第32話
「…あ、つ、るさん。
…おはよ。」
「ぐっすりと、眠っておりましたね。」
「そっ、か、ふああ…
つるさん、痺れてない?」
「ふふ。
ええ、私も休めましたよ。」
「おはようございます、サヤ嬢。
どうぞ、水を。」
竹の水筒に残った水を飲み干して、頭をはっきりさせる。
そろそろ、水を補充しないといけないな…
そう思い、提案ではないけれど、声に出してみる。
「水場、見つからないかな…」
「まずは、この建物を出ることを考えましょう。
外に出れば、見つかるはずです。」
「ちょっと、顔も身体も、洗いたいな。」
「さや、布を。
…これで、顔をお拭きなさい。」
つるさんは、布を濡らして、渡してくれた。
血を洗い流したりするために、つるさんは別で水筒を持っているのだけれど、余っているのだろう。
最悪、つるさんの水筒もあれば、しばらく水場が無くても、脱水症状の心配はないかもしれない。
イーゴンさんに聞くと、だいたい六時間くらい眠っていたようだ。
身体をぐーっと伸ばして、出発の準備を始めた。
眠る前には悪かった気分も、どこかすっきりしている。
「あ…!」
「どうしました!?」
食い気味なイーゴンさんに、面食らいながらも、私は説明する。
「今…指がちょっと動いた、かも…」
「それはまことですか!?」
つるさんも、大声で反応する。
正直に言うと、無意識にほんの少し動いたような気がした、くらいの話だった。
けれど、切断された第一関節の先に、血が通った感覚が確かにあった。
「ああ…よかった、さや…」
「…ええ、本当に。
喜ばしい、ことです。」
二人とも、感無量といった様子で、私もこの雰囲気が嬉しくなってしまう。
セラとお別れしてから、皆の明るい表情を見るのは、これが初めてかもしれない。
私の指が元通りになれば、きっと皆の関係も、少しは。
そう思うと、胸に希望が湧いてくるような、力が溢れてくるような気がした。
生きる気力を、まだ持っていてもいいんだって、そう思えた。
教室を出て、真っ直ぐに伸びた廊下を進んでいくと、上に向かう階段があった。
ここは二階だから、次は三階だ。
また、手摺が左側に付いた階段をゆっくり登っていく。
すると、そこは建物の屋上で、少しだけ屋根になっている部分がある。
ここから、隣の建物と道が繋がっているようだった。
屋上からしか行き来できないなんて、不便すぎると思うけれど、これでやっと先に進める。
隣の建物へ移ると、更に先の建物と繋がっていて、その奥も、さらにその奥も同様だ。
「屋上を、ずっと行くことになるね。」
「転落しないよう、細心の注意を払いましょう。
不安なら、背負いましょうか?」
「はは、大丈夫だよお。」
イーゴンさんは、穏やかに笑っている。
嬉しい。彼のこんな顔を見れるだけで。
つるさんも、目を閉じて微笑んでいる。
奇麗だな。つるさんが笑っているの。
もっと、見ていたいな。
いくつもの建物を渡り歩いて、やっと道に降りられる下り階段を見つけた。
建物の並びはまだ、見渡す先まで続いているけれど、どれも上には向かっていないようで、降りて別の道を探すことになった。
建物に備え付けられた下り階段は、その外壁に沿って途中から九十度に折れ曲がっており、柵があって転落の心配も少ない。
ふと、空を見てみると、暗く分厚い膜のようなものに覆われている。
重苦しい雰囲気で、なにか不安を感じて思わず目を逸らした。
降りた先の道は、広い山道のような雰囲気で、踏み固められた砂地の地面の上り坂となっているようだ。
こちらの道を選んで正解なのか、今はまだわからない。
「あ、水場!」
微かな水音がする方を見ると、小さな清流が山道の脇に流れている。
やっと水を補給できると思うと、一安心だ。
それに、身体を拭きたくて仕方がなかった。
以前、穢れを落とすために放り込まれた滝壺とは、流石に規模が違いすぎるので、水浴びとまではいかないけれど、濡らした布で身体を拭くのには充分だ。
「休憩としましょう。
あの建物の並びを越えるのも、数時間は要したはずですし。」
「いごん殿、まさか見ているつもりではありますまいな?」
「はあ。
ツル殿は私をなんだとお思いか…」
「ぷっ…あはは!」
水を口に含み、一息ついてから、身体を拭いていく。
つるさんは、背中を拭いてくれた。
「さや、左手だけは濡らさぬよう。
ほかに、手の届かないところは?」
「えっと、肩の辺りとか…」
セラが見たら、また茶々を入れられる状況だ。なんだか懐かしい。
山道を登っていくと、こちらも何度か道が折れ曲がっていた。
本当に山を登っているような感覚だけれど、草木はもちろん生えていない。
楽土に花の一輪でもあれば、彩りが出て華やかなのにな。
「つるさん、好きな花ってある?」
「好きな花、ですか。
ああ、橘でしょうか。
花は白く可憐で、橘の実は金時がよく手土産に包んでくれたものです。」
「橘の実…食べたこと、ないかも。」
「あら。
酸っぱくて美味しいですよ。
秋になるのが、毎年待ち遠しい程でした。」
「そうなんだあ。
みかんとか、レモンとかに近いのかな?
あ、レモンっていう酸っぱい果物があってね――」
話から察するに、果物は高級品らしかった。
つるさんの時代の、ご馳走だったのかな。
多分、甘い物とか、お菓子の類は、もっと貴重だったのだろう。
しかし、花の話題だったのに、実のお話が先行してしまっていた。
もしかしたら、花を愛でるような文化が、あまり浸透していなかったのかな。
けれど、俳句とか、花をテーマにしたものが、平安時代くらいの古くからある気はする。
単につるさんが、花よりも実の味わいを先に思い出す人なのかもしれない。
「さやの好きな花は、なんなのですか?」
「えっと…あ、梅かな?
桜より、濃いピンク色で、可愛くて好きなの。
あ、ピンクっていうか、桃色?」
「強き色の梅、ですか…
これは、高き家の者より借りた言葉ですが、花とは匂い立つ色香と、その気配を楽しむもの…
さやの時代は、斯様なる楽しみを、花に見出すのですね。」
梅には、白い花と、薄いピンク色の花もあるけれど、私は濃い色の花が特に好きだった。
桜の薄紅色も、素敵だとは思うけれど、すぐに散ってしまうその儚さも相まって、あまり好きにはなれない。
平安時代の花の愛で方は、今とは全然違うものなのかもしれない。
「ふふ。
梅は、いと深い香りが立ち、美しきものですね。
以前、藤原道長さまの邸に居合わせた折、詩歌の興が催され、満開の梅に心を奪われたことがありました。」
「へ?藤原道長…?」
「はい。
それに、いと見事なる和歌を詠みし方がいたのを、覚えています。
女性が詠みし、梅の花の和歌でした、確か名は…」
「あー、なんか、わかっちゃったかも……」
「ああ、紫式部さまと申しましたね。」
この短い会話の中で、歴史上の偉人が二人も出て来た…
何気ない会話で、こんなビッグネームが登場するのが、つるさんの凄いところのひとつだと思う。
和歌と俳句の違いは、現世に帰ったら勉強し直さないと。
山道を登り切って、高くて見晴らしのいい場所に出た。
ふと考えたが、浜辺で目覚めてすぐに入ったあの建物から、道はずっと続いているけれど、この景色はとても屋内とは思えない。
空に突き刺さるようだったあの巨大な塊。
私は未だに、あの中にいるのだろうか。




