第98話
お弁当を食べ終わり、荷物を軽くまとめておく。
今夜から、ここで寝泊まりすることはない。
キャリーケースの荷物も整理しておいて、旅館を出られる準備を整えていく。
何時に帰るか不明だけれど、次に戻ったタイミングで荷物を引き上げて、浅倉さんの拠点に移る。
一条さんは先に食べ終わり、えりちゃん先生へ外出の許可をもらいに部屋を出た。
またカウンセラーへの訪問という口実だろうか。
「どうや?」
「違和感、なし。」
橘宗次を試しに何度か振るって、手元の感触を確かめる。
これなら充分戦えそうだ。
「あ、さやちゃん。私も行くから。」
「おっけー。
………え?」
ちーちゃんがさりげなく放った一言に、つい同意してしまった。
浅倉さんも、珍しく目を見開いている。
「だ、だめ!危ないよ!」
「でも、守ってくれるでしょ?」
どういうつもり…?
今まで、こんなの言い出したことなかったのに…
「さやちゃん。
未成年を狙う剣士が、子供なら誰でも襲う相手だとは、思ってないよね?」
「それは、そうだけど…」
自分が定めた基準に合った未成年を狙う剣士だと、私は推測している。
…そういうことか。
「私か、さやちゃんか。
どっちがその基準に合うか、わからないよね。」
「だめ!ここにいて!」
自ら餌になることを選ぶなんて…
もしちーちゃんが襲われたら、私は…どうにかなってしまうだろう…
「…それでも、いいよ。
私も囮になれば、剣士を釣れる可能性は二倍でしょ?
…襲われる子供が減るなら、私はその方がいい。」
ちーちゃんの声は、震えている。
目を充血させて、それでも私から目を逸らさない。
浅倉さんが大きな溜め息を吐く。
「こいつの言うとる話は理に適っとる。
…茅陽はおれも見とく、心配すんな。」
「でも、怖いんだよ…」
頭では、これが合理的だってわかってる。
けれど、ちーちゃんにもしものことがあれば、私は二度と立ち上がれない。
堪らなく、怖い。
「連れて行ってくれないなら、勝手に出て行くから。
さやちゃん、私が一人で外出する方がいい?」
「わ、わかったよお…」
立場が真逆になったようなやり取りだ。
ちーちゃんは、理不尽に命を狙われる誰かの代わりに、自分の命を危険に晒すと言っている。
…すごいことだ。
「お待たせ、行きましょう。」
一条さんが戻って、三人揃って立ち上がる。
首を傾げる一条さんが、急に表情を硬くする。
「待って、それは聞いてへんよ。」
「私も、行く。
待ってるだけは、もういや。」
一条さんと向き合うちーちゃんの表情は、私からは見えない。
けれど、小さな彼女の肩は、小刻みに震えている。
「…絶対、勝手に動かないこと。守れる?」
「…約束します。」
伏見稲荷大社への道を進む、私たち三人。
浅倉さんは、いつも通り目立たない位置から追跡してくれている。
ちーちゃんは、さすがに緊張しているようだ。
一条さんは、その様子を逐一確認して、強張った表情。
私も正直、気が気でない。
この二人を守らないと、という心理的なプレッシャーが大きい。
浅倉さんもいるとはいえ、必ず安全とは言えない。
…私がしっかりしないと。
背負った竹刀袋の中、その柄を右手で握り、心を鋭く研ぐ。落ち着け…
「一条さん、ちーちゃん。
戦闘になったら、私の言うこときいて。」
「わ、わかった。」
「判断は任せます。」
何度目かの、伏見稲荷大社への道。
これまでにない緊張感に参ってしまうけれど、それを理性で圧し潰す。
…よし、冷静に考えてみよう。
まだ昼間だし、仮に剣士が私たちを襲撃するにしても、直前で必ず浅倉さんが発見してくれる。
奇襲の可能性は低い。
次に、戦闘になった場合。
二人には建物の中に隠れてもらうとか、単純に遠くへ逃げてもらうのもいい。
敵を侮るつもりはないけれど、浅倉さんと二人なら、少なくともちーちゃんと一条さんを逃がす隙くらい作れるはず。
街は、閑散としている。
気になったのは、観光客の少なさだった。
何日か前、一条さんと同じ道を通った時に比べて、明らかに人気がない。
交通機関と宿泊施設の自粛により、人通りは激減しているのだ。
…これなら、敵を釣れる可能性は更に高くなる。
「成熟してる、ってどういう意味なんだろう…」
ちーちゃんが不安そうに、疑問を呟いた。
警官が遭遇した、未成年を狙う剣士の発言。
「その、剣士を見た人の年齢は?」
「えーっと…
三十代後半くらいやね。」
顔つきとか、身体が成熟しているってこと…?
単純に大人だから狙わなかった?
未成熟なら、殺す候補となるのか。
「聞き間違い、ってことはないよね?」
「単語のみを喋ったそうで。
”Mature”.
