第54話
大笑いする私と、顔を腕で隠すつるさん。
それを見守り、微笑むイーゴンさん。
――ああ、愛しいなあ…
本当に、名残惜しくて仕方ない。
真っ暗な闇の空間に、再び静寂が訪れた。
抜き身のままだった小太刀を納刀するため、鞘を手に取ろうとしたその時――
「わっ!」
一瞬、雷光が瞬き、それを私の手から弾き飛ばしてしまった。
軽い音を立てて、転がっていく私の小太刀…
ああ、そっか…
持って帰れるわけ、ないよね。
――でも、楽土の神さま。
最後に、これだけはさせて下さい。
腰帯に結び付けていた鞘を降ろし、恐る恐る、小太刀を拾って納刀する。
今まで私の命を、一番傍で守ってくれた、銘も知らないあなた。
お疲れさま。本当にありがとう。ゆっくり、休んでね。
イーゴンさんが小太刀を預かってくれて、相棒が私の手から離れた。
歳黒の遺体を見る。彼は、きっと悪い人ではなかったと思う。
楽土の最後の門番であったのか、ここが気に入って留まり続けたのか、もうわからないけれど。
…凄まじい剣士だった。
『出来るな、生者。』
彼ほどの人物に、敵として認められた…
そんな気がして、これまでの努力が、少しだけ報われた。
これまで私たちの旅路に立ちはだかった、沢山の相手。
小太刀の持ち主の津久井。首切り役人のザムエル。
剣闘士のアンドロクレス。恐怖の表情の黒人剣士。
穢れに染まってしまったプララヤ。セラと戦った、畠山。
鷹司忌助さんと、真壁雷蔵さん。ふたりの暴威、破軍と太白。
ピラミッドの裁定者アムネムイア。都市を守ったデモストラトス。
そして、難攻不落のベルク。
誰も彼も、恐ろしい相手だった。
どこかでなにかを間違えていれば、私はここまで辿り着くことはできなかっただろう。
そして、こんな私を傍で支えてくれた、大切な仲間たち。
ぶっきらぼうだけど、ちゃんと私を見てくれた浅倉涛庵さん。
いつも私を励まして、最後まで諦めない心構えを教えてくれた、セラニール。
歳下なのに、最後には身を挺して守ってくれた、松屋松吉くん。
一番近い価値観を持ち、理解を示してくれた、厳しくも優しい東郷恒一さん。
そして…
「イーゴンさん、私、なんてお礼すればいいか…」
最初に私を見つけてくれて、最後まで一緒にいてくれた。
身体も心も、いっぱい傷つけて、いつも私の前に立つ大きな背中。
心から信頼を寄せる、私の騎士様。
イーゴンさんは、膝をついて頭を垂れた。
「ここまで、あなたを守り抜けたこと。
我が生涯の誇りです。
生前、遂に叶わなかった騎士の誓いを果たせたのは、あなたのおかげなのです。
感謝するのは、私の方ですよ。」
頬を温かな涙が伝う。
じんわりと胸が熱くなって、堪らなくなっていく。
ここまで尽くしてくれた人に、返せるものは私にはない。
イーゴンさんは私の左手を取って、慈しむように見つめた。
「…残って、しまいましたね。
女性の身体に、消えない傷を付けてしまった。
後悔があるとすれば、これだけでしょうか。」
「こん、なの、なんでもないよ。
楽土から、持って帰れる、ただ一つの、思い出……
私の、勲章だもん…」
初めて、守るために負った傷。
指の傷跡が、今はとても愛おしく思えた。
彼にちゃんと、お礼を言いたい。
「…サー・イーゴン・アシュクーム。
私の、騎士様。
ここまで…本当に、本当に……
ずっと、守ってくれて、あり、ありがとう……ございました。」
「…私などには勿体ないお言葉です。
しかし、ありがたく受け取らせて頂きます。
レディ、どうか健やかに。」
「……立って、イーゴンさん。」
膝立ちだったイーゴンさんは、察してくれた。
立ち上がり、手を広げてくれる。
私は、遠慮なく飛び込んだ。
抱き締めて、冷たい鎧の感触が、暖かく変わるまで一緒にいた。
大きな手が、優しく支えてくれて、涙が止めどなく溢れてくる。
「目が真っ赤ですよ。
ああ、サヤ嬢、鼻水が…」
「ううっ、だってえ…」
泣き続ける私の頭を、無骨な手がそっと撫でてくれた。
