第7話
「ほんと、ご迷惑をおかけしました!」
深々と頭を下げる私の前で、四人がそれぞれ、困ったような顔をしているのがわかる。
「…サヤ嬢、礼儀を尽くす姿勢は立派ですが、これは筋違いです。」
「サヤ…
とにかく、元気になってよかった。もう、頭を上げてください。」
「お前なあ、気い遣うんはええけど、先を急がなあかんやろうが。」
「あら。
泣きはらしたお顔を隠しておきたいのでしょう。
追手が来るまで、ここで待つと致しましょう。」
「はあ…ツル殿。
そんな嫌な言い方をせずともよいではないですか。
しかしサヤ嬢、本当にいつまで頭を下げているのですか、まったく。」
頭を下げながら、お辞儀をやめるタイミングを失った私は、顔が真っ赤に火照るのを感じていた。
でもなんだか、笑い合えるのが嬉しかった。
あの後、つるさんの着物に涙で大きな染みを作った私は、泣き疲れてそのまま眠ってしまったようだ。
目を覚ますと、眠りに落ちた時の姿勢のまま。
そこからゆっくり顔をあげると、つるさんは笑顔を貼り付けていた。
「ずいぶん長く眠っていましたね、さや。
私は足が痺れて、とうに感覚が失せました。」
なんだか言葉に棘がある…
薄々感づいていたけど、この人は時々、本当に少しいじわるだ。
けれど、ずっと感じていたこの人への恐怖は、徐々に薄れてきていた。
――長いお辞儀をやめ、ようやく頭を上げると、苦笑いをした皆の顔が見える。
すると、すぐにセラが一歩前に出た。
「サヤ、ツル殿も。少しお話が。」
部屋の隅に、女性陣三人で集まる。
つるさんは、何の話か知っているのだろうか。
「サヤ、あなたは空腹を感じていますか?」
そういえば、水のことしか考えていなかったが、もう四日ほど何も食べていない。
水さえあれば、人は数週間生きていられるが、空腹にはなるはずだ。
それなのに、全くお腹が空いていない。
あれから、水は定期的に摂っているので、それでお腹が膨らんでいるのかもしれない。
「いいえ、それは違うと思います。
やはり…私たちと同じく、あなたは食事を必要としない状態だと推測します。」
動悸がした。
まさか、楽土の住人になってしまっていたのか、と。
すぐさまセラが訂正するように、手を振った。
「あ、いえ。
あなたは、生者のままです。それは間違いないでしょう。
…しかし同時に、生者では説明のつかない現象も、あなたの身体には起きているはず。」
生者では説明のつかない現象。
それって――
「通常、人は四日も食べなければ、空腹に耐えかねます。
けれどあなたの体機能は、落ち込んではいない。
代謝が”省略”されているように見えます。
さらには――」
「…排泄ですね。」
つるさんの指摘に、こくり、と頷くセラ。
そうだ…
それは、全くしていない。
ここに来てから何も食べなくても、飲まなくても、浜辺で目覚める以前には、確かに、何かを口にしていたはずなのに。
それが――
四日間も、体の外へ出ていない。
生者である私に必要なのは、睡眠と、水分の摂取。
今のところ不要、とされているのは、食事と、排泄。
もし、この先も食事が必要ないなら、水が大丈夫だった以上は、ヨモツヘグイは成立しないのかもしれない。
「不気味…だけど、今のところは不都合はなさそうだし、そういうもの、って思うようにする。」
さんざん心配をかけたあとだ。
私の身体の問題は、また皆の顔を曇らせるかと思って、無理矢理切り上げた。
実際、楽土のめちゃくちゃなルールを、全て解明できるなんて思えない。
二人は、察してくれたようだった。
「やれやれ……
いいですか、サヤ嬢。
脚の怪我はともかく、あれだけ衰弱していたのですよ。
もうしばらくは、私が背負うのが合理的です。」
「何回するんや、この問答…」
意識がない間も、ずっとイーゴンさんは私を背負ってくれていた。
私はもう普通に…まあ、ちょっといつもより、ゆっくりだけど歩ける。
なのでこれ以上は遠慮したいと言ったら、また合理を持ち出されてしまった。
浅倉さんは、前より少し喋ってくれるようになった。
けれど、どこか一線を引いている感じがあって、踏み込ませてはくれない。
「お待ちなさい、さや。…これを。」
出発の直前、つるさんは私に、短めの刀を手渡してきた。
小太刀、というのだそうだ。
私は目を丸くした。けれど反射的に、目の前のそれを受け取った。
「つるさん、これは?」
「次の休憩から、そなたの稽古を始めます。」
呆けた私を横目に、つるさんは小太刀を鞘から少しだけ抜いて、その刃を露出させる。
「身を守る術を、持っているといないでは、この先大きく変わってくるでしょう。
そなたの見せた覚悟に敬意を表し、私が面倒を見ます。」
――この先。
つるさんは長期的な旅になると予想し、自衛手段の重要性を説いてくれた。
「楽土に流れ着くような輩は、ただの町娘では抵抗することもままなりません。
無力なそなたが生還する可能性を引き上げるための、これは修練です。」
つるさんは真剣そのものといった顔だったけれど、なんだかいつもより強張っているような、無理に作られた表情に見えた。
「わ、わかりました。
あの、この刀って、つるさんの…?」
ああ、それは――
と続けて、嫌な予感がした。今度はちょっと、悪い顔してる。
「津久井某の物です。
私が首を刎ねた賊の。」
この人はまったく、もう!
