第15話
重い身体が薄く張った水面に叩き付けられ、飛沫が私の顔まで届く。
プララヤと名乗った彼の血が、水と混ざり合っていく。
「あの人…なんで、私を…」
「彼は、信仰に従ったのでしょう。
私たちには理解の及ばない、異国の信仰でした。
しかしサヤ、彼を理解できなかったとしても、その信仰まで否定することは、してはいけません。」
信仰。
それが私を狙った理由と関係があるとしたら、理解はとてもできそうにない。
けれどセラは、私には理解が及ばない彼の考えに対応して、勝利した。
「お見事で、したよ…せら殿…」
浅い呼吸を繰り返すつるさんは、途切れ途切れの言葉で、セラを称賛した。
…私は、誤解していたのかもしれない。
セラが、つるさんを見捨てたと勘違いして…
「セラ…わかってた、の?」
「…ええ、サヤを狙っているのは明らかでした。
上から来るのも、狙い通りです。
あの男が、何も考えず水を渡ってくるとは思えなかったので、二重の罠としたのです。」
「優れた、判断でした…」
「つるさん、い、痛いよね、どうしよう…」
つるさんの右腕から胸にかけて、横に走る大きな傷。
素人目で見ても傷は深く、少し身体を揺らしただけでも、激痛が走るだろう。
「ツル殿、失礼します。
…かなりの深手です。直前で察知していなければ、致命傷は確実でした。」
「え?見えてたって、こと?」
それもそうだ。完全な不意打ちが成功したなら、つるさんは死んでしまっていたはず…
この人は、透明人間の不可視の一撃を不完全なものとしたのか…
「しばらくは、腕を上げられないでしょう。」
「左で、持てばよい、だけです。」
いざとなれば、つるさんは本当にそうするだろう。
けれど、血の気の引いた彼女の顔は蒼白だ。生気が失せ、真っ赤だった唇も色味が悪くなっている。
これは、絶対に無理はさせられない。
「ここでイーゴン殿を待ち、しばらく回復に努めましょう。
一日あれば、なんとか動けるようになるかと。」
「……え?
たった、一日?」
「楽土で剣によって出来た傷は、現世よりも速く癒えます。
……致命傷でなければ、ですが。」
「そ、そうなの?
じゃあ、つるさん、治るの?」
「さや…
少し休めば、いつも通りに、動けます。
それより…先ほどは、よく立ち上がりました、ね…」
辛そうな彼女を見ていると、視界が滲む。
ぐったりと、力が入らない右腕の傷も、痛々しい。
その時、より一層つるさんの顔が歪んだ。
「ぐ……あ、れは……」
つるさんの視線の先には、プララヤの遺体がある。
――私は、何か、見てはいけないものを見たような、寒気を感じた。
「せ、ら殿…ここは、よ、よく、ありま…せん……」
勢いが弱まっていた血の流出が、見る見る増えていく。
河川が氾濫したかのように…
「ツル殿!…そんな、傷が、悪化している?どうして…」
セラはまだ、気が付いていない。
プララヤの遺体の周りには、水が広がっていた。
しかし、それは壺から溢れた、無色透明な水とは、見るからに違った。
血が混ざっただけでは、説明のつかない現象。
どす黒く、光を全く寄せ付けない……
この眩しい程に明るい部屋の中でそこだけ、なにも無いかのような、闇。
ゆっくりと、音もなく広がっていく。
私は気づかない内に、闇の縁を踏んでしまっていた。
生温かい感触が、足元から上がってきて――
「………禍津日…の、穢れ…」
「サヤ!サヤ!?」
あ、れ
わたし、どう、なって
誰かの、息遣いが聞こえる。
とても消耗したような、荒い呼吸の音。
「サヤ!
