第106話
「一回、帰ろうかと思う。」
うたた寝していた茉琴さんが目を覚まし、帰り支度を整えた。
タクシーで戻るそうで、襲われる心配は少ない。
「車、持ってくるから。お風呂行こ。」
「あ、そういうこと…」
昨日は入浴していないし、今日は伏見を走り回って汗をかいた。
そういえば、着替えももう残り少ない。
「ああ、うちで洗濯してくるわ。
茅陽も、洗濯物まとめといて。」
「わ、ありがと!」
茉琴さんは空き家を出て、少し離れた場所でタクシーを拾うそうだ。
剣士の捜索という非日常の中でも、入浴や洗濯などの日常的な行いは無視できない。
楽土にいた頃は、もっと簡素に済ませていたな。
「浅倉さんも、お風呂行く?」
男湯に一人で入ってもらうことになるというのが、不安ではある。
こういう時、東郷さんがいれば、現代のお風呂の入り方を案内してくれただろうな。
けれど、せっかくだから現世の温度というものを味わって欲しい。
「いや、茉琴が戻ったら町を回る。
お前らは、寛いでこい。」
「そっか…」
茉琴さんが戻るまで、時間はある。
隣の部屋で、また素振りを始める。
浅倉さんは、細かい所を見てくれていた。
「そうやない。
まだ力で振っとる。」
腕力で劣る私が、男性剣士相手に戦うために、無理に力んで剣を振るっていたことに今さら気がついた。
でもそれは、誰に教えられたわけでもない。
「太刀の反りは、お前の細腕を支えとる。引き斬れ。業で、斬れ。」
「わざで…」
「奥白石を追うのはええ。
やけどな、あの人は特別や。
真似しよう思て、出来る領域やない。」
力と技、両方の頂点につるさんはいた。
私は、不器用に彼女の真似をしていただけ、か。
「それが、”武”なんだ。
力と技のバランスを、自分で探さないと。」
それは、戦いの中で見つけていくしかない。
ただの暴力に、筋道を与えて導くのが”武”。
「…打ってこい。本気で。」
広くない部屋の中で、浅倉さんが堂々と立ち、刀を構える。
真剣での稽古。でも、遠慮はしない。
浅倉さんなら、全部受け止めてくれる確信があるからだ。
「はあーっ、はーっ。」
二十分近い立ち回りの中で、たったの一撃も当てられなかった。
本気も本気、全力の打ち込みだったはずなのに、かすりもしないなんて思わなかった。
…これだけ、力の差があるってことなんだ。
「思ったよりは出来とる。
受けは良し。攻めは馬鹿正直やない、充分や。」
「じゃあ…なにが、だめなの…?」
どれだけやっても、届かなかった。
これは、逆立ちしてもだめそうだ。
「お前は、剣を握ってふた月やろう。
そんだけ出来れば、文句ない。」
「…でも。」
「さやちゃん、落ち込むことないよ!」
ずっと隣の部屋から見ていたちーちゃん。
無邪気にそう言ってくれるけれど、私は妙に気分が落ち込んでしまっている。
自分でも驚くほどショックを受けていた。
玄関の扉が開き、茉琴さんが戻ってきた。
現時刻は、十一月 二十五日 十七時 二十一分。
「自分の、取ってね。」
洗濯物を受け取り、ちーちゃんの物と分けていく。
乾燥機にかけてくれたようで、衣類はまだほのかに温かい。
「ご飯、食べに行こ。」
近くで外食をして、そこからお風呂に寄るのだそうだ。
浅倉さんには、少しの間単独行動をしてもらうことになる。
二人で制服を脱いで、私服に着替えていく。
「わ、一条さんの車!」
彼女の愛車は白いセダンタイプ。
そういえば、片腕で運転するのは、大丈夫なのだろうか。
「これ、真似したらあかんよ。」
…多分、だめなのだろう。
浅倉さんに手を振り、車は走り出していく。
すぐ近くのラーメン屋さんに停車して、ここで晩ごはんだ。
