第110話
影の中でこちらを睨むのは、忘れるはずもない私たちの敵。
あの暴威につるさんをぶつけ、仲間だったはずの雷蔵さんを切り捨てた、非情な剣士。
鷹司忌助。まさか、こんな所で再会するなんて…
「…雷蔵さん、は。」
忌助さんは、表情を僅かに強張らせた。
「我らは二人で一人。
雷蔵がおらぬのは、死したが為。」
雷蔵さんの腹を切り裂いて、太白に不意打ちするための道具にした。
あの光景は、脳に焼き付いている。
「…ひとつだけ、お願いしてもいいかな。」
「はっ。
なんと、無遠慮な。」
どう思われてもいい。
情けなくたっていい。
「私が負けても、この二人は傷付けないで。
どうか、お願いします。」
頭を下げて、頼み込む。
この人は非情だ。でも、こうするしかない。
「さやちゃん…」
顔を上げると、眉をひそめて私を睨みつけている。
「…元より、民草の命を狙う由はなし。
蓋し、わからぬ。その者ら、そなたの友か?」
「…ううん。
それ以上。喪いたくない、大切な人たち。」
「…異な事を申す。」
忌助さんを完全に信用したわけじゃない。
けれど、彼女には、一般人を襲う理由がない。
無差別な殺人はしない人だ。
楽土で、私は彼女から敵意を向けられていた。
それがどういう理由によるものかは、わからない。
彼女の視線は、ずっと私を突き刺している。
戦いは、避けられそうにない。
「…安寧を、脅かす。」
「わかっておらぬはずはなし。
そなた、あの渦がなにゆえ現れたのか、気がついておろう。」
…それは、当然。私が戻ったから。
「如何にしてか、などはもうよい。
…我が手で、都の人々から脅威を遠ざけるのみ。」
忌助さんは、刀を抜いた。
短めの打刀は彼女のスピードを支える、冷たい鋼の刃。
「…伏見を、守ってくれるの?」
「さや、なにを!」
…勘が良いな、茉琴さんは。
でもこれで、気兼ねなく戦える。
負けるつもりはないけれど、もし私がいなくなっても…
「…そなたが、気にするところではあるまい。」
「そうかもしれないけど…
一週間ここにいて、街が好きになった。そこに住む人たちも。」
忌助さんは、一歩だけ後退した。
心の底から、理解ができないといった表情が貼り付いている。
……そっか。
「ね、雷蔵さんが、あなたのことをどう思っていたか知ってる?」
「……なに?」
私は知ってるよ。
あの人が、あなたを見守る優しい顔を。あなたにだけ向けていた視線を。
気がついていないのは、きっと…
「雷蔵さんは、あなたを…
愛して、いたんだよ。」
彼女の顔から、力が抜ける。
柄を持つ手が緩み、刀が下がっていく。
「――な、んだ。それは……」
私が負けたら、彼の気持ちは永遠に届かない。
それは多分、とても辛くて悲しいことだ。
「……雷蔵の、なにを知っているというのだ、そなたがっ!」
紅潮した顔を歪めて、怒りの色が表に出る。
確かに二人の間のことは、私には全然わからない。
「忌助さんは、自分の気持ちにも気がついてない。
……雷蔵さんが、可哀想だよ。」
彼女の爆発した感情が急速に落ち着き、激情が冷たい殺意に変わっていく。
「……もう、よい。
そなたを排するは、京の人々の為。」
「二人とも、下がってて。」
不思議な気持ちだ。あの忌助さんと、私が戦うなんて。
リュックを下ろし、コートを脱ぐ。
セーラー服は、私の戦闘服。橘宗次を抜き、中段に構えた。
「真白さや。お相手仕る。」
「鷹司忌助。京と、御屋形様の御為。」
忌助さんは、切っ先をこちらに向けた。
柄頭を左肩に添え、左の掌でそれを押さえている。
来る。数歩の距離を一瞬で、一足飛びに。
点となった切っ先、どこを狙うか。
引きつけて――
間合いに入った瞬間、太刀で真上に弾き上げた。
けれど、刃は止まらない。
弾かれた勢いのまま、忌助さんの身体が半回転する。
肩が回り、腰が遅れて追い、刀だけが先に返ってくる。
次は、横から回り込んでくる。
弾く、よく視て。
ずっと後手でもいい。
速い…!
こんなにも速いのか、彼女は…!
一度の失敗も許されない。
全てが致命的。カウンターは至難の技だ。
今は、耐えるしか…
「さやちゃん、もう、やめて!」
「だめ、茅陽!」
気を散らしている暇はない。
…息ができないほどの連撃が、容赦なく襲い来る。
弾く、逸らす。重くはない、けれど、だからこそ隙がない。
僅かに、間合いを離す。
リーチはこちらが上。
初めて、彼女の剣が空振る。
――今!
