第114話
冬の寒さも、石畳の冷たさも感じない。身体が水に沈むのに似た、妙な浮遊感を覚える。
しかし次の瞬間には、両足が地に着いたように、スニーカーの靴底から硬い感触が返ってくる。
「さーやぴっ!」
「ん?」
あれ、りりちゃんだ!
淡い光の中に、いつの間にか私はいた。
目の前には、まん丸な目を輝かせる椿本莉々《つばきもと りり》ちゃん。私の親友だ。
「さやぴ、マッジでカッコよかったよ!お疲れさま!」
満面の笑みを浮かべる彼女に接して、安心する。よかった。もう苦しむことはないんだ…
「さや、本当に大変だったね。
でも、悔いがないみたいで良かったよ。」
「しおりちゃん!」
いつの間にか、隣にはもうひとりの親友、早川栞ちゃん。苦笑いしながら、りりちゃんと私に、交互に目を向けている。
「ちーちゃんのこと、ありがとね。私たち三人、頑張ったよね!」
「だよね!
さやぴがちーちゃんを最後まで見てくれて、頼もしかったな〜。」
りりちゃんは胸の前で腕を組み、しおりちゃんは口元に手を添えて笑う。二人は満足そうに頷いている。
「あはは。なんか、気が抜けちゃうなあ。」
辛い目に遭わせた二人の親友。恨み言のひとつくらい言ったっていいのに。
「ま、あんたには仇討ちしてもらったし。」
「え、あ。王さん…」
後ろからの声に振り向くと、そこには四人のクラスメイトが立っていた。一番近くにいたのは、拗ねたような表情の、王翠玲さん。
「なによ。…言っとくけど、勝手に外に出た私のせいなんだから。
あんたは、よくやったと思うよ。」
「王がこんなに素直なの、面白いよな!」
王さんの肩に手を置いてそう言うのは、新島琉希くん。
「…悪かった。その、傷のこと、馬鹿にして。」
思わず、面食らった。指の傷を冷やかしていた彼女とは、まるで別人のように思えた。
「いいよ。私の方こそ、感じ悪くしちゃったし。」
王さんは目を泳がせながらも、しっかりと謝ってくれた。
眩しい笑顔で、隣の新島くんが続ける。
「真白はさ、すげえよ。俺、マジで感動した。」
「真白ちゃん、ヒーローみたいだった!
ずっと見てたんだよ!」
「真白さん、ありがとね。
ここで応援するのも、これで終わりかあ。」
観戦してくれていたらしい高村美羽さんと、平沢七海さん。なんか、恥ずかしいな…
「ここで観てていいよって、奇麗なお姉さんが言ってくれてさ。」
「美羽、ずーっと大声で応援しててね。
私も熱が入っちゃったよ!」
ここには、苦しみなんてなにもないんだ。命を奪われてしまった皆は、幸せな世界へと旅立つんだな…
ゆっくりと、皆との距離が開いていく。誰も足を動かしていないのに、離れていってしまう。
行き先は、なんとなくわかった。皆、満ち足りたような笑顔。
「皆は、そっちなんだ。」
「うん。
さやぴ、ちーちゃんのことは、私たちが見とくからさ!」
「さやもあっちで、元気でね。またね!」
手を振るりりちゃんとしおりちゃん。
背を向け、歩き出すクラスメイトたち。光の中に、消えていく。
「皆、大好き!ありがとうー!」
天国まで聞こえるように、手を振って大声で叫んだ。
伏見の神さまが、願い事を叶えてくれたんだ。
『真白さやさん。こちらです。』
「え?」
振り向くと、奇麗な女性がそこに立っていた。とても上品な立ち姿で、花の匂いのする人だった。じんわりと温かい空気が、彼女の周りに流れている。
『まずは、この度の大役、本当にお疲れさまでございました。
わたくしの名は、誠に失礼ながら明かすことはできません。しかし、あなたには心よりの感謝を。』
「えっ、あっ、いえ…
……あれ、なんの感謝ですか?」
心地いい声で、静かに囁くように女性は話す。しかし、この人から感謝の言葉をもらう理由がよくわからない。
『あの特異点を、その命を擲って閉じたことに対して、となります。』
「あ……じゃあ、上手く、いったんですね…」
私の命と紐付いているのでは、と忌助さんは言った。彼女の推測は正しかったんだ…
『はい。
被害を最小限に留められたのは、あなたのおかげでございます。』
「でも…
これから先にも、剣士は現れるんですよね?
