第5話
「おはようございます、サヤ。」
目を開けると、セラの顔がすぐそこにあった。
どうやらぐっすりと、眠ってしまっていたようだ。
私の頭を膝で預かってくれているセラは、上着を脱いでいる。それは横たわる私の身体に、優しくかけられていた。
「気分はどうですか?」
はっきり言えば、全く優れない。
しかし、眠りに就く前にたくさん話をしてくれ、眠りに落ちてからもずっと、そばで見守ってくれていた彼女には、心配はかけたくなかった。
セラに手を貸してもらい、上体を起こす。
脚の傷は、もうあまり痛まなくなっていた。
自分で歩くと強がってはみたが、イーゴンさんは首を横に振った。
「走って上層を目指すのですから、無理は許しません。
あなたは、体力を温存しなければならない。私が背負うのが最も合理的です。」
そこへ、足音もなく、ゆっくりとつるさんが近づいてくる。
「改めて、奥白石つるです。
真白さや。
そなたの置かれている立場と、この楽土のこと、出来る限りの説明は致します。」
つるさんは、後ろで一本に結った黒髪と、透き通るような真っ白な肌。
濃い紫色の瞳を収めた、切れ長の目に、血のように真っ赤な唇。
背は高く、身長一七〇センチメートルはある。
背中で揺れる大太刀は、その朱色の鞘がとても鮮やかで、上品に輝いている。
とても奇麗な人だと、思った。妖しいほどに。
――恐ろしいほどに。
あれ程の暴力を行使する人には、見えない。
だからこそ、そのギャップも相まって、人ならざるもののような、危うい美しさがある。
「あ、は、はい。
つる、さん…昨日は、ありがとうございました。」
イーゴンさんは何も言わず、一歩距離を取った。
セラに上着を返し、私はつるさんを見上げて話を聞く。
けれど彼女は、私を正面には捉えず、顔もこちらへは向けていない。
「脚の傷は如何ほどですか?」
「え…っと、治りかけ、です。」
面と向かって話さないのは、私へのなにかの配慮なのだろうか。
それとも彼女自身が、私を見たくない、とか。
包帯が巻かれた脚を無意識にさすって、私は答えた。
「せら殿。
これは剣による傷であったのですか?」
「いいえ、違います。
おそらくですが、鋭利な石かなにかで切ったものかと思われます。」
「…よろしい。
さや、これは楽土において、最も基本的な決まりを侵した現象です。」
楽土の基本的な決まり。
楽土のルール。
それって――
「剣の楽土では、剣によってのみ剣士は傷つき、死に至ります。
これまでそなたのように、石塊などで怪我をする者は、おりませんでした。」
「……剣でしか、死なない。」
私は既に、このルールが適用された瞬間を目撃していた。
あの狭い通路で、つるさんに頭を叩きつけられた男は、全く出血していなかった。
しかし直後に、短刀で刺されたことが、致命傷となったのだ。
あれ、そうなると私の怪我は――
「脚の傷は、剣によるものではない。
これは、そなたに楽土の決まりが当て嵌まらぬことを意味します。
…即ち、そなたが生者である、ということを。」
生きたままここへ飛ばされたと、そうイーゴンさんは言っていた。
皆と違って、私だけは、この死者の国で生きている。
じゃあ、あの人たちが私を狙った理由というのは…?
「これより、我らは楽土の頂上。果てを目指します。
そこで、そなたを現世に還します。」
情報の、嵐だ。
けれど今、突如として、希望的な情報が舞い込んだ。
日本に、帰れる…
そういう意味に、聞こえた。
「ツル殿、それは本当なのですか!?」
イーゴンさんが大きな声で割って入った。
楽土の果てまで登れば帰れる、というのはここでの常識ではないようで、セラも浅倉さんも、驚きを隠せないでいる。
「…これは、確かな由というわけではありません。
果てまで参れば、世界が途切れており、そこから現世への道が繋がっている。
そう、大昔に耳にした覚えがある、というのみです。」
「そんな、話が…」
イーゴンさんは狼狽して、私の方を見た。
「この楽土を、出られる、と…」
思考が口に出てしまっているような独白を無視して、つるさんは咳払いをする。
「還す、と断じ誤解を招くつもりはありませんでした。
されど今は、ほかに選ぶべき道はない。」
移動を続けなければ、昨日の人たちがそうしたように、襲われるかもしれない。
上層を目指すならば、果てまで行き、帰れる可能性はあるらしい。
「行くしか、ないんだ。」
「然り。
ただし、上層の地形について、私は多くを知るわけではありません。
されどこれは、上を目指すという意があれば、さほど問題ではなきこと。」
どういうことだろう。
道がわからないのに、こんな複雑に入り組んだ建物で迷ったら、もう終わりなのではないのか。
「疑問はもっともです。
この楽土において、行き止まり、というものはありません。
必ず、道は何処かへ繋がっている。
即ち上を目指せばいずれは、果てまで辿り着く、というものです。」
迷っても、道をしらみ潰しに通っていけば、必ず目的地まで行ける。
そういうことらしい。
「そして、昨日の輩がそなたを狙った理由にも触れておきます。」
急に、心臓が落ち着かない様子で鼓動を早めた。
昨日の、津久井が死んだ瞬間がフラッシュバックして視界が歪む。
落ち着こうと必死に、丁寧に呼吸を繰り返した。
