幕間 騎士 イーゴン・アシュクーム
すぐ後ろから、浅く小刻みな息づかいが聞こえてくる。
背に伝わる重みは、確かに彼女が生きている証だった。
サヤ嬢は、とても気丈に振舞っている。
だが…ここ二日が山だろう。
かつてカレーの包囲戦で、耐えがたい空腹に苛まれたことを思い出す。
彼女が感じている苦しみは、少しはわかってあげられる…
しかし、私の経験したそれとは違い、彼女にとってこれは、手を伸ばせば解消するかもしれない、誘惑との戦いでもある。
近くに水場がある気配を感じた。なるべく、早く通り過ぎなければ。
彼女が感じている渇きと恐怖を、私は”わかる”と言ってよいのだろうか。
私の共感など、何の意味もない。
散発的に、小規模な戦闘が起きている。
しかし、ツル殿とアサクラ殿の敵ではない。
不意打ちのつもりか、サヤ嬢を背負った私を直接狙う者もいたが、セラ殿が敷く分厚い剣の壁を突破するものはなかった。
少々の騒音では、サヤ嬢の意識は戻らない。
それほど、彼女の眠りは深い。
…だが当然、安眠とはほど遠い。
「イーゴンさん…ごめん、なさい。」
おや、気が付きましたか、サヤ嬢。
謝ることなどありません。
どこか、一服できる場所を探しましょう。
彼女の心は、かなり不安定になってきている。
渇きは容赦なく、彼女の心を圧し折らんと、毎秒押し寄せているだろう。
さらには、迷惑をかけていると自責の念があると見える。
しかし、ここには彼女の存在を迷惑がる者は一人としていない。
ツル殿は進行ルートを吟味し、出来る限り最速で上層を目指す意識を明確にしている。
アサクラ殿はそれを細かく修正し、地形的にサヤ嬢に負担をかけにくい道を選択し、提案している。
セラ殿はサヤ嬢の心身のケアを、過剰なくらいに施している。
彼女がいなければ、サヤ嬢の心は、とっくに壊れてしまっていたかもしれない。
私はどうだ。
何が、できる。
少しの間、落ち着ける場所を見つけた。
石造りの空間のようだが、馴染みのない材質だ。
西洋の建築様式ではない。よく見ると、石ではなく土だ。
硬い植物の繊維のような物で編まれたベッドに、彼女を寝かせる。
意識は戻っているようで、目を合わせると、彼女は力なく笑った。
セラ殿に引き継ぎ、私とあとの二人は、二つある出入口を分担して見張る。
私は気を引き締め、注意深く警備した。
襲撃はしばらくないが、それは、今は起きていない、というだけだ。油断はできない。
誰もいない空間に剣を向け、いもしない敵を睨みつける。
それが私の役割だと自分自身に言い訳をした。
役割に没頭して、思考を塗り潰す。
その浅はかさが、ひどく滑稽で自嘲した。
…私には、まだ出来ることがあるのではないのか。
さて、出発しますよ。ええ、平気です。
この程度、問題ありません。私は、一晩中だって走れますよ。
ああ、あの時はセラ殿の生前の話をしていたのですか。
それは構いませんが、私の人生は、人に話して面白いものかどうか…
はは、セラ殿も同じことを?
私、イーゴン・アシュクームは、イングランドの南部に領地を持つ、小さな領主の家に生まれました。
代々騎士の家系で、父は勇名を馳せた槍術の使い手でした。
幼い私は父に憧れ、槍術の稽古に精を出したものです。
二年経ち、三年経ち、突然、辞めさせられました。
…槍は、私にとっては繊細すぎた。
学問が好きでした。
私は、父の書斎に入り浸り、そこにある本を片っ端から、読み尽くしました。
歴史に思いを募らせ、領地の収支報告の間違いを指摘し、地図を読むのが得意で…
それも突然、辞めさせられました。
学問の道は、騎士の家系には許されなかった。
残ったのは、憧れても、好いてもいない、剣だけになりました。
しかし、腐ってもいられません。
領地を持つ家柄の長男というのは、しっかりと身を立てる義務があると、厳しく言いつけられていましたので。
槍術よりは剣術の方が向いていたようで、段々と力を付けていく感覚が楽しくて、結局のところ、夢中で剣を振るうほどになっていた。
国境近くの交易路での哨戒が、初めての仕事でした。
当時、わが国はフランス王国との戦争を繰り返していたのです。
私は、早く戦に出たかった。
戦で武功を挙げて、自分が何かを成し遂げられるんだと、証明したかった。
若かったのですよ。
今のサヤ嬢と、同じくらいの歳でした。
初陣は、二十歳の時でした。
フランスのクレシーという土地で、大規模な合戦があったのです。
集団戦の訓練は受けていましたし、直属の指揮官はベテランでした。
若い私は気炎万丈の意気。
大きな不安はなかった。
戦いは、イングランドが優勢でした。
結果的には、ほとんど一方的といってもいいほど、大勝したのです。
勝負は決したと思った時、フランスの兵士への攻撃はまだ続いていました。
その後もずっと、ずっと攻撃は続きました。