私が帰るより前の時間にも漏れ出ていたはずで…
例えば、十年くらい前に現れる、なんてこともあるんでしょうか。」
『仰る通り、これから先の時間にも、剣士の漏出は起こります。
しかし、この一件における過去方向への時間の歪みは一ヶ月程度となります。
あなたが憂慮されるような事象は、起こり得ません。』
……?
あれ、この人…
どうして、こんなに詳しいのかな。なんだろう、言い表せない違和感がある。
「あの…
あなたは、神さま、なんですか?」
そうとしか思えないような存在感だった。目の前の女性は、あまりに人間離れした美しさだ。
『うふふ。
少し、違いますが…大きな括りで言えば、そうなります。』
細く白い首を小さく傾げて、女性は微笑んだ。本当に神さまなんだ…
「…あの。
私が死ななかったとして、特異点を閉じる方法はあったんでしょうか…」
聞くのが少し怖い。
でも、正しいことをしたんだと、答え合わせがしたかった。無駄死にではなかったんだと、そう思いたかった。
『方法は、もうひとつございました。
…しかし、時を要するものでございまして、その方法を選択していた場合、剣士により殺害される方は、千人を超えておりました。』
「……じゃあ、仕方なかったんですね。」
『正しいことを、なさいました。この上なく尊いことを。』
…私にも、守れたんだ。憧れの皆と同じように。
『さて。
あなたにはお礼を差し上げたく、この場にお邪魔させて頂いた次第なのです。
わたくしに出来ることなら、なんでも仰って下さい。』
「…え!そ、そんな、悪いです!」
神さまに直接お礼を言われるようなことは、していないつもりだ。
私の選択は、どこまでも自分勝手に、周りの人々を傷付ける結果となってしまった。
『まあ。どうか、そう仰らないで。
わたくしも、立つ瀬がございません。』
残念そうに表情を曇らせる女性。
その顔を見ると、不思議ととても申し訳ない気持ちになってしまう。
「あ、なら!
この後、楽土に行きたいんですけど…」
すぐに思いついたのは、この後の行き先だ。
そう言うと、女性は微笑んだ。
『それは、既に確定した事象となります。
もっとも、逆に同級生の皆さんの方へ行きたいと仰るならば、それも可能です。』
「あっ、えっと!楽土に、行きます!」
はあ、よかったあ…
とりあえず、地獄行きにはならずに済んだみたい…
もうすぐ、また楽土へ行くんだ。
『真白さやさん、謙虚で優柔不断。
仕方ありません。次の三つの中からお選びください。』
あ、そういうのは助かるかも!
なんでもって言ってもらえてるけれど、願い事なんて咄嗟には思いつかないものだ。
『一、過去を書き換えてあなたを生き返らせる。』
「………は?」
『二…』
「ま、ま、待って!え、そっ…そんなことまで…!?」
理解が、追い付かない。そんな、データの書き換えをするみたいに…?
それはつまり――
これまでの全てを、無かったことにするという、意味…
少しとぼけた様子で、女性は顎に人差し指を添えている。
まるで、当たり前のことを問われたかのように。
『ああ、わたくしとしたことが…
”整える”とでもいいましょうか。
十一月十九日の朝まで、あなたを戻すことも可能でございます。』
楽土に転移したあの瞬間から、全てが日常に戻る……?
