第120話
今更、”人殺し”などと呼ばれ、心に波風が立つなどとは思いもしなかった。
走る自動車の中で、あの瞬間が頭の中で繰り返される。
茅陽の憎しみを受けた我が心は、未だに揺れている。
愛と憎しみは、真逆のようでいて同一のもの。
あの折、さやは私にこれを伝えておったのだな…
愛を奪った私に、茅陽は憎しみで返した。
蓋し、どう思われたとて、私が茅陽と伏見を守ることに変わりはない。
茉琴殿は、私に失望されたであろう。
あの特異点を監視して、三年近くになる。
その間、九人の剣士を秘密裏に処分し、京の安寧の一助としてきた。
我が不手際で、誰かの愛が奪われるなど、もう二度とあってはならぬ。
信号機は赤き光を放っておるが、茉琴殿は意に介さず走り抜ける。
警察が用いる自動車は、この規律を破ることが認められているとか。
「忌助、走るよ!」
自動車は停止し、白い鋼の板を跨いで鴨川に降りていく。
「は、仰せのままに!」
闇夜の中に、激しい光が一点。
あれが先行しておった辻野殿か。
茉琴殿が電灯で河川敷を照らし、道を示された。
「行け!」
光が、川の浅瀬を見つけ出してくれた。
足元を濡らしながら、跳ねるように中州へ。
一気に踏み込み、砂利を蹴飛ばして、前方の光へ走る。
刀を抜き、鞘を捨てる。
もう、間近――
「…辻野殿!」
「追え、忌助!」
広く均された河川敷。
逃げ続ける剣士は、足を取られ転んだ。
――ここで仕留める。
辻野殿の放つ光は、剣士を見失っておる。
されど、もう私の夜目が捉えた。
水場に浸かっておろうが、傷を与えて引きずり出すのみ。
相手の肩口を狙い、振り下ろした刀。
それが、剣ではないなにかに阻まれた。
鍋のように丸い、鋼の盾。
こんなものを、持っていたか――
いや。
「辻野殿、捜索をお続け下され!
この者は――」
勢いよく盾が突き上がり、私はたたらを踏んだ。
ジュリオでも、唐人の剣士でもない。
――今日だけで、三人の剣士が現れていた…
「…ミロシュ・ヴコヴィッチ。」
「鷹司忌助。
京の安寧のため。」
暗がりに馴染む、茶の髪と目。布服には傷だらけの金具が取り付けられている。
ミロシュの表情は、戸惑い、怯え、困惑の色を醸し出しておる。
茉琴殿に賜ったいつものスーツとは違う、大きめの衣服。
茅陽の気遣いによるものだが、妙に動きがもたつく。
水場から遠ざけるように、押し攻める。
中州の中央へ、少しでも陸地の広い側へ。
水しぶきが舞い、足に冷たい感触が残る。相手の衣服も濡れていると見るべきだ。
盾の表面は丸く、刀がその上を滑っていく。
勢いを乗せるのは愚策か。
続けて、盾のない右手側、斜め下から斬り上げる。
右脇腹から左鎖骨へ、一直線に立ち上げる――
その切っ先が、盾で殴るように弾かれた。
ミロシュは盾に付けた勢いのまま回転し、裏回りの袈裟斬りが迫る。
斜め前に転身して、懐を通り抜け、砂利の上を身体が滑っていく。
「ふん!」
寝転がる私に、厚手の靴底が迫る。
更に転がり、遠ざかるように躱す。
回転で勢いを増し、片手で地を打つ。
身体を逆立てて飛び、足から着地した。
ミロシュと申す男、この盾による崩しを用いた反撃が得意と見た。
蓋し、甘い。
この男、大義もなく、自らの意思によって戦に出ておったわけではあるまい。雇われの兵か、虜囚の類であったのか。
なにより、焦りが見えた。
距離を詰め、圧をかけ続ける。
電灯の光が水面に照り返し、僅かに相手の顔が歪む。
左首筋狙いの軌道、音もなく切っ先を走らせた。
「ぐおっ!」
「攻めぬのであれば、もう終いぞ。」
盾は、刀の位置を誤認した。
的外れの場に置かれたそれを潜り、左脇腹を裂く。
厚い両刃の剣が突き返され、低く躱す。
続いてミロシュの攻めが繰り出される。
「辻野くん、行って!」
…茉琴殿!
