幕間 孤影の剣 東郷 恒一
夏になると毎年思い出す。
幼少の頃、父が稽古を付けてくれたあの時間を。
……わっぜ厳しかった。
蝉の声、道場の床の匂い、まだ重すぎて振れなかった竹刀…
戦争帰りの父は、生き抜くに必要な心構えと、身を守るに欠かせぬ暴を、過剰なまでに俺へ指南してくれた。
…父の姿を真似て、二人の息子には厳しく接し、同じように剣を教えた。
しかし、成人する前に、二人とも家を出て行ってしまった。
正しく教えられていると、思っていた。
師として、父として、威厳を持って接しているつもりだった俺に、いつからか愛想を尽かしていたのだろう。
「もう、剣なんか、流行らんど。」
二十になった長男が帰省した時、親子で初めて酒を酌み交わした。
強い地酒に、呑み慣れていない息子はあっという間に酔っ払い、心の内を吐き出した。
ずっと…そういう風に考えていたんだな。
俺は、怖い父親だっただろう。
厳しくすることに、義務感すら持っていた俺に、息子たちは意見など、できなかったろう。
剣を通してしか、息子と接することができなかった。
今さら気が付いて、やっとこいつを見て話をできたと思う。
…だが、もう生き方は変えられない。
俺が癌を患ったと知って、妻は大泣きした。
もう治らんと、はっきり伝えたのがまずかったのか。
皺が目立つようになった顔を、くしゃくしゃにして、大粒の涙を流し続けている。
…そうだったな。
こんな顔で、泣く女だった。
満足に指導もできず、僅かに残った熱心な門下生も、次々に辞めていった。
時代と、病。
剣では倒せない相手に、それでも立ち向かい、戦いたかった。
数年前、妻は俺に何かの保険をかけていたようだった。
医療費が控除になるだとか、細かい説明を受けたが、俺にはよくわからん。
俺が死んでも、保険金で暮らしていけるだろう。
それに、息子たちも、今より多少は顔を出してくれるはずだ。
入院なんてまっぴらご免だと、俺は断った。
病室で剣は振れまい。
俺にとっては幸い、抗がん剤も、もう効果が期待できないらしい。
死ぬなら、癌に殺されず、剣で死にたかった。
この平成の世で、そんな願いが叶うなど、本気で思ってはいない。
だが、まだ抗いたかった。
日課の半分も剣を振れなくなる程に、身体は弱っていた。
暑い道場の中を吹き抜ける風が、また幼い頃の記憶を呼び覚ます。
あの頃、既に病に侵されていた父は、どういう思いで俺に剣を授けたのか。
父の役目として、生きていく強さを、俺に残したかったのか。
もう、わからない。
立ち上がるのも、もう満足にはいかなくなっていた。
長い時間をかけて道場に降り、紺色の胴着に袖を通し、使い古した愛刀を握る。
俺の手の形に擦り減った木刀が、今は堪らなく愛おしい。
振り上げて、振り下ろす。
しばらく、無心で続けた。
だがもう、全身が言うことをきかない。
まだ、まだ終わりたくはない。
剣をまだ、諦めたくはない。
瘦せ細った身体は、もう心については来られなかった。
…瞬きをしたその時、見慣れない場所に立たされていた。
僅かに水の流れる音がする、妙な雰囲気の土地だった。
だが、それよりも違和感に思ったことがひとつある。
身体が軽く、木刀も重さを感じない。
――まだ、振れるのか。
剣を持った連中がいた。
妙な連中だ。
時代も服もばらばらで、それでも皆、同じ目をしている。
…剣に囚われた者たちの地。
誰かがそう言った。
松吉と出会い、真白さん達に力を貸し、だがずっと迷っていた。
奥白石さんも、イーゴンさんも、真白さんを当然のように第一に考えている。
それは、松吉も同じ。
だがしかし、俺からすれば、二人とも守るべき未成年だ。
そこに優劣はない。
死者と生者の区別も、ない。
無条件に、松吉よりも真白さんを優先することが、どうしてもできなかった。
息子に、重ねてしまっているのだと、やっと気が付いた。
……まだ、俺は剣に成り切った人でなしでは、なかったようだ。
真白さや。
この闇の世界で、誰よりも明るく、命を輝かせる子。
まさに灯火だ。
奥白石さん達は、あの灯火をずっと守って、共にここまで昇ってきた。
よくやったな、松吉。たいしたもんだ。
お前を誇りに思う。
真白さんの命を繋ぎ、お前は守られる者から、守る者に成長したのだ。
少しの間、お前の師となれて、俺の人生は報われた。
闇の中に落ちていくお前を、どうしても追わずにはいられなかった。
暗い靄が上へと流れていき、風の音が耳を裂く。
…真白さんならきっと、あのベルクの弱点を見つけたはずだ。
彼女なら、きっと辿り着いている。
松吉、これもお前の手柄だぞ。
すぐに、追い付く。