「じゃあ、亡くなった人たちも…!」
『いいえ。
亡くなった方々は、そういう運命でありました。
書き換えを行ったとしても、別の理由で、同じ日付に亡くなることとなります。』
「そう、ですか……」
『では続けます。
二、剣の楽土を改変する。』
楽土を、変える…?これはいまいち、ピンと来ない。
『都合の良いルールを持ち込むことも可能です。
例えるならば、あなた好みの空間を自由に作り出す、など。
稲荷山くらいの規模であれば、すぐにご用意できます。』
そんなの、めちゃくちゃだ…
でも、あの楽土のルールを自在に変えられる力が、この人にはあるんだ…
『三、わたくしの配下となり、歴史の中で働く。
…これは、あまりお薦め致しません。
生前の知己と会うことは、許可出来ませんので。』
最後のひとつは、私には魅力がわからなかった。
どうしよう、難しい問題だ。…この人を待たせるのも、悪いしなあ。
『うふふ。焦る必要はございません。』
…なんだか、見透かされているような気がする。
「えっと、じゃあ二番でお願いします…」
『はい、かしこまりました。
では、実現したい現象や、適用したいルールを仰ってください。』
そんなに、だいそれた話じゃない。
きっと、あの世界ではこれから、途方もない時間を過ごすことになる。
なら、私の望みは――
「…成長、したいんです。
私みたいに、理不尽な目に遭う人がもし…
もしまた、楽土に流れ着くことがあったら、助けられるように。」
あの場所は、停滞している。
閉じた、永遠の世界。きっと、変わっていくのは難しい。
でも、だからこそ――
女性は目を薄めて、静かに笑った。
『あなたのその無欲、生前裏目に出なかったのは徳の高さと言えましょう。
では、その願いを叶えることで、わたくしからの感謝とさせていただきます。』
そう言って、女性は私の背後へ指を向けた。
『お行きなさい。
あの先で、あなたを待っている方々がおります。』
指が差すその方向には、トンネルのような道がある。光輝き、渦を巻くような穴。
それを見た瞬間――
誰かの、足音。
砂を蹴るような音が、遠くから聞こえてくる。
青く、どこまでも広がる空。果てなく、彼方まで続く海。波が寄せては返し、私の足元を濡らす。
見渡す限りの、世界。
見覚えのあるこの砂浜に、私は立っていた。
昏い、楽土の空。
死者が見るこの地は、色のない寂れた世界のはず。
けれど、私の目に映るのは、生者だった時に見たものと同じ景色。美しいとさえ思える、青く広がる遠景。
ここから、全てが始まったんだ。
なにを、していたのか…
確か、りりちゃんとしおりちゃん、クラスメイトの皆と話をして…
あれ…なにか、もう少し話していた気がするのに――
思い出せない。
「はあっ、はあっ…!」
息を切らせた、誰かの声。絶えず繰り返される大きな波の音に挟まって、耳に届く。
「はあっ、はっ…サヤ!」
後ろから、重い衝撃が身体を押す。
誰かが、私に抱き着いた。しなやかな腕がお腹まで回されている。
……もう、心配したんだからね。本当に…寂しかったんだから。
「見つけてくれたんだ。」
「はい…!もう、離しません!」
あはは。それは、ちょっと困る。
話したいこと、一緒にしたいこと、いくらでもある。
「セラ。
…会いたかったよ。」
「うう~。
緊張するう…」
「誰も、怒ってなどいませんよ。
気軽に入ってみては?」
セラと一緒に、楽土の下層部分にあるお寺の前まで来た。
あの時は一瞬しか滞在していなかったけれど、ここは本来つるさんの拠点だった。中には当然、彼女がいる。
「で、でも…にこにこしてても、怒ってる時もあるし…」
「私が間に入りますから…」
セラは困り顔だ。どうしよう…
一度止まったはずの心臓が高鳴って、一歩を踏み出せずにいる。第一声は、なんて言おう…
「ただいま?お待たせ…?
