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剣の楽土  作者: かが介六郎
第一部 楽土の華

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第49話

あれ程の激戦であっても、私たちが受けた傷は、驚くほど少なかった。

私は、地面を転がった際に、足に小さな擦り傷を付けたのみだ。

ただし、それは物理的な傷に過ぎない。

少しだけ大岩から顔だけを出して、下を覗いてみる。

……どうか、二人とも無事でいて。


「海には、穢《けが》れの大元がおわします。

いかづちは、その源流から生じておるもの。

そなたの心を乱すやもしれぬ。」


「そっか、だから闇の水を見た時と、似たような感覚だったんだ…」


「身体と心、どちらを試してくるのか。

或《ある》いは、素通りさせてくれるでしょうか。」


生者を、その身にまとった穢れを、現世に持ち出さないような役割があると見られる雷光。

今、私の身体には穢れは多分ないか、とても少ない。


「あの水場にて清めて以来、そなたは穢れには触れてはおらぬ。

通してもらえよう。」


「…私の前にここから出た人も、同じように試されたのかな。」


つるさんは以前、生者として楽土、或いは黄泉《よみ》の国から出た人がいると言っていた。

その人も、大変な道のりを踏破して、ここまで来たのだろうか。


「恐らく、いかづちは赦《ゆる》しはしなかったのでしょう。

…その御方は、穢れの源に近づき過ぎたのです。

ゆえに追い立てられ、されど、逃げ遂《おお》せた。」


私の先輩は、雷に追い回されても、それでも逃げ切って現世に戻った。

すごい、人なんだ…


「…進めば、もう頂上はすぐそこです。

サヤ嬢。これで、最後です。」


………うん。

わかってる、わかってるけど…


「いごん殿、この甲冑武者《かっちゅうむしゃ》を追い返せし者が、道の先にて我らを阻むでしょう。

抜かりなきよう。」


「幸い、盾には破損はありません。

どのような相手であれ、遅れを取るつもりはない。」


「………行こう。」


絞り出すように、言葉を紡いだ。

たったこれだけの言葉を、口にするのが辛かった。

上に伸びる吊り橋を、いつもの陣形で渡っていく。

ここまで、どれほど怖く、辛く、苦しく、悲しい道のりだっただろうか。

けれど、皆がいたから。

だから……楽しかった。

…帰りたくないと、思ってしまうくらいに。


とても頑丈な作りなのか、吊り橋はほとんど軋《きし》む音を発しない。

金属の部品が使われているのもあってか、安心して渡れる印象だ。

こんな所まで来て、落ちてたまるものか。

しかし、高所だからか、時々強い風が吹いて橋を揺らしていく。


周囲は、もう闇の靄《もや》に包まれている。

前を歩くつるさんの背中は辛うじて追えるけれど、少しでも距離が開くと、すぐに見えなくなる。

妙な息苦しさを感じて、呼吸が浅くなっていく。


楽土に来て、どれくらい経つだろう。

時間の感覚が、とても曖昧になっている。

体感で数週間から二ヶ月くらい、少なくともそれくらいは過ごしている。


…帰ったら。

お母さん、心配しているだろうな。

いっぱい怒られるかもしれないけれど、早く会いたいな。

落ち着いたら、また京都に旅行にでも行こう。

お母さんと大江山にも行って、つるさんを紹介してあげたい。


進み続けて、靄が晴れた。けれど、辺りは暗いままだった。

それも、楽土でこれまでに通ったどんな場所よりも暗い。


「あれ…?

でも普通に見える…?」


周囲は完全な暗闇だけれど、靄の中より鮮明に、地形や、つるさん、イーゴンさんが見えている。

人の手が入っていない、岩場のような風景が広がり、緩やかに折れ曲がる坂道となっている。

ここからでは、雷がどこにあるか見えない。


「さや、具合は悪くありませんか?」


「うん、ちょっと息が上がってるくらいで、なんともないよ。」


「進みましょう。警戒は怠《おこた》らないように。」


大股で段を越え、時によじ登って崖を上り、平らな場所に出た。

すると、すぐ傍に、なにか木のような物が落ちている。

この空間で初めて見つけた人工物だ。

細長い木の板が、ほつれた紐で括《くく》られ、十枚程連なっている。


「木簡《もっかん》ですね。

いと古き時代のもののようです。」


木簡とは、紙が無い時代に、文字を書くためにあったものらしい。

縦書きに文字が書かれているようだが、ほとんどは掠《かす》れていたり、文字が崩れていて読めない。

けれど二つだけ、判別できる文字があった。


「歳………黒…?」


「ふむ…。

サヤ嬢の国の文字ですか?」


なんとか読めた二文字は、離れた位置に書かれていて、”歳黒”という繋がった言葉ではないと思う。

イーゴンさんの反応を見るに、どうやら文字は自動翻訳の対象外となるらしい。


「私の時代よりも、かなり古い文字…だと、思う。

つるさん、これ、読める?」


「歳…こちらは、黒、ですね。

漢字ではあるようです。

されど、他の多くは削れてしまっています。」


薄い木の板は、ささくれている部分と腐っている部分がある。

墨《すみ》で書かれたであろう黒い文字は、その大部分が読み取れない。


「私の時代よりも古き木簡かと。」


「平安時代より、昔のもの…」


「意味がよくわからない単語ですね。」


古代中国か、日本のものだろうし、独立した二文字ではイーゴンさんに意味が通じないのは無理もない。

けれど、この二文字からは、言いようもない不気味な気配を覚えた。


木簡の落ちていた場所から進むと、また上り坂だ。

上へ上へ、どんどん進んでいく。

急ぐ理由はない…けれど、ここでもたついてしまうと、きっと帰れなくなる。

私の弱い心は、本当に優柔不断だ。

一歩ずつ、踏み締めて、足を前に出す。


「…いよいよ、ですね。」


イーゴンさんが呟き、私もそれに同意する。

目の前には、広い空間。


周囲は闇で覆われ、ただ空間が広がっていることしか把握できない。

時折、稲妻が走るように、少し明るくなる。

地面も黒い闇で埋め尽くされ、足で踏みつけているのが石なのか木なのか判別できない。

しかし、暗いはずなのに、不自然な程によく見える。


ここが、楽土の頂上だ。

そして、あれが――


背を向け、立っている男。

上半身は裸で、ぼろぼろの衣服が下半身を覆う。

だらりと下がった右手には、原始的な直剣。

抜き身の刃が、稲光に照らされて鈍く輝く。

鉄ではない、青緑がかった金属。

とても…古い時代の物だということだけはわかる。


こちらを見てはいない。

気づいているかもわからない。

ただそこに立っているだけで、異様な圧を放つ剣士。

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