私があの時、どれだけ気分を落ち込ませたのかわかっているのか…
人が死ぬ瞬間を初めて直視した時のことを思い出していたら、気づいたことがある。
もう、最初の時ほど、気持ち悪さや嫌悪感を抱いていないことに。
「合格です、さや。
そなたは自分の死に向き合い、敵の死にも目を逸らさなくなった。刀の重さに慣れておきなさい。
いごん殿、支度を。」
折り合いをつけた、ということなのか。
そう聞くと、胸が軽くなったような感じがした。
自覚がなかったけど、自分の中で、あの時のことは飲み込めたみたいだった。
つるさんは、そのことを確認したかったのかもしれない。
…本当に、ただのいじわるかもしれないけど。
「まったく、教育熱心なことです。
それではサヤ嬢、こちらへ。」
「あ、ツル殿。
予備の包帯を入手したので、腰袋にでも。」
「いつまで喋っとるんや、はよう行くぞ。」
広大な渡り廊下のような場所に出た。
床は木造で、緩やかにアーチを描いていて、それが連続している。
どこの県のものだったか忘れてしまったけれど、錦帯橋という橋に似ているかもしれない。
渡り廊下のようだと思ったのには理由があって、ここには屋根があり、さらに廊下の先は全く別の建物に繋がっていた。
アーチを四つほど越えたところで、つるさんは辺りを見渡した。
「京の五条大橋を思い出します。
斯様な大きさではありませんでしたが。」
「五条大橋って…あ、弁慶の!」
武蔵坊弁慶が千本の刀を集めるため、待ち構えていたという伝説があるのが、五条大橋だ。
牛若丸がやってきて、弁慶をこらしめる、有名なお話だ。
「べん、けい。
何者ですそれは?」
「え、つるさん知らないの?
源義経の家来の、武蔵坊弁慶だよ。」
「よしつね…
私の時代より後年の者でしょう。覚えがありません。」
私は今さらながら驚いた。
義経や弁慶の時代とは、八百年くらい前の源平合戦のあたりになる。
つるさんは、それよりもっと古い時代に生きていたんだ。
「つるさんって、どういう風に暮らしていたの?」
正直に言って、生前のつるさんの話には興味津々だった。
あの強さを裏付けた出来事は、ちょっと想像がつかない。
「生前の話ですか。
はあ、強いて申せば私の人生は…」
――まただ、皆こう言う。
「率直に申して、いと面白きものであったと自負しております。」
す、すごい自信だ…
けれど、きっとそうに違いないという期待は膨れ上がっている。
私は目を輝かせ、心をわくわくさせていた。
「されど、今は関係ありません。
無駄口を叩いて徒らに体力を浪費するわけには参りません。
次の休みでは、素振り五百から始めますよ。」
持ち上げて、一気に落とされた。がっかりした気持ちが、溜め息に乗って出て行く。
私を見て、つるさんはなんだか楽しそうにしていた。
渡り廊下の終端には、石造りの大きな建物への入り口がある。
一口に石造りといっても、これまで見てきたヨーロッパ風のものとは、明らかに建築様式が違う感じがした。
まず、切り出された石材の大きさが不均一で、まとまりがない。
それによく見ると、石の材質もばらばらだった。
花崗岩とか、玄武岩とか、石にも色々な種類があるが、どれがどれなのかは全然わからない。
それらが、ランダムに積み上げられて、巨大な建造物を形作っている。
建築のことも当然、私にはわからないけれど、この積み方に意味なんてあるのかな。
この建物も、楽土の気まぐれなブロック遊びによって出来た、異質な空間なのだろう。
出発してから、体感で五、六時間ほど経った頃。
白っぽい石材で作られた、ドーム型の小さな部屋で、休憩をとることになった。
部屋には、どこからか光が入り込んでいるようで、ほんのりと明るい。
椅子もベッドもなかったけれど、半ば瓦礫と化した石の人工物が、一つだけぽつんと転がっていた。
教会にある講壇のような整った造りの物で、なんとなく、これに腰掛けるのは気が引けてしまう。