気がついた…!」
「あれ、ここ…
さっきの、部屋は…?」
身体が、異常に重い。
それに、なんだか視野が狭く感じる。
セラの顔が、よく見えない。
「せら、殿…
水を、さやに、洗わ、なければ…」
耳に泥でも詰められたかのように、声が遠くぼやけている。
つるさんの声が聞こえた方に、目を向ける。
でも、もう真っ暗な視界が広がっているだけだった。
「っ、冷たっ!」
突然、視界が開けた。
目の前にはセラがいて、竹の水筒から出た水を、私の頭にかけていた。
「ちょ、セラ、なんなの、やめてよ…」
「ああ、サヤ…よかった…」
セラが安堵したような、力の抜けた顔を見せた。
なにかの悪戯、ではないようだけれど…
続いて、つるさんにも水をかけている。
「はあ、うっ…はあ…
随分、楽に、なりました。水場へ、急ぎましょう。」
つるさんは、さっきよりも具合が悪そうにしている。
なにか、わからないけれど、私たちの身体には、水が必要らしい。
……身体が、まだ重い。
けれど、私はつるさんに肩を貸すと提案した。
セラは、身軽な状態でないといけないと思ったからだ。
ゆっくり、でもなるべく速足で、水の音のする方へ歩く。
あの部屋に入る直前、水の流れる音だけは、遠くから聞こえていた。
「つるさん、大丈夫…?」
つるさんを見た。
青白い顔で、こちらを見返している。
「さや…そなた、こそ。」
険しい表情になったつるさん。
私は、どうなっているんだろう。
つるさんの白い顔は、薄ら黒くなり、段々と見えづらくなっていった。
暗い……
ここは、光が届かないのかな。
「あった!
水場です、大きい…」
いつの間にか、こんなに激しく水が打たれる音がしているのに。
全く気がつかなかった。
セラの声も、やけに遠い。
つるさんは、隣にいるのかな。
密着していたはずが、体温を感じない。
「――さや、衣を外しますよ。」
「ひゃ!」
冷たい!
なに!?
意識がはっきりして、目の前にはつるさん。
裸、だ…
私も、つるさんも、首元まで水に浸かっている。
――ここは、滝壺のようになっていた。
遥か上の方から、絶え間なく水が降り注いでいた。
「はあ…はあ……さや?
しばらく、大人しくして、いなさい。
頭から、水に浸かりなさい、何度か…繰り返し…」
つるさんは、水の中で私の手を握り、目を閉じた。
私は言われた通りに、水に頭を沈め、すぐに顔を出した。それを、繰り返す。
「――筑紫の日向の…橘の。
小戸の阿波岐原に…御禊、祓い給う。
時に、生坐る祓戸の大神等。
諸の枉事罪穢を祓い賜え清め賜えと…」
眉間に皺を寄せ、なにか呪文のようなものを、ゆっくりと唱えている。
不思議と、神聖なものに感じた。
清らかな気分だった。
「――天の斑馬の、耳振立てて、聞食せと。
……恐み恐みも、白す。」
つるさんは、傷口のある胸の辺りまで水に浸かっていたが、出血はしていなかった。
もう、治りはじめている。
「ぷはっ、つるさん…よかったあ…
もう、痛くないの?」
「そなたに、心配されるような事は、もうありませんよ。」
「さっきの…なんだったのかな。」
身体を沈めたこの滝壺の中で、私たちの周りにあった闇が、静かに逃げていく。
まるで墨汁のような黒い物が、流れに乗って離れていった。
「今一度、頭から浸かって、上がりましょう。」
セラは心配そうに、私たちをちらちらと見ていた。
タオル代わりの布をもらい、身体を拭いていく。
見ると、着ていた制服も靴も、洗われて濡れていた。
寒さは、あまり感じないけれど、これではしばらく、裸のままいるしかない。
「さや、おいでなさい。」
つるさんは身体を拭き終わったようで、暗赤の着流しを、ゆったりと羽織っている。
「え」
手を前に出して、身振りをしている。
さすがにそれは、恥ずかしい…ほ、ほんとに?
