第62話
現世に帰還してから、まだ一日も経っていない。
けれど、転移した直後から、気を張りっぱなしだった私の精神は、かなり限界が近かったのだろう。
そう客観的になれたのは、この二人のおかげだと思う。
ちーちゃんは、あれだけ怖い目に遭ったのに、私を心配してくれている。
一条さんは、お仕事だというのもあるだろうけれど、それでも大人として、私を気遣ってくれていた。
気分が落ち着いてきて、少し気恥ずかしい。
さっきまでの私は、かなり高圧的な態度だったのに、いきなり大泣きを始めたのだ。
ちーちゃんを守ろうと必死で、自分の心を殺して行動していたと、無理に強がって弱みを見せずにいたと、自覚した。
つるさんも、こういう気持ちだったのかもしれないな。
「ところで、どこに向かっているのかな?」
「あ、旅館です。
私たち、修学旅行で埼玉から来てて――」
ちーちゃんは、丁寧に受け答えしていて、その説明で私もいろいろと思い出してきた。
私たちが泊まっていたのは、京都の伏見にある古い宿泊施設。
「水月楼」という名の、大きな旅館だった。
伏見稲荷大社までの道のりは、楽土に行く前の私の歩幅で、およそ三十分といったところだ。
確か、五時過ぎに稲荷大社を出たはずだ。
現時刻は、十一月 二十日 五時 四十九分。
「旅館って、何時から開くのかな。」
時間の感覚が薄まっていた場所にいたせいで、つい忘れてしまっていた。
普通、こんな早朝に開いているお店や施設は少ない。
この時間なら、水月楼の玄関は閉まっていると考えるのが自然だ。
裏口も施錠されているだろうし、どこかで待機しなければならないのか。
「あ、調べよっか。」
ちーちゃんはスマホを取り出して、水月楼の営業時間を検索してくれた。
私も現代っ子のはずが、ネットで調べるという発想が頭から抜け落ちていた。
賢いなあ、ちーちゃんは。
「六時からだって、早いね!」
「ちょうどいい時間だし、このまま行こうか。」
水のペットボトルをリュックにしまい、おにぎりの包みをコンビニのごみ箱に捨てて、出発する。
一条さんも、いつの間に買ったのか、あんパンを口にしていた。
…警官って本当にあんパン、食べるんだ。
私のこと、張り込みでもしているつもりなのかな。
コンビニから少し歩くと、旅館が見えた。
玄関には明かりが灯っていて、やはり営業を開始しているようだ。
扉にはストッパーがかかっていて、近くには野菜のイラストが描かれた段ボール箱を乗せた台車。
業者さんの出入りの隙間に居合わせたようだ。
玄関から中を覗くと、受付に従業員の方はいなかった。
奥から、電話をしているのか、丁寧な言葉遣いの話し声がしている。
――今しかない。
ちーちゃんの手を引いて、息を殺して中へ入った。
私たちB組の泊まる部屋は、この水月楼の三階だ。
血塗れの姿を見られると厄介だし、早く着替えないといけない。
ここは靴箱やスリッパなどはなく、玄関のすぐ脇にある階段にも一段ごとにカーペットが敷かれ、土足で部屋まで行ける。
静かに三階を目指し、無音の廊下を歩く。
旅館のひんやりとした空気と独特な匂いが、なんとなく心を落ち着けてくれた。
階段を上りきると、エレベーターや自販機のあるホールだった。
低く唸る自販機の機械音が、やけに大きな音に思える程の、朝の静寂。
左側の廊下を進むと、B組の生徒たちの部屋が固まっている。
三〇一号室が、私たちの班、四人の部屋だった。
ここまで、一条さんは当然のように着いてきている。彼女なら発見されても、巡回中とでも誤魔化せるのかもしれないけれど。
襖を静かに開けて、靴を脱いで畳へ上がる。
この靴は、楽土からずっと履いていて、自分から脱ぐのはかなり久しぶりな気がする。
