幕間 鏖鬼の剣 奥白石 つる
真冬に生まれ落ちた、白き肌の赤子。
幼き身体と細き腕にて、軽々と大人を持ち上げ、猪を押さえつけ殴り殺す。
村の者らにはあやかしと恐れられた、人ならざる獣。
それが、私。何者でもない、ただの、つる。
「つる。
まずは、優しい言葉遣いを試してみよう。きっと、今より怖がられなくなるよ。」
いずこより来たのか、妙な衣の殿方は、私に道を示し賜うた。
厚手の黒き布に、丸い金の留め具。高貴なる生まれと見受ける殿方。
卑しき我が身に目を合わせ、穏やかにお声をかけて下された。
ぼろを纏いし痩身に、寒いであろうと衣を貸し与えて下された。
慈悲に満ちた、いと尊き御方…
牛頭の怪物に蹂躙されし我が故郷にて、ただ独り残りし私は、彼の妖術にて命を拾う。
そして、名を明かさぬままであった彼の、類稀なる暴によって進む道を定めた。
「奥白石殿、今朝はいかがに。」
「いと早うこと。
千景、よく眠れしや。」
「は。明日の出陣、障りはありませぬ。」
毎朝、白霜と銘打たれた我が刀に油を引く。
朝露の冷たさが肺腑に透き入る頃、凛々しき声の娘が邸を訪れた。
三つ下の我が手勢、千景は嫁入り前の武芸者であった。
溌剌とした男勝りの、巧みなる技の使い手。私に妹がおるならば、斯様な者であったろうか。
ただの手勢にはない感情を、この娘に抱いていた。
されど、我が供回りなどに就いたばかりに、その身を無残に散らせてしまった。
「…つる!もう休まれよ!
…幾日も太刀を振るいて、如何にそなたとて、身体に障るであろう。」
「我が身など厭わぬ。
この楢断、確と血肉とし、仇を討ちたるまで休むなどあり得ぬ。」
「…陣が崩れたるはそなたの咎ではない。
もう邸へ帰るのだ、雨が降るぞ。」
「…金時、静かに致せ。」
己の無力を赦せず、友にあたる我が身をまた呪う。兵舎の広き均し場にて、ただ独り牙を研ぐ。
憎き楢熊童子を、燃える瞳の内に映し出し、幾千度も挑み続けた。
雨に力を奪われ、遂には倒れ伏し、泥に塗れて力尽きるまで。
――もはや数え切れぬほど、楢断は不浄の血に塗れた。
血煙は風に溶け、土壌を濡らす淀みを老木の根が吸い上げていく。
肉身を持ちたる魔、持たざる怨霊、等しく焼き斬り、冴えていく我らは寄る辺なき抜き身の刃。
いつしか、ただ一人の友の声も、この耳には届かぬ。
「奥白石。そなた、もし敗れなば、我ら主勢も崩れ、延いては京の安寧は失われよう。」
「…我が命に代えても、奴を討ち滅ぼして参ります。」
「ならぬ。
死することは赦さぬ。」
頼光さまは、いと厳しく、言い含められた。老いたる御身自ら、かの酒呑童子を討滅なさるおつもりだ。
我が役は、決して楢熊童子を本陣に近づけぬこと。賜りし奥白石の名を穢そうとも、死するとも、役を全うし仇を討つ。命に背く愚か者を、どうかお赦し下さい…
「…久しく求めし者に、ようやく逢えたり。古き鬼よ。」
大樹が自らの脚で地を踏み、進み来る。
深山の古樹どもは、動かぬはずの根で土を裂き、その道を開けていく。怯えるように。
奴の首は遠く、されど届かぬ由はあるまい。
この奥白石つるの獣たる肉身と、神威を給わりし長牙。神たる鬼を討つ者は、我を置いて他におらぬ。
「楢断よ!」
魔を焼く青き浄化の炎が揺れ、闇夜の山中を照らす。月明かりを打ち消すような、いと猛き光。
大いなる炎は、我が右肩まで昇り、身を焦がさんと荒れ狂う。
楢熊童子を斬ると申すならば、斯様な程の大炎が必要であると、伏見の大神は定められたのだ。
されど、青き炎は、我が身を焼くことはなかった。
人にてはない我が身体。獣であろう奥白石つる。
それでも、あやかしなどではなかった。
私は、汝らとは違う。
鬼も魔も、鏖と致す、人の刃。
既に数刻、戦いは続いていた。
最早骨は砕け、左腕は潰れ、楢断も悲鳴を上げ続けておる。
されどあと少し、奴の命を終わらせる、最後の一太刀を届かせられる。