「気分は、良くなりましたか?」
「は…はい。
大丈夫…でも、ないかも。」
私は、真後ろから聞こえてくるつるさんの声に、ぎこちなく答えた。
着物を毛布のように羽織った彼女は、後ろから、私の肩越しに腕を前にまわしている。
そのまま、密着して座り、まるで雪山で遭難したカップルのように、温めあっていた。
顔が熱い…
もう、ほんとに、恥ずかしい…
「さや、せら殿。
私の見解を述べます。」
つるさんはさっきの闇の水の正体に、心当たりがあるようだ。
彼女の大太刀は、瓦礫の隙間に差し込まれて、空中で横方向に伸びている。
それを物干し竿のようにして、私の制服が干されていた。
あの大太刀を打った人とつるさんには、気を悪くさせたかもしれない…
私のスカートを干して、セラもこちらに歩いてきた。
「……真っ赤な顔。」
「や、やめてよ…」
顔から火を吹きそうだ…
目を細めたセラからの視線に、いたたまれなくなる。
つるさんの神話的知識によると、あの闇の正体は、ある程度推測できそうだという。
「恐らく、死体が水に触れると、穢れが広がるというのが、この楽土の決まりなのでしょう。」
穢れ。
単に、汚れとか、不潔などの言葉では済まされないような響き。
「水は、穢れを清めるものであると同時に、穢れを運ぶものとしての顔も持っています。
黄泉の国の決まり事が、この楽土で再び現れた…」
清めて、運ぶ…
さっきの闇の流れは、そういうこと、なのかな。
「あれは、死者である我らにとっては、治癒を阻むか、悪化させる程度のもの。
されど、さや。生者にとっては、猛毒です。
そなたは、まことに危うい状態でした。」
なにか、目の前が暗くなっていく感覚や、音が遠くなる感覚があった。
それに、今は感じているつるさんの体温も、あの時、急に感じなくなっていた。
「黄泉の国から持ち出された穢れは、”神生み”たる伊邪那岐命でさえ、無事では済まされぬものであったと、伝えられています。
これは阿波岐原において、禊を行い、祓われたとされます。」
あわぎはら…。
滝壺で聞いた言葉だ。
「さっきの…えっと、呪文?」
「ええ、あれは大祓いの祝詞。
枉事、罪、穢れを祓う、祈りの言葉です。
生前、よく唱えていました。」
祝詞とは、神様への感謝や、祈りを捧げる際の言葉なのだそうだ。
とてもゆっくり唱えていたけれど、それもそうか。
感謝や祈りの言葉を、早口で伝えるのは失礼だ。
つるさんは、神主さんとか、神事に纏わる職業に就いた人だったのかな。
「ニッポンの神話にある概念が、この楽土でも存在する、と。」
セラは、自分なりに咀嚼したようで、納得した表情だ。
「ええ。
先の黄泉戸喫も、真実味が増したといえます。」
生者が死者の国で、ものを食べてしまうと、もう帰ることは出来なくなる。
これが、黄泉戸喫。
そして、この楽土においては、死体と水が触れ合ってしまうと、穢れが拡散する。
これは、生者を蝕む猛毒。
死者にとっても、危険な汚染となる、らしい。
「でも、それって…
死体には元々穢れがある事になるよね?」
「然り。
死の穢れは、その者が死した時…黄泉に落ちた時から、そこにある。
…それが水に移り、広がったに過ぎないのでしょう。
今まで、気づく事が出来ませんでした。」
つるさんは、まるで自分を責めているようだ。
重苦しい雰囲気を、間近に感じる。
けれど、こんな現象に、前もって考えが及ぶなんて、到底無理な話に思える。
「私、もう平気だし、気にする事ないよ!」
実際、身体に不調はないと思う。
つるさんやセラと私の間で、この問題への態度に、大きく温度差がある気はしているけれど。
「そなたがそう言うなら、今は信じましょう。
されど、さや。現世に帰ったら、必ず名のある神職の方に、正式な禊を授かりなさい。
必ずです。つるとの、約束です。」
「…うん、わかった。約束する。」
傷だらけの白い腕が、ぎゅっと、私を抱き締めた。




