…

はは、セラ殿も同じことを?


私、イーゴン・アシュクームは、イングランドの南部に領地を持つ、小さな領主の家に生まれました。

代々騎士の家系で、父は勇名を馳《は》せた槍術《そうじゅつ》の使い手でした。

幼い私は父に憧れ、槍術の稽古《けいこ》に精を出したものです。

二年経ち、三年経ち、突然、辞めさせられました。

…槍は、私にとっては繊細《せんさい》すぎた。


学問が好きでした。

私は、父の書斎に入り浸り、そこにある本を片っ端から、読み尽くしました。

歴史に思いを募《つの》らせ、領地の収支報告の間違いを指摘し、地図を読むのが得意で…

それも突然、辞めさせられました。

学問の道は、騎士の家系には許されなかった。

残ったのは、憧れても、好いてもいない、剣だけになりました。

しかし、腐ってもいられません。

領地を持つ家柄の長男というのは、しっかりと身を立てる義務があると、厳しく言いつけられていましたので。


槍術よりは剣術の方が向いていたようで、段々と力を付けていく感覚が楽しくて、結局のところ、夢中で剣を振るうほどになっていた。

国境近くの交易路での哨戒《しょうかい》が、初めての仕事でした。

当時、わが国はフランス王国との戦争を繰り返していたのです。

私は、早く戦に出たかった。

戦で武功を挙げて、自分が何かを成し遂げられるんだと、証明したかった。

若かったのですよ。

今のサヤ嬢と、同じくらいの歳でした。


初陣は、二十歳の時でした。

フランスのクレシーという土地で、大規模な合戦があったのです。

集団戦の訓練は受けていましたし、直属の指揮官はベテランでした。

若い私は気炎万丈《きえんばんじょう》の意気。

大きな不安はなかった。


戦いは、イングランドが優勢でした。

結果的には、ほとんど一方的といってもいいほど、大勝したのです。

勝負は決したと思った時、フランスの兵士への攻撃はまだ続いていました。

その後もずっと、ずっと攻撃は続きました。

逃げ出した騎兵に踏みつぶされる者、遮蔽物《しゃへいぶつ》のない場所で、一度に十本の矢を受けた者。

そして、なぶり殺しにされた、戦闘能力を持たない軍楽隊《ぐんがくたい》…

ひどい光景でした。


私は、フランス人のことを敵だとしか思っていなかった。

しかし、彼らは同じ人間でしかなかった。

生まれた土地が違って、上の者がいがみ合うせいで、兵士は命を消費して使われる…

戦とは、そういうものでした。


私は、そんなことも知らなかった。

学問の道に、こんな愚か者が進みたがっていたなどと、おこがましいと自分を恥じました。


ええ、その後もフランスとの戦争は続きました。

断っておきますが、セラ殿に思うところはありません。

生きていた時代も違いますし、出身で人を評価することなど断じてしません。

初陣から十年間の経験を、かいつまんで話すならば、やはり最後の戦のことになるでしょうね。

ポワティエという平野での、これまた大規模な合戦でした。

緒戦《しょせん》で、私は三人倒し、その次に戦った兵士と、相打ちになりました。

打ち合いで、相手は即死しましたが、私は首に深い傷を負い、そのまま…

剣に身を捧げるしかなかった男の、呆気ない幕切れでした。


――後悔、ですか。

そうですね……妻と、二歳の子供を残していったことでしょうか。

息子は、まん丸な顔を真っ赤にして、とんでもない大声で、よく泣く子でした。

私はあやすのが得意ではなかったので、そうなったら妻を頼り、泣き止んだら、また抱いて可愛がる。

平凡で、幸せでした。



サヤ嬢は、ほとんど反応しなくなってきていた。

移動中、声をかけ続けたが、聞こえていたかどうかわからない。

いよいよ、限界が近いのかもしれない。

弱々しい呼吸と、妙に早い彼女の心臓の音が、焦る私を追い立てるように、歩みを速める。


「もう、限界でしょう。」


サヤ嬢を木の床に寝かせ、セラ殿が介抱している。

ツル殿は見るからに取り乱していて、いつもと違った不安げな口調で、強がったような言葉を口にする。

それが、すごく、腹立たしかった。


彼女はサヤ嬢が絡むと、とても不安定になる。

普段のツル殿からは、想像もつかない姿だった。

だがこれは、水を飲むか否かの決断を持ち掛け、彼女の意見を尊重するように見せかけた、あまりにも外面のいい提案のように思えた。


サヤ嬢の意見を尊重するということは、拒否された場合も同様、ということに他ならない。

ツル殿は、自ら責任を負うつもりだ。

しかし、自分で選ぶことが出来ない悔しさを、私は知っている。

自分で選んでもいないことで、死ぬか、あるいは死にすら拒絶されるかのどちらかを決められるなど、そんな重大なことを本人以外に委ねていいはずがない。


「水筒を貸せ。俺が飲ませる。」


不意に、アサクラ殿が、白熱した議論に水を差す。

何を言っているのだ。

これまでの話し合いを聞いていなかったのか、と憤りかけて、私は言葉を失う。

私たちは、一瞬呆(ほう)けたように彼を見つめ、すぐにその顔を歪める。


「お前らがしとるんは、責任の押しつけ合いや。

あの娘を見てみい。とっくに限界を迎えとる。

この、みじかあい問答は、いつまで続くんや?娘がくたばるまでか?」


私は、言い返せなかった。

いや、そもそもそんな必要はなかった。

私が遠ざけたかったのは……

自分が味わった悔しさであり、それとは比較にならない苦しみを、彼女に背負わせてしまうことだった。


選んだ”あと”の悔いが、残らないように。

あるかどうかわからない、彼女を苛む未来の後悔を、現実から目を背けて…

私が見ていたのは、今の彼女ではなかった。


「皆さん、サヤが、話したいと。」


セラ殿の呼びかけに振り向くと、サヤ嬢は、ゆっくりと上体を起こし、不安げな目でこちらを見ている。

それでも、自分の境遇への恐怖を、表に出してはいなかった。

喧嘩をしないで、と。

涙ぐむ幼子が、そう訴えかけるように。

…本当に、強い子だ。


「…つるさん、水を、ください。」


ああ、もし神がおわすならば。

どうか、残酷な結末を、彼女にお与えになるのは、おやめください。


「どのようなことになっても…

私が必ず、見届けます。

…そなたを、一人には致しません。」


ツル殿は震える声で語りかける。

一番近くで、看取るように佇んでいる。

最後の瞬間、私に出来たのは神に祈ることだけだった。


恐怖に歪む顔で、水を一息に飲み干すサヤ嬢。

やけくそ、などではない。

覚悟を決めた、立派な選択だった。

彼女が、自分で選んだのだ。


あの浜辺で見つけたレディは、守るべき対象から、尊敬すべき存在へと変わった。

左手からわずかに血を滲《にじ》ませ、抱きしめ合い、声を上げて泣くあの子を見て。

私にできるのは、彼女の騎士として、守り続けることだけだと。

彼女の選ぶ道を、阻む者を遠ざけることだと。

その時、誓った。


剣が届くなら。

それで、足りる。

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