命を、もしも再び、拾えたならば…
京の人々の安寧のため、新たに生き直す。我が暴にも、守れしものがあるはずだ。
あの御方の背に、あと僅かで手が届く…
我が身を狙い、殴りつける太い幹のような腕。焦げた樹皮が炭となりて舞い、月明かりを阻む。
その上を駆け、命の源へと走り抜く。いと遠き道のり。
枝葉を切り裂き、絡みつく根を焼き尽くし、その頸を捉える。
楢断が、止まった。硬き棟木を打つような感触。
我が矮小な片腕では、頸を刎ねるには、足らぬか…
されど――
「がああああ!!」
太刀の峰に噛み付き、首を腕の代わりとし、引き斬らんと力を尽くす。
歯牙が砕け、楢断に深々と食い込む。青く燃える我が牙は、幹のような頸を食い破り、鮮血が噴き出た。
その血は、炎によって瞬く間に煙と化し、この肌と肺腑を焦がす。されど、止まらぬ。刺し違えても、殺し切る。
我が身は祓いの炎と黒煙に燻され、もはや息も止まった。
最後に、燃える眼は奴の首級が落ちゆくさまを映し、黒焦げた身体は地に引かれ落ちる。
我が役は、全うされたのだ。
楢熊童子が、古き神木の化身が、大神の刃によって滅ぼされた。
――ああ、あなたさま。もう、ひとたび…
目が覚めると、荒れ寺のような場にあった。既に、我が息は止まったはず。
右手を地へ引き込む、重い感覚。朽ちるやに思えた楢断は、その美しき威容を取り戻していた。
…未だ傍にいてくれるか。使い潰すような我が扱いに耐え、よくぞ無事であった。
妙に湿気た空気が満ちる廃寺の外より、微かに音が届く。
波の音が、同じ間で、絶えず続いていた。更に、足音と荒い息遣いが重なる。
下卑た笑い顔のならず者が、傍に迫り来た。数打ちの直刀を携え、我が身を切り裂かんと近づく。
…斬る価値もない。頸を掴んで圧し折り、身体を投げ捨てる。下らぬ相手を殺すのは、飽き飽きだ。
されど、死したはずの男は、再び立ち上がっていた。
――剣によってのみ、仮初の命は真の終わりを迎える。ここが死者の国であると、ようやく悟った。
潰れし左腕は癒え、ぼろ切れ同然であった衣は仕立て直されていた。
あれから、如何ほどの年月を、この楽土で過ごしたろう。
色無き砂浜、音の抜けぬ昏き空、淀んだ臭気と陰鬱なる死者ども。
気が滅入る灰の風景。停滞した我が心と身体。
時折、我が目に適う練達と、知り合う由もあった。
「――サー・イーゴン・アシュクームと言います。
あなたは、古くからこの地におられるとか。」
「――セラニール・ラ・ヴァリエールです。
女性は、ここでは珍しいのですね。」
「――浅倉涛庵や。
にしても、殺風景な場所やのう。」
止まった時の檻。死者を逃さぬ、黄泉の理…
我が身を侮り、挑む者を悉く斬った。
されど、憂さ晴らしにもならぬ。
京の人々を守る役に、誇りを持って尽くした末が、これか。
命を輝かせる者を守って、進み行きたかった。
無垢なる者を、身を挺してでも生き永らえさせれば、どれ程報われたことか。
死に損ないがなにを願おうと、もはや叶わぬ。
……なにやら、騒がしきこと。
あれは、いごん殿か。私が邸代わりに住まう、あの寺へ駆けて行かれる。
なにを急いておるのやら。
せら殿と…あの娘は何者か。
――誤った判断をなされましたね、いごん殿。
そちらはならず者が先回りしていよう。
下卑た目で、ねめつける下郎共の目。あの娘、如何なる者か…
剣も持たず、動けぬか。
あの者らに、守られるだけか。
己が身の可愛さに、閉じこもるのみというのか。
……時間を無駄にした。
怯えてなにもできぬ、ただの弱者――
『もう、いいよ!もう逃げてよ!』
…はあ。
いや、己の身を顧みぬ愚か者であったか。
されど、心卑しき者にあらず。
仄明かりの中で涙を堪える、か弱くも勇ましき、儚い生気を醸し出す娘。
――少し、気が向いた。
この娘を守りて逝けるならば、それで構わぬか。
灰色に染まりし風景に、華の色香が滲む気がした。