出来ておられる。
この勝負、早々に終わると見たのであろう。
「うおお!」
刃筋の通った、鋭い振り。
半端者よな。
縦振りの軌道を半身で躱し、前へ身体を入れる。
開いた左腋、盾が備わった側を封じる。
最低限の防護を施した、腕部の板金の隙間に切っ先を入れ、肘から先を斬り落とした。
崩れたミロシュの襟を引き、足を払う。
「ああっ!」
そのまま、頭から地面に叩き付けた。
「恨みは無いが、ここまでだ。
茉琴殿、電灯を!」
ミロシュの右手を踏みつけ、手首から斬り落とし、反撃を封じる。
電灯がその身体を照らし、水滴のついた脚絆に目を向ける。濡れて、色味が変わっておる。
「なにを…!」
厚手の靴と脚絆を、茉琴殿が順に鋏で切り開いていく。
抵抗するミロシュの喉元を踏みつけ、声を封じた。脇腹を突き刺して、抵抗の意思を削ぐ。
「ぐおっ!!」
「騒ぐな。」
茉琴殿は両手に吸水タオルを持ち、つま先から膝の辺りまでを拭いていく。
「水滴なし、忌助!」
一切の水気がないことが認められた。
であれば、もうよい。
「ごっ、ぼお…」
ミロシュの喉を突き、捻った切っ先を真横に振り抜いた。
これにて終いだ。
茉琴殿は自動車へ戻られた。
私は捨てた鞘を拾い、念のためミロシュの死体を水場から更に遠ざけていく。
人目につかぬこの場で、この者を処理できたのは幸運といえるであろう。
薄暗い中、懐中時計を見ると、時刻は二十二時。
剣士の死体が消え去るのは、明日の七時頃となる。
…蓋し、空振りであった。
辻野殿が、あの二人を見つけ出すのを待つか、我らも夜警に出るか。
全ては、今世の御屋形様が示されるままに。
茉琴殿は、近くに自動車を移動させたようだ。黒く大きい袋を持って戻られた。
水を通さぬこの袋により、死体を封じる。
辺りに人影がないか、茉琴殿が目を光らせておられる。
私は、急ぎミロシュの死体を袋に入れ、担ぎ上げた。
「自動車まで?」
「そうやね、後部座席に。」
河川敷から上がっていくと、すぐに白黒の自動車が停められている。
袋を放り込み、顔を上げると、茉琴殿は報告を上げておられた。
「伏見三十四、対象を確保。」
『伏見三十四、了解。
”空袋”になるまで戻るな。』
「…忌助、朝まで付き合って。」
「は。」
自動車が街を巡っていく。
夜の街に灯る光は、人々の平穏なる暮らしの証左。
後ろへ流れて行く景色が、今は妙に愛おしい。
守らねばという決心が、この光景を見る度に思い起こされる。
街角で、暫しの憩いとなる。
私は兎も角、茉琴殿は目に見えて疲弊しておられた。
茅陽の身を案じた心労も、それに拍車をかけておるのだろう。
なんでもよい、なにか茉琴殿の意識を変える話などがあれば…
「茉琴殿、昇進…されたとか。
それは、如何なる意味でありましょう。」
昇り進む、なにやら、良い響きの言葉とは思う。
「えーっと…
そうやな、小智が大智になった、って感じかな。」
「なんと!」
茉琴殿は大いなる功を上げ、冠位を上げられたと…
「…ごめん、適当言うた。
…責任が増えたいうか、重みが増した、ってとこやな。
冠位十二階は知ってるやんな?」
「は。
されど、私の時代には廃れており…」
「あ、そうなん?
ややこしくしてごめん…」
「なにを仰られます。
目出度きことにございます。」
茉琴殿は、現代の物事を私に説く際、斯様な例えをされる。
私がこの現世の規律や仕組みを理解しつつあるのは、この御方の御心遣いによるものとしかいえぬ。
空が徐々に白んでいき、街が目を覚ましていく。
後部座席から青い光が湧き上がり、時間を知らせた。
「…見つからんかったか。」
辻野殿からの報告は、届かぬまま。
伏見に潜む二人の剣士は、未だ騒ぎを起こしておらぬ様子。
「あの者ら…
恐らく、民草を襲うような輩ではありませぬ。」
「根拠は?」
「武に、身を捧げた者であると感じたゆえ。」
茉琴殿は怪訝な目をされたが、私には確信に近いものがあった。実際に剣を交えて、通じた感覚があったのだ。
取り逃がした私の、つまらぬ言い訳と取られても構わぬ。
剣に人生を捧げた強さ、圧があの者らには備わっていた。
されど、現世においては異物に過ぎぬ。
「特異点の方は、頼むわ。」
「は。
茉琴殿、休まれては…」
「…わかってる。
じゃあ、行くわ。」
伏見稲荷大社の前で、走り去るそれを見送る。
監視に戻り、穴が開く程にそこを見続けた。
――蓋し、動きはなかった。




