第121話
身体が、どこまでも沈んでいくような感覚が続く。
ゆっくり、深海の暗闇の中を落ちていく。苦しくて、寂しくて……
海底に縫い付けられ、届くはずもない手を伸ばす。肺の空気が泡になって遠ざかる。
離れていく彼女の名前を叫んで、振り向いたその顔――
「茅陽、茅陽。」
「っ、はあ。
はあーっ、はあー。」
激しく暴れる心臓を手で抑え、上体が跳ね上がった。
強張った身体が、呼吸の仕方を忘れている。
「落ち着いて、大丈夫…
そう、ゆっくり吸って、吐いて。」
背中を力強く擦る手と、優しい声色だけに集中する。
咳込んで、涙が零れ出ていく。
「うっ…はあ…
ごめん…ごめんね…」
「大丈夫、もう大丈夫。
ほら、こっち見て、そう。」
鼻先が触れ合う距離に、茉琴さんの顔。
ごめん、そんな悲しい顔させちゃって…
そのまま、頭をゆっくり枕へ戻される。
「はやく、行かないと…」
目が覚めたら、伏見署に一緒に行くという話だった。
「時間、あるから。
心配せんでええよ。」
汗で額に貼り付いた髪が撫でられ、次第に呼吸が落ち着いていく。
茉琴さんの目を見ると、微笑みで返してくれた。
…また、さやちゃんの夢。
何度見たかもわからない、遠い日の彼女。
どうせ夢で逢うなら、もっと楽しくお話したいよ…
どうして、なにも言ってくれないの…?
「いま、何時…?」
「十五時。
お腹空いたやろ、用意してくるね。」
立ち上がろうとする彼女の手を掴み、引き留めた。
「…ちょっとだけ、ここにいて。」
「なにい、可愛いこと言うやん。
しゃあないなあ…
今日だけやからな!」
茉琴さんは、ちょっとだけ嬉しそう。
何度もこうやって、介抱させてしまっている。
いくら体力があっても、休息が満足にできないなら役立たずだ。
いざという時に、私のせいで誰かを危険に晒してしまうのが、怖い。
「茉琴さん、寝れた?」
「うん、ぐっすり。
もうちょっと、寝とく?」
「ううん。
顔、洗ってくる。」
手を引かれ、私は身体を起こした。
伏見署へ行くのは、なるべく早い方がいいはず。
急いで用意をしていく。
軽い食事を済ませ、着替えを始める。
「茉琴さん、制服でいい?」
片付けをしながら、茉琴さんは視線を逸らして答える。
「非番やし、私服でええよ。
でも、そうやな…
一応、ジャケットにしとこっか。」
箪笥から、カジュアル過ぎない紺のジャケットを取り出した。
伏見署での話が私の想像通りなら、確かにちゃんとした服装が適している。
二人で部屋を出て、鍵が触れ合う軽い音が廊下に響いていく。
キーケースをバッグに仕舞う仕草が、妙に様になっている。
「失くしてないね。」
「えー、信用ないなあ。」
茉琴さんはなにも言わず、手を握ってくれた。
その時やっと、まだ震えている自分に気づいた。
「すまんな、非番やのに。」
「いえ、あの、お話というのは…」
会議室で、宮本係長が待っていた。
ここへ来るのは久しぶりだ。高校生の時以来になる。
「…察しは付いてるやろ。
現在、二名の剣士が発見されてないまま。
捜索に出られる人員は限られてる。」
…?
ひとり、倒したって…
茉琴さんは私の後ろに立ったまま、口を挟まない。
「佐山、剣士対策については?」
「はい。
全て、頭に入っています。」
約三年の間、準備をし続けた。
さやちゃんが残した情報の中で、私に説明できないものはない。
それに、実際に剣士の戦いを経て、生き残っているのは私と茉琴さんだけ。
「一条、文句ないな?」
「え?」
振り向くと、彼女は目を閉じて眉間に皺を寄せている。
納得していない様子だ。
…そんなに、私は頼りにならないの?
「臨時、ということであれば。」
「それを決めんのは、お前やない。」
…ずっと、茉琴さんが守ってたんだ。
私を危険から遠ざけて、踏み込ませないように。
なんで…
「私じゃ、役に立てませんか?」
「……お勉強ができても、現場では通用せん。
絶対に、勝手なことはせんように。」
彼女の顔をしっかり見て答えた。
さっきまでの優しさは消え失せ、冷たい瞳が鋭く私を射抜く。
…警官モード、か。
「…佐山、俺が仕事を振る時は、そういうことや。
一条と、鷹司さんと連携して臨機応変に。」
「はい。
宮本係長、ありがとうございます。」
ずっと、この時を待っていた。
やっと、スタートライン。
私、全力で取り組むよ。
「おお、佐山。お疲れ。」
「あ、江上さん。お疲れさまです!」
会議室での話し合いは終わり、署を出ようとしたその時、江上さんに遭遇した。
署に用事があったのか、同じく非番のはずの彼はラフな格好で、誰かを待っているようだった。
茉琴さんは一歩前に出て、挨拶をする。
「お疲れさまです。」
「…調子どうや。」
江上さんの言葉は、私よりも茉琴さんへ向けたものだった。
表情が暗く、まださっきの話し合いには納得していないようだ。
覚悟しなさいって、あの言葉はなんだったの…?