セラが褒めてくれて、ずっと私の歩みを支えてくれた相棒その一。
その二は、小太刀だ。
血のついた、大事な思い出のあるスニーカー。
洗えば、奇麗になるだろうか…
「あ…ふああ…」
ちーちゃんは、かなり眠そうだ。
トイレの中で隠れ、恐怖と緊張で、夜通し気を張っていたのだろう。
それに、お腹も膨れたし、警官の一条さんもいる。
ここは、彼女にとって安心できる場所だ。
「ちーちゃん、寝てていいよ。」
「うん、ごめんね、ふわあ…」
コートを脱いで、ハンガーにかける。
サイズが大きめのダウンコートは、もしかしたら男性用なのかもしれない。
私のキャリーケースは、部屋の隅に寝かされている。
着替えとタオルを取り出して、準備完了だ。
皆が起床する前に血を洗い流さないと。
「どこへ行くの?」
威圧的な一条さんは、私が逃げるとでも思っているのか。勘弁してほしい…
「お風呂、です。
こんな格好、いつまでもしてられないし。」
「…刀を持って、お風呂に行くのかな?」
私は何度か瞬きして、自分の左手に視線を落とした。
無意識に、着替えと一緒に握り締めた太刀。
「置いていきなさい。
でなければ着いて行きます。」
無言で太刀をキャリーケースの傍に置いて、部屋を出た。
どうかしてるな、私…
二階には、大浴場がある。位置を忘れかけていたが、館内図を見るに、まっすぐ進むといいらしい。
その途中に客室があるが、確か二階には先生たちの寝泊りする部屋があったはずだ。
生徒より確実に早く起きるはずの先生。
音を立てれば、すぐに気付かれるかもしれない。
ゆっくりとすり足で歩き、心臓が早鐘を打つ。
見つかった時の言い訳はいくつか考えたけれど、どれも通じそうにないものだ。
それに、私は数時間行方不明になっていたわけだし、長時間拘束されるのは目に見えている。
修学旅行中に死傷者が出た学校の対応なんて想像がつかないけれど、私が旅館にいることは知られてはいけないと思う。
行方不明のままの扱いの方が、なにかと都合がいい。
見つかれば、全てが止まる。
「女」と書いた赤い暖簾を潜り、脱衣所に入る。
床は少し濡れていて、拭き掃除をしたばかりの様子だ。
バケツとモップが壁に立てかけられていて、清掃員の方はいない。
早く済ませないと。そう思い、服を脱いでいく。
「わ…」
大浴場の扉を開けた瞬間、湯気と熱気に包まれる。
冷たい楽土では、体験できなかった温度だ。
かけ湯をするべく、桶でお湯を汲んで、なんの気なしに肩から流していく。
「あっつ!」
飛び上がりそうな程に驚いて、声を上げてしまった。
赤い文字で光るデジタル温度計の表示を見ると、四十度と書いてあるけれど…
四十度のお湯って、こんなに熱いっけ…
というか、まずは血を流さないといけないのだから、かけ湯なんてしなくても良かったのでは、と苦笑した。
外から物音がして、身体が硬直する。
まさかこんな早朝に、誰か入浴にきたのか…
声を上げて気付かれたかと、慎重に扉を開け、隙間から外を確認する。
足音がして、なにか擦れる音も聞こえる。
見ると、お年寄りの女性が、ごみ箱の傍で作業していた。
手際よくごみ袋を交換して、こちらに気づく様子もなく去っていく。
胸を撫でおろしたところで、私もさっさと済ませよう。
流し場の低い椅子に座り、鏡を覗き込む。
「うーわ…」
ちゃんとした鏡で見るのは久しぶりの、私の顔。
顔の右半分には、血がべっとりと付着している。
右目を失う程の大怪我をしたのだから、当然だけれど…
こんな顔で、無人だったとはいえよく街を歩いていたな…
ちーちゃんも一条さんも、早く教えてよ…
素早く全身を洗い、なるべく速く上がらないといけない。