隅に荷物を置くと、すぐにつるさんが話しかけてきた。
「では、始めます。
私の動きを真似なさい。」
斜め掛けに携えていた、二メートル越えの大太刀を背から降ろし、引き抜いていくつるさん。
初めて、じっくりとその鞘を見てみると、かなり上等な作りに思えた。
朱色の鞘は、漆でも塗っているのか、艶があって上品に輝いている。
この色…どこかで、見たような…
つるさんは奇麗な型で中段に構え、静かに刀を上げ――
音もなく振り下ろした。
私は隣に立って、小太刀を抜き、同じ動きをする。
小太刀はおよそ、一キログラムほどだろうか、私の腕力からすると、これでも重いように感じる。
「刃の向きを意識なさい。」
一定のリズムで、同じ動きをする私とつるさん。
私の刀からだけ、空気を切る音がする。
つるさんの大太刀の刃の部分は、私の小太刀のものより三倍くらいの長さがある。
重さはきっと、それどころではない。
なのに音がしないのは、なぜなんだろう。
「ほん、とうに、五百回も、やるなんて…」
「では、此度の稽古の締めです。」
まだやるの?と言いかけたその時。
空気が明らかに変わったのを、私は感じた。
つるさんは、大太刀の切っ先を――
私に、向けていた。
「早すぎます!」「ツル殿、いくらなんでも!」
イーゴンさんとセラが静止してくれている。
しかしお構いなしに、つるさんの周りからは寒気がするような空気が流れてくる。
「さや。
戦場で我らの手が塞がりし間、もしそなたが狙われたとして――
一太刀のみであれ受けられるようになれば、誰かの助けが届くこともあるでしょう。」
言葉の意味はわかる。
しかし、私にできるだろうか…
つるさんは、利き手と逆の手で成人男性を五メートル以上も投げ飛ばせる筋力を持つ人だ。
そしてその膂力に相応しい、特大の大太刀。
「構えなさい。…こうです。」
防御の型を実践するつるさんだが、私は力関係以前に、無理がある部分が気になった。
「で、でも、刀が折れちゃったら…」
「…ああ、申しておりませんでしたね。
この楽土において、刀剣を破壊することは叶いません。
剣で剣を受ける限り、その者が傷を負うことは、ここでは起こり得ません。」
新たに判明した楽土のルール。
剣は破壊できず、防御に用いれば鉄壁となる、らしい。
しかし、そうはいっても、絶対に折れないとわかっていても、
怖いものは、怖い。
つるさんは静かに大太刀を振り上げ――
「ッ!!」
来る、音もなく来る。
私は反射的に目を瞑ってしまった。
重い金属音がして、顔をしかめる。
けれど、衝撃は、伝わってこなかった。
「やりすぎです!
サヤ嬢はついさっき、剣を握ったばかりなのですよ!
なにをそれほどに急いでいるのですか!」
見ると、イーゴンさんの剣が大太刀の軌道を逸らしてくれたようだった。
「ツル殿、今回ばかりは私も抗議します!
あなたが完璧な剣筋を取っても、サヤが何かを誤ってしまったら取返しのつかないことになっていたんですよ!」
私は、腰を抜かしたまま、猛烈に抗議している二人と、澄ました顔のつるさんを交互に見ていた。
「あなたの剣をまともに受ければ、サヤの腕は筋断裂や脱臼を起こしますよ!
それだけじゃない、受けた刀が鎖骨に食い込めば確実に骨折します!
角度がズレれば首が飛んでいてもおかしくなかった、わかっているのですか!」
セラがこんなに大声を上げているのは初めて見る。
大きな溜め息をついて、つるさんは大太刀を鞘に納めた。
「さや、今日はここまでと致す。
次は、受けなさい。」
「は、はい…」
詰め寄っていくイーゴンさんと、難しい顔をして隅っこで座る浅倉さん。
セラは駆け寄ってきて、冷や汗を流しながら心配の言葉をかけてくれている。
私はしばらく、放心状態のまま立ち上がれずにいたけれど…
刀は、ずっと握っていた。
離せば、ここで、終わる気がして。




