第13話
何が起きているのか、理解が追いつかない。
さっきまで、緊張を忘れて、穏やかな雰囲気だったのに。
手を引かれて走る私は考えることをやめて、つるさんの後ろで、ぼうっと、景色が移り変わるのを眺めていた。
水が流れる音が、遠くから聞こえる。
気がつくと、四角形にくり抜かれた窓がいくつかある部屋にいた。
広い部屋で、天井は高く、梁が何本も走っている。
窓からは光が差していて、かなり明るい。
部屋の隅には、小さな壺のようなものが雑に置かれている。ひとつだけ倒れていて、水がこぼれていた。
私は大きく息を切らしていて、汗もかいている。
けれど、それに関係なく、思考はまだ空白が多かった。
……イーゴンさんを、置いて来てしまった。
彼を一人で、盾のようにして。
悔しさで顔を歪め、悲しさで涙が出た。
「イーゴン殿を信じましょう。」
「セラ、イーゴンさんが心配だよ…」
助けに行きたい、と、言いかけて…
そこでやっと、わかった。
イーゴンさんは、私を守るために残ったけれど。
私がいなければ、あんなところで一人ぼっちになんて、ならなかったのに。
「……待ちましょう。
ここまでは一本道でした。追い付いてきます。」
セラは励ましてくれるが、あまり言葉が入ってこない。
……最悪の事を考えると、とても落ち着いていられなかった。
目の前で見た、暴力の嵐。
そして、恐怖そのものと戦うような、あの黒人剣士の形相。
彼の恐怖が伝染したかのように、私も身体が竦みあがり、あの時動く事ができなかった。
「いごん殿は正しき判断を致しました。
…理解しておるでしょうが、戻っても足手まといになるのみです。」
「うん……わかってる。」
今、出来ることはないと、つるさんでさえそう言うんだから…
そうやって、なんとか正当化して飲み込むしかなかった。
「されど、やはりあの折、右を選んでいれば―――」
「…っ、そんな言い方ないでしょ!
ひど―――」
「な、ツル、殿……」
「えっ」
つるさんが、血が、吹き出て――
胸から、血が、傷が、大きく開いて―――
「カルキよ、この者か。」
なにか、わからないけど…
ここで、終わるんだ、と思った。
「邪魔をするな。
この者だけで足りる。」
「…信仰は否定しません。ですが!」
セラが、私の前に立っていた。
腰の抜けた私を、庇ってくれている。
剣を抜き、浅黒い肌の男と相対して、彼女の靴底が砂を噛む音を立てた。
男は幅の広い短めの直剣を持ち、構えも取らず佇んでいた。
つるさんは――
鈍い金属音が何度も鳴り響き、剣が交わされる。
音が、考えを途切れさせる。頭の中に、ぽっかりと穴が開いたように。
なんだっけ…なんだったっけ。
そうだ。
つるさん、つるさんは…?
「……さや、立ち、なさい。」
「つる、さん。ご、めんね……」
あの、あんなに、あんなに強い、つるさんが―――
こんなに明るい部屋で、どうやって…?
真正面から、傷を、受けて――
この、浅黒の男は、なにをしたのか。
「立ち、なさい!真白さや!」
つるさんの叱責で、ようやく頭が働きだした。
意識がはっきりして、目の前の状況を見る。
つるさんは、右胸の辺りを斬られて、苦悶の表情を浮かべている。
倒れ伏して、剣を抜くことも出来ないようだ。
飛び起きるように立ち上がり、一歩後ろへ下がる。
「苦しむことはない。そこをどけ。」
「サヤ!離れないで!」
セラは防御に徹し、奇妙なリズムで襲い来る剣を弾き、逸らして凌ぐ。
浅黒の男は表情ひとつ変えずに、次々と火花を起こして、攻め立てる。
「理解できぬか。」
その瞬間、男は構えを解いた。
セラは一歩下がり、私とほぼ密着する位置で再び構える。
「…我は、プララヤ。
妙手の女よ、最後の忠告だ。その者を諦めよ。」
「……それは聞けません。」
私が、たった一度、瞬きをしたその瞬間――
男は、消えた――
「は?」
「っ、サヤ、こちらへ!」
セラに手を引かれて、部屋の一角に駆け込む。
小さな壺がいくつも置かれていて、それらを背負う形に陣取った。
背後からの奇襲を潰す、セラの判断だった。
セラは前方を見渡し、警戒を厳にしている。
「サヤ、壺の中身は!?」
「え、壺…?
えっ、と……水、水が入ってる!」
「投げて!全部、前へ!」
困惑しながらも、壺を手に取る。
多分、陶器かなにかの素材。
それをセラの右側から、前方に投げる。
当然壺は割れてしまい、辺りは水浸しになってしまう。
「こ、これでいいの?」
「もっと!」
あと十個もない壺を、全て投げる。
セラの目の前には、散乱した壺の破片と、多量の水。
水が光を反射して、とても眩しく、顔をしかめる。
セラは呼吸を乱しながらも、大きく息を吸った。
「相手は、この私の眼を欺き、完全に気配を消しました。
霧にでもなったかのように…」
セラの眼は、動体視力に秀でた天性のもの。
彼女でも眼で追えないほど、高速で動いた、ということだろうか。
「いえ、動かなかったのです。
だから、視えなくなった…」
「え?ど、どういう…」
「――視えなくても、水の上を歩けば、姿を隠してはおけない。
だから、正面からは”来ない”。」
構えながら、淡々と状況説明を続けるセラ。
そういう、ことか。
どういう理屈か、浅黒の男は完全に”消えた”。
けれど、目を欺けても、現象は欺けない。
水を踏めば、必ず飛沫が舞い、波紋が広がる。
これは、どうやっても覆せない。
後方は部屋の隅。
前方は水の探知罠。
すごい……
セラは一瞬で、ここまで考えて、この場所に陣取ったのだ。
緊張で、圧し潰されそうになる。
つるさんに目線をやると、左手を使い、布で傷口を圧迫しているようだ。
ひとまずは無事―――
あ。
「セラ…」
「…今は、余計な事は考えずに。」
セラは、振り向かなかった。
私は、ばかだ。
セラが私を優先して、手負いのつるさんを見捨てたことに、今さら気づいたのだから。
あの男は最初から、つるさんだけを警戒していた。
そうとしか、思えなかった。
彼はどうやってか、暗がりなどどこにもないこの部屋で、真正面から不意打ちを成功させ、無力化した。
あの、つるさんを…
”消えて”いたのだ、目の前にいたのに。
動かなかったから視えなくなった、とセラは言った。
もしも、そこにいないみたいに姿を消せたとしたら…
つるさんでも、気づけなかったかもしれない――
「……あなた、やはり出来ますね。」
セラの声が聞こえた時には。
もう、終わっていた。
前からでも、後ろからでもない。
”上”から、男は急降下した。
水も、壁も、無視して。
けれど、まるで――
わかっていたかのように…
セラは相手の剣を、完全に凌ぎ切った。
そして崩れた浅黒の男の、喉を突き刺していた。
「カ、ルキ……よ」
「私は、セラニール・ラ・ヴァリエール。
この子の、守護者です。」
剣を真横に振り払われた。
プララヤと名乗ったその男は、地に沈んだ。
思い出したかのように、水が跳ねる音がした。




