第122話
伏見に住むようになってから、公私問わず足繁く通っているのがこの伏見稲荷大社。
私の周りの人は、お稲荷さんという愛称で呼ぶ。
この場所で、私の人生は決定的に狂った。
「本殿でお参りして、帰ろ。」
「うん…」
つい、周囲を見渡してしまう。
「昔さ、狐とおうたやん?」
「うんうん、その話、昨日街の人と話してて――」
大きな狐の銅像が、門の前で睨みを効かせている。
もしかすると、この銅像を仲間だと思ったりするのかな。
本殿でお賽銭をして、手を合わせて神さまにお話する。
茉琴さんが言うように、私の心の傷が治ればいいとは思う。
「うわ、明日雨やって。」
「えー…
しばらく部屋干しかなあ。」
既に霞が街を覆い尽くし、紫陽花の花が咲き始めている。
水気混じりの空気が肺に満ちていく。
お休みだから街を走りたかったけど、ジムでランニングするしかないか。
生活必需品を買い足し、家に戻るともう夕食の時間だ。
茉琴さんにはリビングで寛いでもらい、私は野菜を細かく切っていく。
夕方のニュース番組は、雨の兆しを報せていた。
『明日の関西は雨の予報です。
夜中から雨が強まり、朝の通勤時間帯にかけても大雨に警戒が必要です。
気象庁から梅雨入りの発表があるかもしれません。』
「はー、梅雨かあ……」
この三年、茉琴さんの頭を悩ませている季節現象。
年に一度、人々の生活に重い空気をもたらす時期が来る。
でも私たちにとってそれは、洗濯物が外で干せないとか、雨の中通勤するのが嫌だとか、水害の心配をしなければならない、なんて意味とは違う。
――徹底的に、私たちが不利になる季節。
穢れが氾濫する重大なリスクが高まる。
雨に晒された敵の死体は、現世を侵す災害となり、猛毒を撒き散らしていく。
剣士を一ヶ月近くの期間、外で殺すことができなくなってしまう。
『”伏見事件”から三年近く、事件に関与していたとされる元少年の初公判が――』
『うまそおー!
では早速、頂いてみましょう!』
アナウンサーの声が途切れ、別の誰かの声に変わる。
炊飯器の呑気なメロディーと、タレントの食レポが、静かな部屋を支配する。
「…茉琴さん、味見して。」
「あ、うん。どれどれ。」
今日のメインは、青椒肉絲。
茉琴さんは町中華に行くと、いつもこれと麻婆豆腐の二択になる。
フライパンから菜箸で直接取り、味を確かめている。
「………」
「…いや、食べ続けないでよ。」
「ほいひいもん。」
「口にもの入れて喋らないの!」
ご飯と、塩分控えめの中華風卵スープとのセットにした。
明日も元気に働けますように。
「いただきます!」
黒猫があしらわれたお箸を俊敏に動かし、ピーマンと牛肉を口に運んでいく茉琴さん。
味付けは、上手くいったみたい。
いい食べっぷりだけど、警察官特有の早食いのせいで、若干苦しそう。
「お家ではゆっくり食べましょ。」
「ふぬ!」
私が洗い物をしている間、茉琴さんはお風呂を掃除中だ。
普段は部屋の掃除なんてしないこの人でも、お風呂だけは清潔にしていたいらしく、いつも気合いを入れて取り組んでいる。
袖を捲り、手に水滴を付けて、キッチンに入ってくる茉琴さん。
髪を後ろでまとめている。
「茅陽、明日のお弁当って…」
おや、お楽しみは取っておくかと思ったけど…
私は指を二本立てて、にやりと笑う。
「青椒肉絲、パートツー!」
「可愛いやつめ!」
いつものお約束。
真正面から彼女の胸が迫る。
「ちょ、びしょ濡れだし!
もう、暑いよお!」
「お姉ちゃんと一緒にお風呂入るう?」
「はーいーりーまーせん!」
お風呂上がり、着替えて寝る準備をしていると、今日目覚めた時のことを思い出した。
…寝室で寝たら、また茉琴さんに迷惑かけちゃうかも。
「こら、ソファで寝るつもりちゃうやろな。」
「…だって。」
「ちゃんとベッドで寝なさい。
変な気い遣わんでええから。」
二つ並んだシングルベッド、その右側に入る。
照明が消えて、薄っすらと茉琴さんの輪郭が、隣で浮かんでいた。
「おやすみ茅陽。」
「おやすみなさい、茉琴さん…」
眠りに入るのが、ちょっと怖い。
迷惑かけちゃうと、思うと……
……
*
『ちーちゃんさ、ひどくなあい?
あたし、ヤンキーだったことなんかないけど!』
『ちょっと割合がおかしくないかな?