「…命を携えたままこの地に在るそなたは、行く末を失いし楽土の者にとって、現世との縁を繋ぐ者。
…いわば、帰り得るやもしれないという望みそのものです。
ここへ辿り着きし禄でなし共は、現世で得られし快楽に飢えています。」
そういうことだったのか、と理解するにはあまりにも、あまりにも。
私は、与えられた情報を咀嚼しようと脳を回転させる。
彼らにとっての、私の価値。
あの人たちは、私が何か情報を持っていると仮定しているのだろうか。
現世への帰還……
それは死者にとって、これ以上ない程に魅力的だろう。
果てへ至れば、現世への道があるという情報は、今のところ、つるさんしか知らなかったことだ。
これが広まれば、秩序が崩壊するのは明らかだろう。
だからつるさんは、あえて隠していた。
「少し、休憩と致しましょう。」
多すぎる情報で、脳がパンク状態になっている私を察してか、つるさんは一拍置く提案をしてくれた。
この人は、本当は優しい人なのかもしれない。
…それとも、どこまでも合理的なだけなのか。
ふと、つるさんと目が合った。
だけど、気まずくて、すぐに逸らした。逸らしてすぐに、後悔した。
怖がっているように、見えたかな…
実際、ちょっと怖い。
けれど、昨日あんなことがあっても、彼女が嫌いなのではない。
ただつるさんとは、お互い理解を深められる関係には、なれそうもない気がしていた。
「えいごん、代わるぞ。」
「いいえ、アサクラ殿。
あなたの岸壁の様な背でレディを運ぶのは、やめておきましょう。
彼女が怪我をします。」
「お前なあ…」
軽口を言い合う男性陣。
こういう関係性だったんだ。
自分なりに情報をまとめてみてはいるけれど、思考が止まってしまう。
こういうのは、一眠りすれば、整理できているものだと思い、次の話へ心の準備をする。
「つるさん、あの…」
「あら。
もう、よいのですか?」
つるさんは、私を見ない。
さらには、目を伏せたまま話を続ける様子だ。
さっきのこと、気に障っただろうか。
……だろうか、じゃない。当然だ。
荷物の整理をしていたイーゴンさんたちも、集まってきた。
「さや、率直に尋ねます。」
「は、はい。」
目を伏せたつるさんは突然質問を投げかけた。
「そなた、腹は空いておりませんか?」
私は、はっとした。
何時間寝ていたかわからないが、浜辺で目覚めてから一日近く、なにも口にしていない。
けれど、不思議とお腹は空いていなかった。
強いストレスを受けると、空腹を感じなくなる。
そんなことがあると、何かの番組で見た気がする。
……それより、別の不安が、先に浮かんだ。
「今は、空いてません。
でも、食べ物なんてあるんですか?」
死後の世界である楽土に、生きていくために必要な食べ物は存在するのだろうか。
「…食料は、僅かであれば、手に入ります。
されど食すのは、やめに致すのが賢明でしょう。」
「え、どうしてですか?」
「…黄泉戸喫、です。」
私と、イーゴンさんと、セラは、ぽかんとした顔でお互いの顔を見た。
私が聞いたことのない言葉だった。
しかし、浅倉さんは納得したような表情を見せている。
「黄泉戸喫いうんは、あの世の食い物を一度でも口にしてしもうたら、生きとる者でも現世に帰ることは出来ん、という決まりのことやな。」
「然り。
古事記において示された、生者にとっての禁忌となる行為を指します。」
それじゃあ、ここで食べ物を口にしたら、楽土の果てまでたどり着いても、帰ることはできなくなる…?
生者では、なくなってしまう。
ここの住人に、なりはててしまう。
つるさんは、楽土の全てを知っているわけじゃない。
楽土の果てまで、どれくらい時間がかかるのかまでは、答えられないという。
それなら、果てまで行けば帰れるという話も、本当かどうかわからない……
「楽土に来る人は、死んだ時に持っていた物を、持ち込んでこられるのです。
食料をポケットに忍ばせていたまま亡くなれば、ここに来た時にも同じ物を所持している。これは、腐ることも傷むこともありません。
…そして、水は豊富にあります。
泉や川など、水場は楽土のあちこちに点在しています。」
セラは、楽土のルールをまたひとつ教えてくれた。
…なるほど、先人が持ち込んだ食料の積み重ねが、楽土の備蓄となっていたのか。
何かで見たけれど、食べ物を口にせずとも、人は数週間は生きられるという。
しかし、水は違う。
水を飲まなければ、人は、五日も保たない。
少なくとも、私の暮らしていた世界では。
突如として提示されたタイムリミットに焦り、喉がからからに乾いていく錯覚を覚えた。
いや、これが錯覚なのかどうかもわからない…
「水は、水だけはセーフとか、ないんですかね…」
楽観的な私の意見に、皆一様に眉をひそめる。
一際、険しい表情のつるさんは、熟考の末に口を開いた。
「正直に申せば、私にもわかりかねます。
果たしてこの楽土が、古事記に記された黄泉の国なのか否か。
黄泉戸喫とは、”国産み”たる伊邪那美命でさえ、逃れられなかった強制力を持つ決まり事です。」
つるさんは、すらすらと流れるように言葉を紡いでいたが、少し言い淀んだ。
この先は、神話を引用した仮説にすぎませんが、と続ける。
「…されど、これは厳密には黄泉の竈で炊いた食べものを口にしてはならない、というお話でした。
水は…飲むことが出来る、やもしれません。」




