第61話
早朝の京都、旅館までの道を歩いて行く私たち二人と、それを尾行する一人。
警官なら、警察手帳を見せれば旅館にも無理矢理入ってこれるだろうけれど、今はそれはいい。
車がすれ違えない程度の道を行くと、「立ち入り禁止」と書かれた、黒と黄色の虎柄テープが、道を封鎖するように張られている。
伏見稲荷大社の周辺は、事件の影響で警察によって規制されているのだろう。
普通、こういう規制線には警察の監視があると思うけれど、ここには誰もいない。
あの女性警官がここを見張っていたのだろうか。
なら、持ち場を離れたことになる。…それはないか。
その時、パトカーの赤いランプの光が遠くに見え、すぐに消えていった。
稲荷山の方面に、人員を割いているのかもしれない。
規制線のテープを越えると、人気のない街中に出た。
まだ目を覚ましていない街中は、平和なものだ。
けれど、少なくとも一人、剣士がどこかに潜伏している。
あの中東かインド系の人種の剣士…
下卑たあの男のにやつき顔を思い出すと、嫌な予感がする。
とにかくちーちゃんを旅館に匿って、私は裏口からでも出ていけば捜索できる。
太刀をどう隠して持ち歩くかが課題だ…
「あのお巡りさん、心配してくれてるんじゃ…」
「そうだとしても、今は関係ない。」
お互い名乗りもしていないけれど、彼女は真面目にお仕事をしているだけだ。
嫌悪感はない。
ただ、私の邪魔をするなら、犠牲が増えるだけだと理解させる。
「さやちゃん、なんか、変だよお。」
「そう?」
警官の言う通りの、”ただの学生”というのは、こっちで言えば昨日の朝までの話だ。
楽土で何度も命の危険に晒され、大切な人たちとの別れを経験した私は、もう普通ではいられない。
それに、初めての殺しもしたのだから。
早朝の街に、鳥の囀りが響き渡る。
…鳥の声なんて、本当に久しぶりに聞いた。
知っているはずの街並み、当たり前だった環境、理解し合っていたはずの親友。
帰ってきてしまった、私。
ここでも異物の、私。
…全部、元通りとはいかない。
「さやちゃん、こっち。」
手を引いて前を歩いていた私を、ちーちゃんが引っ張る。
道を間違えそうになっていたようだ。
一度通ったきりの京都の道、それも二ヶ月前のことだし、仕方ないか。
「あと、どれくらいだっけ。」
「えっと、二十分くらい、かな?」
旅館まではまだ少し距離がある。
辿り着くまで、警戒は怠らない。
今の内に、楽土と現世の違いを染み付かせて、漏れ出た殺人者たちを出し抜く手立てを考えておかないと。
弱い私が、守るために暴力を振るって、楽土の剣士に勝つためには頭を使うしかない。
つるさんが褒めてくれて、イーゴンさんが誇らしく思ってくれた、私の観察力。
武器はそれだけだ。
脳をフル回転させて戦わないと。
その時、妙な違和感を覚えて、足を止めた。
なにか、苦しいような、力が出ないような感覚。
「どうしたの?大丈夫?」
「えっと…なんだろう、どうしたのかな。」
一度死にかけた身体が、体内で起きている危険を知らせているのかもしれない。
けれど、考えるのは後だ。
妙に足が重いけれど、歩けないわけではないし、時間を無駄にしている場合でもない。
振り返ると、一定の距離をあけて、警官がこちらを観察している。
私はすぐに視線を戻し、再び歩き出す。
「でも、お腹空いたね。
昨日から、なにも食べてないし…」
………私は、そうか、そういうことか。
感じていた違和感の正体に、やっと気が付いた。
これは、空腹感だ。二ヶ月ぶりに、胃が食べ物を求めて、警報を鳴らしていたのだ。
楽土では止まっていた代謝の一部が、動き出していた。
こんなことも、忘れているなんて…
自分で自分が信じられなかった。
「コンビニ、探そっか。」
傷は治っていたけれど、出血はかなり多かったはず。
なにか食べなければ、大事な場面で倒れる原因になる。
道の先に、コンビニを見つけた。