逃げ出した騎兵に踏みつぶされる者、遮蔽物のない場所で、一度に十本の矢を受けた者。
そして、なぶり殺しにされた、戦闘能力を持たない軍楽隊…
ひどい光景でした。
私は、フランス人のことを敵だとしか思っていなかった。
しかし、彼らは同じ人間でしかなかった。
生まれた土地が違って、上の者がいがみ合うせいで、兵士は命を消費して使われる…
戦とは、そういうものでした。
私は、そんなことも知らなかった。
学問の道に、こんな愚か者が進みたがっていたなどと、おこがましいと自分を恥じました。
ええ、その後もフランスとの戦争は続きました。
断っておきますが、セラ殿に思うところはありません。
生きていた時代も違いますし、出身で人を評価することなど断じてしません。
初陣から十年間の経験を、かいつまんで話すならば、やはり最後の戦のことになるでしょうね。
ポワティエという平野での、これまた大規模な合戦でした。
緒戦で、私は三人倒し、その次に戦った兵士と、相打ちになりました。
打ち合いで、相手は即死しましたが、私は首に深い傷を負い、そのまま…
剣に身を捧げるしかなかった男の、呆気ない幕切れでした。
――後悔、ですか。
そうですね……妻と、二歳の子供を残していったことでしょうか。
息子は、まん丸な顔を真っ赤にして、とんでもない大声で、よく泣く子でした。
私はあやすのが得意ではなかったので、そうなったら妻を頼り、泣き止んだら、また抱いて可愛がる。
平凡で、幸せでした。
サヤ嬢は、ほとんど反応しなくなってきていた。
移動中、声をかけ続けたが、聞こえていたかどうかわからない。
いよいよ、限界が近いのかもしれない。
弱々しい呼吸と、妙に早い彼女の心臓の音が、焦る私を追い立てるように、歩みを速める。
「もう、限界でしょう。」
サヤ嬢を木の床に寝かせ、セラ殿が介抱している。
ツル殿は見るからに取り乱していて、いつもと違った不安げな口調で、強がったような言葉を口にする。
それが、すごく、腹立たしかった。
彼女はサヤ嬢が絡むと、とても不安定になる。
普段のツル殿からは、想像もつかない姿だった。
だがこれは、水を飲むか否かの決断を持ち掛け、彼女の意見を尊重するように見せかけた、あまりにも外面のいい提案のように思えた。
サヤ嬢の意見を尊重するということは、拒否された場合も同様、ということに他ならない。
ツル殿は、自ら責任を負うつもりだ。
しかし、自分で選ぶことが出来ない悔しさを、私は知っている。
自分で選んでもいないことで、死ぬか、あるいは死にすら拒絶されるかのどちらかを決められるなど、そんな重大なことを本人以外に委ねていいはずがない。
「水筒を貸せ。俺が飲ませる。」
不意に、アサクラ殿が、白熱した議論に水を差す。
何を言っているのだ。
これまでの話し合いを聞いていなかったのか、と憤りかけて、私は言葉を失う。
私たちは、一瞬呆けたように彼を見つめ、すぐにその顔を歪める。
「お前らがしとるんは、責任の押しつけ合いや。
あの娘を見てみい。とっくに限界を迎えとる。
この、みじかあい問答は、いつまで続くんや?娘がくたばるまでか?」
私は、言い返せなかった。
いや、そもそもそんな必要はなかった。
私が遠ざけたかったのは……
自分が味わった悔しさであり、それとは比較にならない苦しみを、彼女に背負わせてしまうことだった。
選んだ”あと”の悔いが、残らないように。
あるかどうかわからない、彼女を苛む未来の後悔を、現実から目を背けて…
私が見ていたのは、今の彼女ではなかった。
「皆さん、サヤが、話したいと。」
セラ殿の呼びかけに振り向くと、サヤ嬢は、ゆっくりと上体を起こし、不安げな目でこちらを見ている。
それでも、自分の境遇への恐怖を、表に出してはいなかった。
喧嘩をしないで、と。
涙ぐむ幼子が、そう訴えかけるように。
…本当に、強い子だ。
「…つるさん、水を、ください。」
ああ、もし神がおわすならば。
どうか、残酷な結末を、彼女にお与えになるのは、おやめください。
「どのようなことになっても…
私が必ず、見届けます。
…そなたを、一人には致しません。」
ツル殿は震える声で語りかける。
一番近くで、看取るように佇んでいる。
最後の瞬間、私に出来たのは神に祈ることだけだった。
恐怖に歪む顔で、水を一息に飲み干すサヤ嬢。
やけくそ、などではない。
覚悟を決めた、立派な選択だった。
彼女が、自分で選んだのだ。
あの浜辺で見つけたレディは、守るべき対象から、尊敬すべき存在へと変わった。
左手からわずかに血を滲ませ、抱きしめ合い、声を上げて泣くあの子を見て。
私にできるのは、彼女の騎士として、守り続けることだけだと。
彼女の選ぶ道を、阻む者を遠ざけることだと。
その時、誓った。
剣が届くなら。
それで、足りる。