成熟、円熟しているという意味です。」
…これ以上考えても、相手の心理は読めないか。
狂った殺人鬼の頭の中を覗こうなんて、土台無理な話かもしれない。
伏見稲荷大社の大鳥居に到着した。
通りに面したこの大鳥居をくぐって少し行けば、楽土の渦から繋がる特異点だ。
しかし、敵を釣り出すなら、このまま境内の方に入って行く意味は薄い。
見える限り、観光客はいないし、ここで働いている人の姿も見えない。
「…寂しいな。」
一条さんが小さな声を発した。
…神さまが、剣士の居場所を教えてくれたりはしないかな。
ちーちゃんの様子を覗うと、視線を地面に落として、両手を強く握り締めていた。
…この場所は、彼女のトラウマだ。
ここの神さまには感謝が尽きないけれど、ちーちゃんの負担になるなら留まるべきではない。
今は用はないし、捜索に戻る。
大社のすぐ前の道を南側へ行くと、ジャヤラヴァとの戦闘があった場所に出る。
あの時もそうだったけれど、人通りは皆無だ。
目立つように三人で動けば、剣士がこちらを補足する確率は高い。
…いっそ、大騒ぎでもしてみようか。
「え、さやちゃん、あれ見て!」
ちーちゃんの声に、一瞬身体を硬直させ、即座に太刀を取り出す態勢に入る。
彼女の視線を追うと――
「…なによ、びっくりしたあ。」
「あ、ごめん!」
ちーちゃんが発見したのは、道の脇にいる小さな狐だった。
子犬くらいのサイズで、建物の陰から頭を出してこちらを覗いている。
敵の剣士かと思い、身構えたけれど、空振りだった。
「…こんなとこに狐。珍しいわあ。」
一条さんも驚いている。
山から降りて来るのか、以前ここに来た時にも狐に会ったのを思い出す。
あの子は、白い毛並みの種類だったけれど、目の前の子狐は茶色っぽい、通常の毛並みだ。
子狐はとことこと、道の北側に歩いて行く。
そして、すぐに私たちの方へと振り向いた。
「近所の人が餌付けしてるんやろか。なにかくれると思ってるんかも。」
「ごめんね〜。
食べ物、持ってないの。」
子狐のおかげで緊張が解けて、一条さんとちーちゃんは明るさを取り戻している。
私たちを警戒していないように見えるし、一条さんの言う通り、人慣れした個体なのかも。
大社の前の南北に伸びる道を、どちらへ進むか迷っていた。
この子狐がきっかけで、北側へ進んでみることに決まり、追いかけるように歩く。
私たちから付かず離れず、一定の距離を保つように歩き、時折振り返る狐。
「なんか、付いて来てって言ってるみたい。」
「私も思った!」
まるで道案内をするような態度だ。
ちーちゃんは珍しい体験のおかげで気持ちを切り替えられている。表情は明るく、足取りも軽い。
しかし、一瞬目を離した隙に、狐はどこかへ消えていた。
飽きたのか、餌をくれない人間だと見切りを付けたのかな。
「あ、写真撮れば良かったなあ。」
ちーちゃんは今更になって、スマホを構えようとしていた。
道には人気が全くない。妙に、静かだ。
…ジャヤラヴァと遭遇した時のことを、思い出していた。
「なんと、美しい…」
すぐ前方、男の声だ。
電柱の陰に、誰かがいる。
「…今の、聞こえた?」
「英語、だったよね……」
……自動翻訳が機能している。
「青き果実、熟す前に。」
「…下がって、二人とも。」
前に出て、竹刀袋から太刀を取り出す。
呼吸を落ち着かせ、相手をよく観察する。
けれど、私の意思に関係なく、心臓は正直に早鐘を打っていた。
「痛くしません。
どうか美しいまま、永遠になりなさい。」
「…なにかの、お芝居かな。」
「君に興味はない。
後ろの長髪の彼女、本当に可愛らしい。
今終わるのが、最も良い。」
なんだ、こいつ。なに、気持ち悪いこと言って…
男は、まるで慈愛に満ちたかのような優しい目をしている。しかし、既に剣を抜き去り、害意は明確だった。
「さや、もう一人おる!」
――浅倉さんの声。
うそ、でしょ。
「はあー、剣士がこんなに…困るんだよなあー。」
背後から、別の男の声。
振り返る余裕はない。
前方から殺人鬼が、ゆっくりと迫って来ている。
「一条さん、ちーちゃんとどこかに隠れて!」
「あかん、どっちも塞がれてる…」
「さ、さやちゃん…」
震えた声と、恐怖が乗る声。
「さや!後ろは任せとけ、すぐ加勢する!」
頼もしいはずの浅倉さんの声。
やるしかない。皆の背中を思い出せ…!
大きく息を吸った。
「真白さや。お相手仕る。」
「…ふむ。
シェイン・ドイル。
熟した者に用はない。消えろ。」
一条さんとちーちゃんを、私と浅倉さんの壁で阻む。
絶対に通さない。
「…浅倉涛庵。」
「真面目だねえ、楽土の剣士さんよ。
ラナ・サナ。…病気でね、俺。
辛抱できねえんだ。」