「よく眠れています。問題ありません。」
「警察官が嘘言うんは良くないなあ。」
語気は柔らかく、眼光は鋭く。
江上さんは、鼻から溜め息を吐き出した。
「かわいい子には旅をさせよ、やな。」
「なんの話でしょうか。」
江上さんは手首を上下に振り、私たちは一礼してその場を離れた。
街中を走る車内で、ハンドルを握る茉琴さんは押し黙っている。
息の詰まる沈黙が続いて、車内では無機質な交通情報のアナウンスだけが鳴っていた。
「私…無謀なことはしません。」
茉琴さんは無言でハザードを焚き、路肩に停車させる。
私に顔を向けず、ずっと前だけを見たまま。
ハンドルの合皮が声を上げ、かちかちと鳴る指示器の音がずっと続いていた。
「私は、あんたを信頼してないわけやない。
でも、いくら三年間準備してきたとしても、まだ現場は早い。」
声は冷たい鉄のようで、圧すら感じるものだった。
「心配してくれてるのは、わかってる。
でも私、もう子供じゃないよ。」
茉琴さんは窓の方へ顔を向けた。私から視線を逸らすよう、反対側に。
運転席の窓に、彼女の顔が反射している。その目は、外の街並みを見ているようで、なにも見てはいないように思えた。
「そっか…そう、やな。」
大きく溜め息を吐いて、茉琴さんの雰囲気が柔らかくなっていく。
穏やかな表情で、頬杖をついて私に笑いかけた。
「……甘いもんでも、食べに行こか。」
「賛成!」
コインパーキングに車を停め、和風の甘味処に二人で入る。
昔連れて来てもらってから、私もここがお気に入りだ。
今日は、わらび餅にした。
黒蜜をかけると、きな粉に弾かれて流れていく。
ひとつピックで突き刺し、真っ黒になるまで蜜に浸して頬張る。
「おいひ。」
甘さだけが、舌の上に残っている。
こしのある弾力が、とても心地いい。
でも、甘さの違いまではわからない。
上品なチョコレートも、数百円の角砂糖も、同じ味。
「明日、どうすんの?」
茉琴さんはお仕事で、私はお休みだ。
体力維持のためにトレーニングはするつもりだけど、昔みたいに一日中走るつもりはない。
翌日はまた当番だし、職務に響くのは避けたい。
「うーん…
服でも見に行こうかな。」
「お、ええな。また見せて。」
静かな店内で、他愛のない話を続けていく。
私生活モードの茉琴さんと話す時だけは、遠慮も気遣いも必要ない。
抹茶アイスを一口食べ、茉琴さんは斜め上に目線を向けて、なにか考えている様子。
「なあ、さやって彼氏とかおったん?」
「え、えっと…
あー、一年の時にいたことあるって言ってた。」
こういう雰囲気の中で、親友の話をするのはむしろ歓迎だ。
さやちゃんと知り合ったのは一年生の後半だけど、あっと言う間に仲良くなっていったな。
その頃にはもう、この恋バナもどきを聞かせてくれていた。
「へえー!
あの子の彼氏かあ…
なんか、大変そうやな。」
「でしょー。
でも、三日で振ったって。」
「えー!
なにが気に入らんかったんかな?」
この話をした時の彼女は、本当に興味が無さそうな態度だったのを覚えている。
経験になるとか、そういう理由で付き合っただけ、という感じ。
「子供っぽすぎて無理、って。」
「はっはっは!
言いそう言いそう!」
思えば、楽土へ行く前から、さやちゃんは大人びている部分があったな。
…変すぎるボケをしたり、大真面目な顔でふざけたりもしてたけど。
「私は伏見でのさやしか知らんけど、よう気が利く子やったし、モテたんやないの?」
「あんまり男子の間の噂は聞かなかったから、わかんないけど…
私たち、いっつも四人でいたから、男子は近付きにくかったのかも。」
四人の中でモテていたというと、やはりしおりちゃんかな。
二年生に上がるまでは彼氏がいたとかで、中学でも何度か告白を受けたと言っていた。
りりちゃんは気が強くて、不良っぽい雰囲気もあったので、男子から避けられていたなあ…
「茅陽は今、どうなん?」
「…え、ないない。
そんなに暇じゃないもん。」
私の生活に、男性が入り込む隙間はない。
少なくとも今は、だけど。
「そっか。」
「…茉琴さんがしっかりしてくれたら、私も気兼ねなく出て行けるのになあ。」
「なんやとお?
……ほんま、いつもお世話になってます。」
この人は私よりもずっとお仕事が忙しいし、私生活を疎かにするのは無理もない。
私は恩返しのつもりで、家事全般を代わりに行い、食費も家賃も渡している。
お金のことは、一度は断られたけど、無理矢理渡すようにしている内に、素直に受け取るようになってくれた。
「…お稲荷さん、寄って帰ろか。」
店を出ると、空は茜色と紺色のグラデーションとなっていた。
時刻は十七時を回って、吹く風が涼しくて気持ちいい。
この時間なら参拝するのも苦労はしない。
「茉琴さん…」
私は彼女の手を握って、目を合わせた。
少しだけ高い位置にある、彼女の顔。
「私…
その、今はあの人に会いたくなくて。」
「……うん。
…前に、さやが言うとったことがあってな。」
話が急に変わったように思えた。
ぎこちない表情のまま、茉琴さんが続ける。
「伏見の神さまが、傷を治してくれたいうやつ。
まあ、商売繁昌とか、五穀豊穣のご利益があるっていうのがほんまのとこやねんけどな。
あの子に良くしてくれたんなら、茅陽のことも見てるかもな。」
「え、今は怪我してないよ。」
そう言うと、私の胸を指さして、微妙に視線を逸らした。
「そっちも、治してくれるかも。」
「…なんか、小っ恥ずかしいこと言うね。」