不肖、真白さや、戻りました…?」
「冗談を言う余裕があるなら、入りましょうよ…」
「た…たのもう!」
「ええ…」
呆れたセラの声は、聞こえないふりをした。
こうでもしないと、口から心臓が飛び出しそうだ…
木の扉から入ると、真正面に、こちらに背を向けながら剣を構えた人物がいた。
上半身の着物をはだけさせ、胴にはさらしを巻いた女性。その雪肌には、大小様々な傷が、無数に刻まれている。
…その人は、ゆっくりと抜き身の大太刀を降ろし、朱色の鞘に収めた。丁寧に、優しくそれを床に置き、緩慢な動きで振り返る。
一本に結った、腰まで伸びる黒髪。
切れ長の目に宿る、濃い紫色の瞳。
血のように真っ赤な唇。
整いすぎたその姿に、思わず見惚れてしまう。
お互い、なにも言葉を発しなかった。ただ目を合わせて、変わらない表情で見つめ合う。
感情の色を読むことはできず、思わず目を逸らしたくなってしまう…
けれど、もうそれはしないと、ずっと前に決めた。
長い、沈黙の時間が続いて――
腕を広げて、その人は迎えてくれた。
走った。一秒でも速く、辿り着くために。なにも考えず、ひたすらに足を動かした。
涙を追い越して、全速力で駆け抜け、そのままの勢いで飛び込んだ。ひとかけらの遠慮もなく。
必ず受け止めてくれるって、知っていたから。
「…会いたかった。」
「まったく。仕方のない妹ですこと。」
「怒ってる…?」
「あら。そなたの望みとあらば、火を噴くが如く怒り狂いましょう。」
「もう、いじわる。」
彼女のさらしに、涙が染みていく。私の身体に、優しく腕が回されて、しっかりと支えられた。
ああ、温かいなあ。大好きなこの匂い、この手触り。
「よくぞ、戦い抜きました。つるは、そなたが誇らしいです。」
「…でも、すぐに戻ってきちゃった。」
「……すぐに戻るな、などと申した覚えはありません。容易く戻るでない、と申したのです。
そなたの旅路は、容易いものでしたか?」
「――ううん。辛くて、苦しくて、痛くて…
それでも、最後まで諦めなかった。」
たった七日間。あの日々は、激しく私の心を揺さぶった。
守りたい人、殺したい相手、救えなかった大切な――
全部、容易くなんてなかった。
「されど私は、斯様に上等なることを申す資格を持ちません。」
弾力のあるつるさんのお腹に顔を埋めたまま、そっと見上げる。
自分を責めているような表情。いつか見た。何度も。
「どうしたの…?」
「そなたの死によりてあの渦が閉じた折、私は真っ先に、またそなたに……
悼むよりも先に、そなたの死に、胸を高鳴らせておりました。
卑しきことです。」
思いきり力を込めて、彼女の胴に回した腕を引き締めた。
「さや…?」
「ばか。…私も、一緒だよ。つるさん。
死ぬことへの怖さを、つるさんだけが遠ざけてくれた。だから、皆を…
皆を、置いていくことも、考えずに逝けたの。」
あの瞬間、つるさんの存在がどれだけ私を支えてくれたことだろう。
いつか、残してきてしまった人たちの気持ちに向き合わないといけない。けれど、今はただ、この再会を喜んでいる自分がいた。
「真白さや。
そなたは、真なる意味で、我らと肩を並べました。」
涙の向こうにある、優しい目をしたお姉ちゃんの顔。
「さて、これより如何に致しましょうか。」
「…ね、一緒にしたいこと、あるんだ。」
――それは、偶然の産物。
楽土に持ち込まれた、私のリュック。その中から出てきたのは、ちーちゃんのチェキだった。
薄紫色のチェキには電池が入っていて、中にはフィルムが数枚残っている。
「写真、撮ろう。皆とツーショットしたい!」
周りに響くように、大きな声を上げた。もう、とっくに気づいてるから、出ておいでよ、って。
「やれやれ、勘が冴えていますね、サヤ嬢。
…本当に、お疲れさまでした。」
「せ、拙者は、真白殿に顔向けできませぬ…」
「松吉よ。その話は追々だ。
これは…真白さん、現代のインスタントカメラですかな?」
ぞろぞろと物陰から出てきた三人。
私の騎士さま、イーゴンさん。
浮島から落ち、行方がわからなかった松吉くん。
その松吉くんを追った、東郷さん。
大切な、私の仲間たち。皆、揃った。
…浅倉さんを除いて。
傷は、消えない。身体の傷も、心の傷も。
太白にもらった、指の傷。
ナブ・エテリに開かれた、眉の傷。
愛する人たちを喪ってできた、数え切れない心の傷。
でも、きっとこれで良かったんだって思う。
傷を抱えたままで、人は変わっていける。
痛みを忘れず、前を向いて進むことができる。
振り返らずに、行こう。
まあ、この先しばらくは、ね。
「もうちょっとくっついて!」
「さや、お顔が…むぐ。」
「あはは!はい、笑って!
それで、どうするか覚えてる?」
「ええ、当然です。ぴいす。」
「そうそう!
いくよ、はい、チーズ!」




