第109話
大泣きするちーちゃんを胸に抱き、目を閉じる。
…もう、私だけだ。この子と、茉琴さんを守れるのは。
けれど、こんなこといつまでも続けられない。
特異点を閉じる手段を、見つけ出さないと。
『奥白石は、お前ならわかるかもしれん言うとったけどな。』
浅倉さんの言葉を思い出す。
つるさんがそう判断したのなら、根拠は必ずある。
またあの場所に行けば、今度こそなにかわかるかもしれない。
渦を閉じて、全てを終わらせる方法が。
「…私のうち、行こ。」
茉琴さんが消え入りそうな声で呟いた。
ここは、もう思い出がありすぎる。
ちーちゃんも、ずっとここにいるのは辛いだろう。
私が、しっかりしないと。
「ほら、行くよ。」
無言で頷く彼女の手を引き、立ち上がらせる。
彼女のセーラー服は浅倉さんの血で赤くなっている。目元は充血して、腫れあがっていた。
車のドアを開け、後部座席に一緒に座り、シートベルトをかけてあげる。
「もう、誰も…」
途切れた言葉は、鋭く私の心を刺す。
揺れる車内で、ずっと身を寄せ合っていた。
茉琴さんのお部屋へ、上がらせてもらった。
ちーちゃんの手を引き、リビングへ連れて行く。
「…お風呂、入っといで。」
少しだけ引きつった茉琴さんの顔。
不自然に思い、部屋を見渡す。
床に寝転んだ脱ぎっぱなしの服と、テーブルに置きっぱなしの空き缶がいくつか。
部屋干しされた下着。半分枯れた観葉植物。ソファを埋め尽くす洗濯物の山。
…散らかっている。
「あの、じろじろ見んといて…」
いつの間にか、もう朝方になっていた。
血で汚れた衣服と身体を洗い、ちーちゃんを先に湯船に入れた。
左手を上げたまま、ずっと黙っている彼女の目は泳いで、私を追っていた。
「ちーちゃん。
お腹、空いてない?」
「…なにも、食べたくない。」
「ちょっとだけ、食べよ。怪我が良くなるように。
そしたら、いっぱい寝るの。」
「…うん。そう、する。」
ちーちゃんは、少しだけ顔をほころばせた。
力無い彼女の笑顔に、心が痛む。
借りた寝間着に着替えさせると、ちーちゃんはうとうとし始めた。
それを見て茉琴さんは、自分のベッドを使うように言ってくれた。
冷蔵庫に常備されていたヨーグルトをふたつ、手渡される。
ちーちゃんはゆっくりと食べきった。しっかりとお薬も飲ませる。
茉琴さんはソファで横になり、もう寝息を立て始めている。
私も夜通し起きていたので、もう限界だった。
ふらつくちーちゃんを寝かせて、布団をかけた。私も、続いてベッドに入る。
「疲れちゃった…」
「おやすみ、ちーちゃん。」
言いながら目を閉じると、すぐに意識が沈んでいった。
*
――渦は、依然として在り続ける。
さや。未だ、戦いを続けておるのですね。
そなたの身を、この昏き地より案ずるばかり。
渦に寄るならず者を、もう幾人斬ったろう。
いごん殿、せら殿、東郷殿、松吉…
よもや、遅れは取っておるまいが。
そなたの為なれば、この場でとこしえに立ち続けよう。
それは、我が手勢も同じ。…戻るのは、赦しません。
「女あ!どけえ!」
「失せよ…」
遠き地の妹を想いたる我が心の内。
下郎が阻むでない。
首を落とし、浜辺に積みたる死体の山へ放る。
斯様な薄汚い山が、ならず者の足を竦ませるならばよし。
なお歩み来るならば、噛み砕くのみ。
この奥白石つるを踏み越え、現世へ歩みを進めし者などおるものか。
怯え竦み、腰を抜かす亡者ども。
なで斬りとし、再び不浄の山へ放る。
もはや、遠巻きに見物する者すらおらぬ。下衆どもは、皆殺しか。
頭を割るような音と、荒れ狂う風。
振り返り、渦を見た。
うねり、歪み、小さく潰れてゆく。
「ツル殿!」
せら殿が砂浜を駆ける。
渦が、消えゆくのか…
――さや。
見つけたのですね…
胸の奥に明かりが灯る。
温かな心地が、とめどなく溢れてゆく。
私はっ……ぐっ…うう…!