そして、もうひとり。
最初は、とても怖い人だと思って、距離を取っていたと思う。
けれど、強くあろうと、不器用ながら立ち続けているんだって、いつからか気がついていた。
自分が傷付くのはお構いなしに、私の気持ちを一番に考えてくれる、優しく強い憧れの人。
つるさんの、奇麗な紫色の瞳を見て、また涙が出てきた。
「あら。
泣いてばかりで、別れの挨拶は如何にしたのですか?」
「いじわる、言わないでよ…」
座り込んだまま、つるさんも手を広げてくれる。
何度も命を守ってくれた、傷だらけの白い腕が、私を優しく包む。
「つるとの、約束は?」
「うん…覚え、てる。」
「別れの言葉は?」
「いっぱい、ありすぎて、言い切れないよ…」
伝えたい言葉は、いくらでもある。
けれど、きっと彼女にはもう伝わっている。
髪を撫でる優しい手が、温かくて心地良い。
「…真白さや。
無垢なる蕾であったそなたが、この昏き楽土を昇り、華開くが如く成長した。
私は、何よりそれが嬉しいのです。」
昏き楽土。
…皆にはそう見えていたんだ。
あの青空は、生者の目にしか映らない幻の空。
本当の姿は冷たく暗い、闇の世界…
「この奥白石つるの人生に於いて、殺した者は数多くあり。
守れず死なせた者は、更に多い。
そなたの心と命、ここまで繋ぎたるは、我が誉れです。
よく、戦い抜きました。」
「うぐっ…ひぐ…」
「そなたは、そなたの世界で、命を大切に生きなさい。
愛を知り、子を産み、天寿を全う致すその折まで。
…私は毎年、大江山でそなたを待っております。」
「お姉ちゃん、みたいに、思ってる…
大好き…つるさん…」
「――妹とは、斯様に手のかかるものなのですね…
されど、それが愛しい由なのでしょう。」
剣に生き、死の瞬間まで剣を手放さなかった者たちが、最後に流れ着く地。
剣の楽土では、停滞した時間が剣士たちを捕らえて離さない。
それを、唯一変えうるのは、剣を置いて他にはない。
剣だけが、止まった時間を再び動かせる。
剣だけが、死にきれない命を終わらせる。
頂上まで来ても、私がこの楽土に呼ばれた理由は、わからないまま。
けれど、また来ればいい。
剣を、その道を諦めず、人生の最後まで進んでいこう。
憧れの人たちが待つこの地に、辿り着くために。
「……あれ、は。」
真っ暗な闇の中に、ほんの微かな光が見える。
きっとあそこが、出口なのだろう。
二人の手を引いて、光へ歩いていく。
「……そうか、これが。」
「然り。」
イーゴンさんとつるさんは、同時にぴたりと足を止めた。
…もう、ここより先には。
「…見えましたか、さや。」
「私だけに、見えてるの…?」
「生者にのみ見える世界、この先が、あなたの帰る場所。
…行きなさい。身体に気を付けて、どうかお元気で。」
一歩も動かない二人。
…本当の本当に、これが最後なんだ。
「そなたを、ずっと見ております。
さや、達者で…
胸を張って、進みなさい。」
悲しい顔でお別れしたら、きっと二人も、もっと寂しくなってしまう。
もう、泣かない。きっとまた会える。
その時までにもっと立派な人間になって、驚かせてやろう。楽しみだ。
「イーゴンさん。つるさん。
ありがとう。大好きだよ。」
指を二本立てて、前に出す。傷跡の残る指、大切な思い出。
微笑む二人は、同じように指を立てる。
いっぱい泣いて、いっぱい笑ったこの楽土の旅。
愛する人を残して、それでも帰らないと。
笑顔でお別れして、進む。光の方を見つめていく。
*
「行ってしまいましたね。
…この山を越えて。」
「大岩は、死者を封じるのみ。
…肩の荷が降りた心地です。
さて、いごん殿、参りましょう。」
「…やれやれ。考えることは同じですね。」
「ええ。いと強きあの守り手が、易々と死するはずもない。」
「セラ殿を見つけた後は、アサクラ殿。
それにトウゴウ殿とショウキチも、ですね。
その後は、どうされますか。」
「……待つと致しましょう。我ら、みなで。」