手首を狙う、最小の軌道。
殺意は抑えて、ただ打つ。
「ここまで出来るとは…」
忌助さんの左腕、薄く線を引いた。
けれど、私の息はもう上がっている。
汗が止まらない。
「…あの後、どうしてたの?」
時間を稼ぐ。
勝つためなら、なんでもする。
「……ふん。
雷蔵を連れ、あの道を駆けた。
その先であの者は息絶え、私は上へ昇ったのだ。」
少しだけ、息を整えられた。
私の意図を読んでいるはずなのに…
いつでも殺せるという意志の現れだ。
侮っては、くれている。
「…忌助さん。
誰かを、憎んだことって、ある?」
「……?
ない。私は御屋形様の剣。
憎しみなど、持つ必要はなし。」
なにも、知らないんだ…
この人は、役目を全うして生きた。
ある意味、最も楽土に相応しい人物なのかもしれない。
愛と憎しみは、表と裏。どちらも、あなたは持っているはずだよ。
気がついていないだけで…
「私のことは、憎い?」
「諄い。
そなたは気に入らぬが、憎悪しておるわけではない。」
忌助さんは、うんざりした様子で構えた。
話はもう終わりだ。
けれどさっきの言葉、まだ影響が残っている。彼女の心は揺れている。
愛…
あの時、太白も同じことを…
冷たい刃が迫る。
肩、鎖骨、胸、首――
受け損ねれば終わり。
弾く、弾く――
頭への縦振り。
――ここ。
上体を折り、躱す。
――大振りだ。
今しかない。
前に、彼女の脇へ身体を入れた。
視線が交差する。
その勢いのまま、脇腹を裂く。
「ぐっ…う!」
踏み込まれた彼女の左足首を、蹴るように引っかける。
体勢が前に落ちる。その背を、追う。
――もらった。
そのはずだった。
前のめりに崩れた忌助さんは、それでも倒れなかった。
彼女の左膝が、石畳に叩きつけられる。
膝を軸にして、身体が回った。
前へ崩れるはずの勢いが、腰を回し、肩をしならせ、刀を連れてくる。
私に転ばされたのではない。
転ぶ力を、そのまま斬撃に変えられた。
「があっ!」
回転に乗った刃が、横から私の太刀を弾いた。
腕ごと持っていかれる。
体勢が、崩れる。
――まず、い。
来る!
低い体勢。
速い。縮んで、伸びる。
切っ先が――
「ぐううっ!!」
右肩を狙った突き。
無理矢理に太刀で逸らしたが、浅く肩口を斬られている。
肩に食い込み、力が込められる――
振り上げられた、彼女の左腕。
刀の峰に向かって、降ろされていく。
押し込まれる――!
「お願い、一条さん!
助けに――」
「……?」
死を覚悟した。
けれど、その瞬間は、いつまで経っても来ない。
彼女は…
忌助さんは、完全に停止していた。
その目は、大きく開かれていた。
その口は、半開きになり、震えている。
刀から圧が抜け、私は飛び退いた。
「……なん、と、申した。」
「はあっ…はあ…」
彼女は、私に目もくれずに振り向いた。
茉琴さんと、ちーちゃんがいる方へ。
「なんと申した、娘!」
ちーちゃんに詰問する様子は、尋常ではない。
私は、状況を見失った。
喉を裂くような忌助さんの叫びが、追撃の意志を削いでいく。
「なに、言ってるの…?あの人…
一条さん…」
困惑した表情の茉琴さんが、ちーちゃんを庇うように前へ出る。
緊張した様子の彼女と、じっと向き合う忌助さん。
「……そなたが、一条家の…
末裔だと、申すのか……」
「…だったら、なに。」
一条、という苗字は京都に由来するものなのか。
生前の忌助さんと、関わりのある人物の子孫が、茉琴さん……?
「……尚のこと、だ。
この御方に累が及ぶは、決して赦せぬ。
…真白さや。そなたを誅し、渦を閉じる。」
…詳しくはわからないけれど、二人に危害が及ぶ可能性は低くなったようだ。
…しかし。
「渦を、どうやって閉じられるのか、知ってるの…?」
日が、どんどん傾いていく。
雲の切れ間から差した太陽が、辺りを夕焼け色に染める。
「…よかろう。そなたは知っておくべきか。」
忌助さんは、構えを解いた。
敵意が消え、冷たい空気が流れていく。
「…そなたは、生きながらにして楽土を出た。
そうだな?
――その命が、繋がりを持ったままに、この地に残っておる。」
「………そ、んな。」
わかってしまった。
渦を完全に閉じる方法。
楽土と、まだ繋がっている私。
楽土のルールを、持ち込んでいる私…
「そなたの命が潰える。
それが、渦を閉じる為の、唯一つの方法だ。
――他に、道はない。」