「好きなん頼み。」
「え、いいんですか?」
大怪我をした二人が入店して、店主さんは驚いていた。
茉琴さんの奢りだけれど、高いメニューを頼むのは気が引ける。
「温かいのがいいな~。」
「私、普通の醤油ラーメンにする。」
「白ご飯、いらんの?」
どうにも、ラーメン屋さんで白ご飯を食べるというのは合わない。
定食で、おかずが別にあるならわかるけれど…
お客さんは他におらず、私たちだけ。
提供はとても速くて、お腹が鳴る前に食べ始めていた。
稽古で汗をかいたし、美味しいラーメンの塩分が染み込んでいくような気がして、急いで食べてしまった。
見ると、片手で食べる二人は、不自由そうに熱々のラーメンと格闘している。
「あーんしてあげよっか?」
「ぶっ!」
「うお!あんた、ほんま…」
ちーちゃんが吹き出して、テーブルが少し汚れてしまった。
茉琴さんからの視線が痛い。
お会計を済ませて、お店を出る。
茉琴さんはお構いなしに奢ってくれるけれど、お金のことは心配だ。
「大卒公務員をなめたらあかんな。
これくらい、平気や。」
「おお~。」
「ごちそうさまでした!」
ちーちゃんの素直な反応に、茉琴さんは得意げだ。鼻が高くなっている。
ここから少し北に行くと、銭湯があるらしい。
片腕で巧みな運転を披露する茉琴さんに、助手席のちーちゃんは夢中で目を輝かせる。時折、サイドミラーの確認を妨げているけれど、気づいている様子はない。
私もいつか自動車の運転免許を取りに行くつもりだったけれど、ちーちゃんも興味が出てきたのかも。
銭湯では、かなり怪訝な目で見られた私たち。
怪我をしているのに、この場所にわざわざ来るのは珍しいだろう。
怪我をしている二人は、ビニール袋で患部を濡らさないように保護しなければならない。
脱衣所でしっかりと包帯が巻かれた箇所を密閉し、浴場へ。
私は、二人の身体を洗うのをサポートしていく。
「はい、万歳して。」
「…屈辱や。」
「……意外に、”ある”ね。」
「おっさんかいな。」
「さやちゃん、警察相手にセクハラは…」
三人並んで湯船に浸かり、目を閉じる。
昨日の分の疲れも、お湯に染み出していくようだ。
「生き返る~~。」
「さやちゃんが言うと、それっぽいね!」
「ほんまに生き返ってるもんな…」
茉琴さんとお風呂に入るのは初めてだけれど、不思議と違和感はなかった。
こういう時には、真面目な話よりも、他愛のない話題がいい。
「茉琴さんって、いくつ?」
「ん、二十五歳。
誕生日は六月十一日な、期待してる。」
「そういえば、いつの間に名前呼びになったの?」
女性三人、なんでもない話が、広がったり狭まったり。
いつしかお風呂に入っていることも忘れて、夢中でお喋りに没頭していた。
空き家の近くまで戻り、コインパーキングに駐車する。
身体は、まだほかほかだ。
夜風が心地よく、火照った身体を冷ましていく。
「あれ?」
空き家の前に着いた途端、違和感が襲う。
――扉が、開いたままになっている。
それに、扉に取り付けられていた蝶番が外れて、木くずが散乱していた。
「……車まで、戻ってて。」
二人の視線を遮り、指示を出す。
暗がりの中、玄関先で僅かに見えた痕跡。
アスファルトに散った、血痕だった。
橘宗次は中だ。土足のまま、荒れた玄関から中へ踏み入る。
そこには――
「下がれ、さや!」
部屋の奥に、手傷を受けた浅倉さん。
そして、私の少し前に、背中を向けて佇む男。
「…邪魔はせぬよう。
終わったら、お前も見てやろう。」
髭を蓄えた褐色の肌に、青銅の直剣を持つ、大柄な剣士。
その眼に射貫かれ、私は動けなかった。