私は血塗れだし、武装している。
ちーちゃんに適当なものを買ってきてもらうことになった。
コンビニの前で待っている間、剣士の死体のことを思い出していた。
袴姿の武士と西洋鎧の騎士。
消えた、というより、帰ったのでは…
現世に漏れ出た剣士が死ぬと、楽土へ送還される、とか。
…確かめようもない話だ。
こういう待ち時間になにかを考える癖が、随分前からついていた。
答えの出ないことは後回しにして、今はなによりちーちゃんが優先だ。
…ちーちゃんは気丈に振る舞っているけれど、心は壊れかけているかもしれない。
どうにか安定させてあげないと。
ふと、スマホを取り出してみる。
自分のスマホがあれば、お母さんとは難なく連絡が取れる。
実際、何度も着信履歴が残っていて、相当心配させてしまっているのがわかった。
けれど、タイミングを失ってしまっていた。
こんな時間だけれど、一応、トークだけ送っておこうかと思ったその時、足音が間近で響いた。
「あなた、名前は?」
女性警官が、すぐ近くまで寄ってきていた。
私には敵意などないけれど、厳しい表情の警官に硬い態度で接した。
訝しげに視線をやると、警官はメモとペンを取り出している。
「保護対象の名前くらい、知っておかなければならないので。」
「真白さや、です。」
「真白さん。
私は、伏見署の一条茉琴巡査です。
話を聞かせてくれないかな。」
一条さんと名乗った警官は、少しだけ態度を柔らかくしている。
襟首までの長さのある黒髪で、生真面目というか、几帳面な雰囲気だ。
表情の変化は少ないけれど、優しい目をしていた。
警察というものに特別な敵意などは持っていないつもりだけれど、行動を制限されるのは困る。
なんとか言いくるめて、あの剣士を探さなければならない。
「……ちーちゃんを送ってからでも良ければ。」
「構いません。」
この人なりに落としどころを見つけたようだ。
一条さんは、それ以上はなにも聞いてこなかった。
コンビニの扉が開き、よくあるメロディーが流れる。
見ると、レジ袋を持ったちーちゃんが出てきたところだった。
「あれ?お巡りさん。」
「伏見署の一条茉琴です。
あなたのお名前は?」
「あ、佐山茅陽です。
久喜北高校二年B組…」
高校の名前までしっかり伝える必要があるかはわからないが、真面目な受け答えだ。
ちーちゃんは、鮭のおにぎりと水を手渡してくれた。
「ありがと、お金…」
QRコード決済を常用している私は、細かい現金をあまり持っていない。
あとで崩しておかないと。
けれど、まずは旅館で着替えて、状況を整理しなければ。
お風呂にも入って、血を洗って流したい。
今のままでは、いくらなんでも怪しい格好が過ぎる。
「あ、いいよいいよ。お金は。食べよ!」
お言葉に甘えて、包装をめくり、おにぎりを食べる。
ちーちゃんも、大きく口を空けて、おにぎりを頬張っている。
ぱりっとした海苔の食感と音が、口の中でして…
忘れかけていた、顎を上下させる動きを繰り返して、私は――
「ふ?はやひゃん?」
涙が、何故だが溢れて来た。
どうしてだろう。
こんなに、美味しいものだったっけ…
ただのおにぎりを食べるだけで、堪らなく、感動して、嬉しくて…
涙が止まらない。
「どこか痛いの!?
大丈夫?どうしよ…」
「喉に詰まったの?」
ちーちゃんも、一条さんも心配してくれている。
私は手だけで大丈夫と制して、気持ちを落ち着けようとしてみる。
二ヶ月ぶりの食事が、私の感情をぐちゃぐちゃに掻き乱した。
楽土からやっと戻ってこれたという事実を、飲み込めないまま…
友達と、多くの人の死の責任を負い、殺意に駆られて残酷にあの男を殺した。
死にかける程の傷を受け、なんとか生還し、ちーちゃんを保護して、まだ戦いを続けなければいけない。
それでも。
私は、戻ってきたんだ。
現世に。あんなに帰りたかった場所に、やっと…