さやのことばっかり考えてるよね。』
「え…」
身体が落ちていく感覚。
でもそれを、なにかが上へと引っ張る。
私の両手に添えられた、誰かの手。
「りりちゃん、しおりちゃん…」
『あーあー、泣かないの。
もう、変わってないなあ。』
『でも、逃げずに立ち向かってる。
カッコいい警察官になったね、ちーちゃん。』
「会い、たかった…
会いたかったよお…」
優しく引き上げられ、二人が私を見つめる。
穏やかな顔、懐かしい匂い、いつまでも変わらない。
『ちーちゃんの傷は、私たちがなんとかする。
さやぴにこっちは任せとけって、言っちゃったし。』
『こーら。
…ちーちゃん、夢はもうお終い。
現実をちゃんと見て、向き合って。』
「やだ、行かないで…!」
『どこにも行かないよ!
ずっと一緒…
見えないだけだよ。』
『さやは、あっちで元気にやってると思う。
私たちは、ちーちゃんを見てるから。』
二人に身体を支えられ、地に足が付いた気がした。
なにかが、噛み合ったような感覚。
*
「…あ、ごめんな。
行ってくるから、寝といて。」
なにかが頬に触れる感覚が、私を夢の世界から引き戻していた。
「…ま、ことさん。」
「ど、どうしたん!?
また怖い夢か?」
心配そうに見つめる茉琴さんは、指で涙を掬ってくれた。
「…ううん、もう大丈夫。
お仕事、頑張ってきてね。」
「…うん。
よし、じゃあ行ってくるな!」
身体の震えは感じない。
二人が、私の心を治してくれたのかな。
伏見の神さまが、私の夢に親友を招いてくれたのかも。
…また、お礼を言いに行かないと。
部屋の中からでもわかるほどの雨音に、茉琴さんの身を案じずにはいられない。
今日は当直で、明日の朝まで帰ってはこない。
私たちの生活は、意図的に調整しなければ合わないものだ。
だからこそ二人で食べる夕食は楽しいし、大切に思っている。
次の日曜日は茉琴さんのお誕生日だから、今日はプレゼントを見に行きたいな。
当日までにキーケースを失くしてたら、同じものにしようかな、あはは。
『四国、中国、近畿地方の梅雨入りが、気象庁から発表されました。
明日の降水量は――』
やっぱり、そうなったか。
洗濯用洗剤を部屋干し用の物に取り替え、除湿機を押し入れから出す。
念のため、もう一度さやちゃんの説明を聞いておこう。
【覚えておいて欲しいこと】
『なーんかい言うの、って感じに思うかもしれないけど、本当に大事なこと!
まず、私の体験談からね。
えっと、仲間の剣士が倒した相手が、水浸しの地面の上で死んだの。
私はもう一人の仲間の大怪我で頭がいっぱいで、”それ”に気付くのが遅れちゃってた。』
重大な話なのに、やけに軽く話すさやちゃん。
実際これは、残された六つの動画の内、三つで話題に上がっていた。
どれだけ重要なのか、絶対に間違いを起こしてはいけないと、何度も説明されている。
『……今にして思えば、五感を失いかけてたのかも。
目も耳も、肌が触れ合う温かさもわからなくなってた…
あの瞬間、私の足が、穢れに触れた。
…生暖かい感触だったのを、今でも覚えてる。
それが、這いずるように身体を昇ってきて、気絶して…
目が覚めると、仲間が私を運んでくれてて、でも目の前が真っ暗で、なにも見えなかった。』
途端に表情が暗くなり、トラウマを吐き出すように、苦しそうな声色。
五感の喪失。それは、自我以外の全てを失うということ。
ほんの少し触れただけで、生者の人間性を奪う劇毒だ。
『その後、滝壺みたいになってる、深い水場に放り込まれたの。
あの時、つるさん…仲間が唱えてくれた祝詞のおかげなのか、水で清めたからなのか、私は持ち直した。
でもしばらく後、また戦闘があって、敵の死体が水場に落ちたのを見た。
”見た”だけで、胃の中がひっくり返るように暴れて、吐き気がして…』
思い出しながら喋るさやちゃんは、本当に気分が悪くなってきているようだ。
『えっと、つまり言いたいのは、生者が穢れに触れたら…
恐らく、だけど……二度と、治らない。
二回目の時、あの闇の水を見たわけでも触ったわけでもない。
ただ、穢れが発生する条件が整った、その瞬間を見ただけで、丸一日動けなくなった。』
不可逆的な症状、とでも言うべきか。
一度受けたダメージを、肉体は決して忘れないのだろう。
『…私より長くあれに触れた生者に、どんな症状が出るのか、予測できない。
万が一にも起きて欲しくないけど…
もしそんな人が出てしまったら、水で洗い流すこと。
流れる水でね。
そして、神職の方に禊をしてもらうこと。
これだけ、本当にこれだけは、なにがあってもお願いします…』
さやちゃんが頭を下げて、この話題は終わる。
自分がいなくなった後のことを憂慮して、これだけ口を酸っぱくして彼女が言うのだ。
…絶対に、汚染が広がるのは避けないと。
『えっと、次は…
つるさんの祝詞、かな。
これは神職の方の方が詳しいとは思うんだけど――』
ここからの話は、今は大丈夫だろう。
スマホを置いて、外出の準備をしていく。
彼女の姿を、動画でとはいえ見られると、勇気が湧いてくる。
よし!
ジムでトレーニングしたら、プレゼントを見に行って、それから…




