第29話
赤木の建物を出て、暴威と交戦した場所とは逆の方向へ進んでいく。
こちらの道は、緩やかな勾配のついた上り坂で、上を目指す私たちの目的に合っていると思う。
もし、暴威と戦ったあの場所を――
忌助さんたちが走り抜けていった方へ行けば、また彼女と会うこともあるのだろうか。
考えても仕方ないことだけれど、会えば戦いになってしまうのかな…
なんて、頭の中でぐるぐると考えが巡っていた。
ここは開けた場所で、周りを見回せば建物だらけだ。
誰が潜んでいてもおかしくはないけれど、立ち並ぶ建物の外壁には窓がひとつもない。
音さえ立てなければ安全だろう、というのがイーゴンさんの意見だった。
まるで、廃墟の街中を歩いているかのような気分になる。
この大通りは、しばらく続いていて、かなり先に行き止まりが見えた。
けれど、この楽土に本当の意味での行き止まりはない。
最終的には、脇に並ぶ建物のどれかに入って進むことになるだろう。
「――!」
――また、悲鳴だった。
さっきよりも、近い。
咄嗟に、反射的に、私は左手で小太刀の鞘を掴み、抜刀の姿勢を取ろうとしてしまった。
無意識に力を入れてしまい、切断された指の第一関節から、猛烈な痛みが襲う。
「――っ、あ゛……!」
「っ、さや!」
動かしてしまった左手に巻かれた包帯から、血が滲んでいく。
痛い…
泣き出しそうだ。
私はそのまま、声も上げられずにその場にくずおれてしまった。
つるさんは、両手で私の左手を包むように、遠慮がちに労わってくれる。
私は必死に呼吸を繰り返し、痛みから意識を逸らす。
つるさんの手の温かみのおかげか、少しだけ痛みが引いたように思う。
震える手で、左手をさすってくれるつるさんの顔を、そっと見る。
悲しげに顔を歪めて、泣き出しそうな目をして、奇麗な顔が悔しい感情で染まっていた。
つるさんに、こんな顔をさせてしまうなんて…
私は痛みよりも、その方が辛かった。
「…ツル殿、サヤ嬢に付いてあげて下さい。
前は、私が。」
「え、イーゴンさん…?」
ここへきて陣形を変えるなんて、イーゴンさんらしくない。
なにか、わからないけれど違和感がある。
それ以上に、不安な気持ちが強まっていった。
私のすぐ隣に、つるさん。
前方、少し離れた所に、イーゴンさん。
変則的な陣形に、二人はなにも思わないのだろうか。
セラなら…なんて言うかな。
私の左手の怪我を、彼女が見たら…
悲しむかな、悔しがるかな。
それともいっぱい、私を叱るだろうか。
大通りをずっと進んでいくと、右側に、入口がこの道に面した建物がある。
奥を見てみても、他に入れそうな建物はないようだった。
「ここへ入ってみる他ないでしょう。」
これまで、自然とルートの最終決定は、つるさんがしてくれていた印象があった。
けれど、イーゴンさんのこの決定につるさんは何も口を挟まず、ただずっと私にぴったりくっついている。
いっそのこと、腕を組んだ方が歩きやすいと思うほどに近い。
建物は、ぱっと見では廃ビルのように見えた。
全く現代的な見た目ではないけれど、石か何かで造られた外壁の表面は、黒っぽい煤のような汚れで覆われていて、入るのが躊躇われる感じだ。
陰気で不衛生な場所には、今は入りたくはない。
傷のこともそうだけれど、今の私たちの雰囲気を、更に暗いものにしてしまうのでは、と悪い方に考えてしまう。
ところで、楽土には感染症などはないと、私は以前から推測していた。
というのも、死者の世界に、病原菌や雑菌などがあるとは思えないので、私の指は腐ってしまうことはない…はずだ。
あとは傷が塞がるか、指がくっつくかだけれど、正直に言えばくっついて再生して欲しいところだ。
指が戻らないと、もう剣は握れない。
何より、指が治らないと、私たちの関係も、元には戻らないような気がしていた。
それは、何よりも辛いことだ。
中へ入ると、外から見た雰囲気の通り、薄暗い空間だった。
少し狭苦しい道を、縦一列で歩いていく。
つるさんは、私と少し離れるのも嫌がっているように見えた。
ぴったりと真後ろに付いているけれど、流石にちょっと歩きにくい…
「つ、つるさん…くっつきすぎだよ…」
なるべく小声でそう伝えると、まるで別れを惜しむかのような表情になる。
「あ…申し訳、ありません…」
ずっとこんな調子のつるさんを見ていると、正直気が滅入るようだ。
けれど、突き放すのも可哀そうなほどに、つるさんは落ち込んでいた。
彼女の精神は、相当危ない状態なのかもしれない。
「とにかく、上へ行ってみましょう。」
石造りの階段があった。
上の方を覗いてみると、ほんのりと明るくなっているのが見えた。
階段はとても急な角度だが、親切なことに手摺が備え付けられている。
…けれど、今の私にとっては都合が悪く、それは左手側にあった。
「さや?大丈夫ですか?」
「うん…大丈夫だよ。心配しないで。」
なんとか右手で反対側の手摺を掴み、ゆっくりと登っていく。
イーゴンさんは、さっきからかなり口数が少ない気がする。
とても気を張っているようで、しきりに首を左右に振り、警戒を厳にしているようだった。
階段を登りきると、さっき見た通り、一階より僅かに明るい。
二階は、私にとっては少し懐かしいような間取りだった。
というのも、高校の廊下のような造りで、真っ直ぐな道の脇にはいくつかの扉があり、教室代わりの小部屋が等間隔で並んでいる。
小部屋の反対側が窓になっていれば、ほとんど学校の造りに近いといえるけれど、壁があるのみだった。
イーゴンさんの鉄の足音が、妙に奥の方まで抜けていくように感じる。
廊下は広く、天井はそこそこ高いので、戦闘になったとしても、赤木の建物よりは満足に戦える、と思う。
けれどその時――
また、悲鳴だった。
イーゴンさんが、即座に剣を抜く。
声は、さっきより更に近い。
つるさんの震える手が、私の手を掴んだ。
近い、というよりも、今の悲鳴が聞こえてきたのは…
廊下の先からだった。




