幕間 怪物殺し 奥白石 つる
あれは、いつの事であろうか。
……いいえ、忘れているはずもない。
私の浅はかなる振る舞いが、多くの命を徒らに散らし、あの楢熊童子が、我が生涯の仇となりし折の事を。
「いと見事なる刀にて。銘は如何様に?」
「白霜と銘打ち申した。奥白石さま。」
「…気に入りました、吉則殿。
斯くの如き名刀を、幾度も損じ申すことを、どうかお赦しください。」
「奥白石さまの相手は人ならざる物の怪。
我ら三条派にとって、京の安寧に寄与するは、これ以上ない誉れです。」
大きな足音を立て、乱暴なる勢いにて暖簾が開かれた。
「つる!次にへし折る刀はどのような代物か!」
やれやれ。騒がしき者が参りましたか。
吉則殿の前で、斯様な嫌味を堂々と、誰に似たのやら。
「金時、騒ぐのはおよしなさい。これから兵舎へ赴くところでした。
…そなた、髪くらい梳かしておいでなさい。まったく。」
「左様か?軍議は夜半からぞ。まだ早いのではないか?」
「はあ。間に合えば良いというものではありませんよ。
我が手勢と明日の手立てを話しておかねば。」
この男は策無くとも、自らが突き入れば足るという自信に満ちている。
力ある愚か者にして、我が唯一の同類。人の理の外に出てしまった、たった二人のはぐれ者。
「――軍議は以上。十全に支度をせよ。
…奥白石、この謀の半分はそなたに懸かっておる。頼んだぞ。」
「は。卜部殿、頼光さまは御出ましにならなかったのですね…」
「公務であらせられる。」
致し方ありませんね。老いた御身を都の民の為に使われる頼光さま。
あの御方に任された役、何としても全うせねば。
頼光さまに賜わった、奥白石の名に恥じぬよう。
「ぐっ……なんたる、巨躯か…」
「奥白石殿…あ、あれは…」
「千景、下がりなさい!貞国を伴い麓まで!
あれは……私が…」
酒吞童子の郎党にてはあるまい。
かの鬼と並ぶ、いと格の高き怪異。この地にいるはずなき古き鬼。
地名の由来となったとされる、山深き神木の化身。
「楢熊童子は……私が…討ち取ります。」
白霜は文字通り太刀打ち敵わず、僅かな傷も与えられず。
自信に満ちていた愚か者は、私の方だった。
何とでも成ると侮っていたがために、この古き鬼を素通りさせてしまった。
それだけで碓井殿のおわす主勢まで討たれ、陣は崩れた。
半死の私は、手勢の全てを失い、唯一人生き残ってしまった。
「…吉則殿、あれを…楢熊童子を殺す刀を。
恥を偲んで、御願い申し上げます。
人では扱い難き程の大太刀を、あやつの頸に届く刃を。」
大太刀は、三条派の総力によって産み出された。
伏見の大神により、神威を添え給わりし浄化の刃。重心の大きく偏りし、人の身に余る得物。私は無心で手に馴染ませた。
銘を、”楢断”。
生涯を共にし、遂には仇敵に届かせた、我が牙。
――あの折と、何が変わった。
己の無力と愚かさを思い知り、楢断を求め、仇討ちに燃えたあの時と、何が。
同じではないか。
半死の身体、誤りし判断で手勢を死なせ、無策を敵に突かれ、何もかもあの折のまま。
残りしは、恥を知らぬ終わったはずの命。
それに代えても守らねばならぬ、もうひとつの命。
楽土に来る前と後で、何も違わぬ。
私は、弱すぎる。
守るべき者を守るために使うには、余りにか細いこの手。
大きすぎる過信を表す大太刀。
虚勢がさらに自己を大きく見せ、到らぬ心を守っている。
甲冑を纏いし鋼の身体の内に、無理に帷子を着せた脆き心を隠す、血に汚れたはぐれ者。
名も知らぬあの御方に救っていただいた頃の、幼き村娘のまま。
死すべき定めであった夜に、あの殿方の持つ、人を救いうる暴を垣間見た折。
私も人を救えるのではないかと、つい思い違えてしまった。
この子は、いつも辛そうに眠る。されど此度は、輪を掛けて憔悴している。
未だ泣く事も儘ならず、心を砕かれていよう。弱い私を、赦してください、さや。
そなたの大切なせら殿を、私は見捨てた。
私が……恨まれて、傷んだ心を塗りつぶそう。この子がほんの一瞬でも、悲しみを忘れられるならば、それでよい。
『もう、いいよ!もう逃げてよ!』
あの折、私にはない強さを持つこの子を、守って…守り抜いて、終わりたいと。
赦されぬ不相応な願いを抱き、ここまで来た。
真白さや。
剣持つ獣たる奥白石つるの――
抜き身の刃の、拠り所。
剣が帰るべき、鞘…
因果なことです。
「そ、んなわけ、ない、じゃん…
つる、さん、のこと、嫌いなわけ、ないよお…」
ああ…賢い子ですね。
私如きの浅慮、お見通しですか。
そなたは本当に、私などより格段に…
さや。
一人には、致しません。
最後の最後、昏き楽土の坂の頂上で、そなたを送り返すまでは。