ああ、なんと、卑しきことを…
*
「ん…」
妙な圧迫感があり、目を開けた。
目の前にあったはずの、ちーちゃんの後頭部。
それがない代わりに、お腹の辺りに温かな感触がある。
私の身体に、抱き着くように密着しているちーちゃんが、掛け布団の中へ潜り込んでいた。
起こさないように、枕元にあったスマホを手に取る。
現時刻は、十一月 二十六日 十四時 三十九分。
頭は、冴えている。
ゆっくりとベッドから出て、リビングへ。
ソファで眠る茉琴さんは、薄手のタオルケットをはだけさせていた。
それを掛け直し、すぐそばに座る。
「ひどい顔…」
やつれて、涙の跡が黒く滲んでいる。
気丈に振舞ってくれていたんだ。私たちに気を配って…
私は、伏見稲荷大社へ行かなければならない。
答えが、きっとある。
勘というか、そうとしか思えないような確信が、胸の中で大きくなっていく。
勝手ながら、冷蔵庫を開ける。
目が覚めれば、皆お腹が空いているだろう。
炊飯器をセットして、おかずとお味噌汁を作る。
キッチンは掃除が行き届いていて、整頓された調味料は豊富にある。茉琴さんは普段からよく料理をするようだ。
キャベツともやし、豚肉を使った野菜炒めを調理していく。
美味しそうな匂いが立ち込めて、茉琴さんがまず目を覚ました。
「…ああ、ごめんな、さや。」
「勝手にごめんね、茉琴さん。」
「ふああ…
歯、磨いてくる…」
続いて、ちーちゃんも起きてくる。見ると、寝間着のボタンは掛け違っている。
「お腹空いた…」
私たちも歯を磨いて、食卓に料理を運ぶ。
三人揃って、遅めの昼食とした。
「料理、できたんやな。」
「これが女子力ってこと。」
「説得力ないよお。」
二人とも、少しずつ調子を取り戻している。
…そろそろ、切り出そう。
「――どうやって、特異点を?」
「なんていうのかな…
行けば、わかる気がするの。」
「で、でも!
まだ見つけてない剣士がいるかも…」
ちーちゃんの不安はわかる。
浅倉さんを喪ったばかりで、私が危険に晒される可能性を危惧しているのだろう。
「閉じないと、永遠に漏れ出てくる可能性もある。
…もっと早く、行動すべきだった。」
彼がいる内に。
でも、今動き出さないと、次のタイミングがいつ来るやら…
髪をローポニーに縛る。
制服とダウンコート、リュックと太刀。
愛用のスニーカー。
眉の上の切り傷は、血が止まっている。
準備は完了だ。
ここからだと、伏見稲荷大社までは歩ける距離だ。
水月楼からよりも、少し近い。
本当は、二人にはここにいて欲しい。
けれど、そう言うと絶対に反対されるだろうし、私が出ていくのを許さないだろう。
何度か通った道を行き、真っ直ぐ行けば目的地はもうすぐだ。
ラナ・サナの死体を見つけた位置は、この近く。
ここ数日、雨は降っていない。血痕は、もしかするとまだ残っているかもしれない。
大鳥居が見えてきたけれど、やはり観光客の姿はない。
大社の目の前にある駅にも、誰の姿もない。
現時刻は、十一月 二十六日 十六時 十二分。
楼門の手前、特異点のある場所。
足を踏み入れると、妙な寒気と共に、穢れに触れた感覚に近いものが押し寄せてくる。
ちーちゃんの身体は、小刻みに震えている。
「ここが、特異点…」
「…ここ、なにか目印を付けてもらえないかな。」
茉琴さんとは、一度ここへ来ている。
彼女と警察が、なにか対策を講じてくれると心強い。
「…あ、お客さ、ん?」
ちーちゃんのか細い声が境内に抜けていく。
特異点をじっと見ていた私たちは、気がついていなかった。
私がここに来てすぐ、無人の境内に観光客が現れるなんて不自然だ。
……間違いなく、剣士だ。
地面に向けた視線を前に起こす。
ゆっくりと、振り返っていく。
「え…?」
ひとりで佇む、小柄な黒い人影。
鳥居の影が、その輪郭を隠す。
その人物は、静かに立っていた。
僅かにも身体を動かすことなく、闇の中に浮かぶ瞳が、私の目を鋭く射貫いている。
細く、しなやかな立ち姿。
けれど、崩せるとは思えないほどに、重い芯があると感じた。
刃そのものであるかのような、冷たく硬い気配。
私は、彼女を知っている。そうか、この人が…
ラナ・サナを返り討ちにした人物の特徴と、全て符号する。
「…京の安寧を脅かす者よ。
やはり、そなたか。真白さや。」
黒い髪を一本に結い上げ、暗い装束を着込んだ人物。
女性でありながら、男性の姿と名前を持つ、楽土の剣士。
「あなた、だったんだね。
―――鷹司忌助さん…」