そう思ったけれど、どうしても。湯気を立てる湯船に、目を奪われていた…
「あ゛~~~、やっば…」
肩までお湯に浸かって、おじさんみたいな声を上げてしまう。
二ヶ月ぶりの、しっかりとした入浴。
気持ち…良すぎる。
疲れが溶け出していくようだ。
目を閉じると、つるさんと一緒に浸かった、あの滝壺を思い出す。
沈痛な表情で祝詞を唱えていた、大好きなお姉ちゃんの顔。
あ、そうだ。
つるさんとの約束、いつか果たさないと…
気を抜くと眠ってしまいそうだったので、切り上げて大浴場から出た。
大きな音の鳴るドライヤーは、しない方がいいかもしれない。
手早く着替えて、廊下に出る。
すると、話し声が聞こえてきた。
――先生たちの部屋の方だ。
「ですから、それは責任問題――」
「いや、お金のことも――」
学校側は、責任の所在で揉めているのだろう。
死傷者が複数出て、修学旅行は中止か、生徒を即時帰宅させるか。
そんな大人の話で、朝から騒いでいるのか。
徹夜で会議をしている可能性もあるけれど、あまり気にならない。
興味をなくして、足早に部屋に戻った。
「戻りましたか。」
「はい。…寝ちゃいそう。」
部屋では、布団も敷かずにちーちゃんが横になっている。
私は、正座をしている一条さんの前に座り込む。
瞼が重く、抗えない眠気に襲われる。
ある程度は事情を説明するつもりだったけれど、起きていられるかわからない。
「では簡潔に。
真白さん。あなたは、あそこでなにをしていた?
なにを見たの?」
なにを見た、か。
意識が落ちそうだったけれど、その質問を受けて、また脳が回転を速めた。
「たくさんの人たちの遺体、血の海。」
無言で、続けろと催促する一条さん。
「…親友の、遺体。
この部屋に、帰ってくるはずだった、二人…」
部屋の隅に置かれた、りりちゃんとしおりちゃんのキャリーケース。
修学旅行のために新調したんだって、しおりちゃんは嬉しそうに言っていたっけ。
「首のない登山客の遺体。
心臓を抜き取られた、警官の遺体。」
儀式の生贄にされてしまった、名前も知らない人たち。
険しい表情の一条さんは、私の目を見て続きを促した。
「山の頂上で見つけた、木と石の剣を持った男。
何十人も殺した男…」
「っ!犯人を見たの!?」
「……太刀で痛めつけて、殺した。」
目を見開いて絶句する一条さんと――
「え…?」
呆けた声を上げる、ちーちゃん。
目が覚めていたのか。
「人を…殺したっていうの…?」
青ざめた顔で問いただす一条さん。表情が歪んでいる。
「人じゃない。
もう死んでるのに動く、狂った人殺しだよ。」
茫然とする二人。
意識が曖昧なまま、説明を続ける私。
私がしたのは殺人じゃない。
人間以下の下劣な死者を、処分しただけだ。
「…あなたの身柄を、確保します。」
「警察はあの剣士には勝てない。
犠牲者が増えても構わないなら、私を捕まえるといい。」
脅しに近いが、これも真実だ。
一条さんは私を睨みつけ、苦い表情で不快感を示している。
「あなたは、私の監視下にあります。
勝手に動いたら、その場で確保します。刀は隠しておきなさい。」
一条さんの折衷案に、無言で頷く。
必要以上のことを、話してしまった。駆け引きなんて、私には向いていないか。
…忌助さんなら、もっと上手くやっただろう。
言葉を失っている二人は、身動きひとつしない。
私がずっと握っている、太刀を。真白さやを、恐れているんだ。
その時、廊下を歩く足音が響いた。
咄嗟に、部屋の入り口から見えない角度へ移動する。
私が動いたのを見て、身体を強張らせる二人。
誰か生徒が起きたのか。先生が巡回しに来たか、点呼を取りに来たのか。
べらべら喋りすぎた。




