三話 死神と朝餉
障子の向こうから鳥の声が聞こえる。
少しだけと、
目を瞑ったつもりが
そのまま眠ってしまったようだ。
布団のおかげか、
昨日より少し体調が良い気がする。
障子の隙間から朝日が差し込んでいた。
どうやら雨は止んだらしい。
こんな澄んだ気分はいつぶりだろう。
村での朝も確かに静かだった。
けれど、聞こえるのは胸に突き刺さる、
沢山の悪意の声。
耳を塞いでも。
目が見えないぶん、
声だけは嫌というほどよく聞こえた。
もう少し、障子を開けてみよう。
すっと障子を開けてみた。
久しぶりの朝日はとても眩しくて、
綺麗な空が見えた気がした。
スパーン!
「生者様!
おはようございます!」
あまりにも驚きすぎて、声も出なかった。
ビクッとして振り返れば、いちと、
その後ろからやや呆れた様子の男が入って来た。
「だからいつも静かに開けろと言ってるだろうが。」
「くせなので!
すみません!
それよりもほら、主様。」
ほらほら早くと何かせっつかれている男は、
頭を掻きながら何かを言いあぐねている。
まるで、いちのほうが主のような。
そんな二人の様子がおかしくて、
透子は小さく目を瞬かせた。
「ほらほら、主様。」
「…朝餉を用意させた。」
「え?」
「人は食わねば死ぬのだろう。
食え。」
いちが透子の前に膳を置いて、
こちらへどうぞと透子の手をとった。
座布団の上に座らされた透子は戸惑った。
「…私の、ですか?」
「他に誰が食うのだ。」
見えずとも分かる。
ほかほかと湯気が立っているご飯。
この匂いはお味噌汁。
焼き魚の匂いもする。
今までは障子越しに渡される
冷たいご飯しか食べたことがなかった。
冷たくて、固くて。
残飯のような食事。
ぽろりと涙がこぼれた。
泣きたい訳じゃないのに。
ぽろりぽろりとこぼれる涙を必死に拭った。
「…何故泣く。」
本気で分からないというような声だった。
いちが慌てて手拭いを渡した。
「ありがとう、ございます。
すみません。ただ、とてもあたたかくて。」
あたたかくて泣いたという女が
心底分からなかった。
だが涙で濡れたまつ毛が光るさまから、
どうしても目が逸らせなかった。
昨夜と同じように胸がざわつく。
いったい俺はどうしたというのだ。
わけも分からず頭をかいた。
「さあ、生者様。
冷めないうちに食べちゃって下さい。
私共、朝餉の支度など久しぶりで、
腕によりをかけて作らせていただきました!
おいしいですよ!
私、さっきちょっと食べちゃったので、
味は保証します!」
「食ったのか。」
咎めるように呟いた男に、
うっとバツが悪そうに目を逸らしたいちに、
またおかしくなって、
透子の涙は少しおさまった。
「いただきます。」
静かに手を合わせて、箸を持った。
慎重に器を持つ。
この匂い、お味噌汁だ。
そっと口をつけた。
「…おいしい。」
温かさと優しさが体に染み渡るようだった。
湯気の立つ白米を一口食べた。
「…とっても、おいしいです。」
男がほっと息をついたのが分かった。
「良かった!
みんな頑張って用意したんですよ!
後でみんなに教えてあげよ!
良かったですねー、主様。
朝餉を用意しろと言ったのは主様ですもんね!」
「うるさい!」
「さ、私はそろそろ失礼しますね!
生者様、ゆっくり食べててくださいね。
食べ終わったら膳はそのままで。
後で取りに来ますので!」
台風のように去っていったいちを見送ったあと、 透子は箸を置いて、深々と頭を下げた。
「…ありがとうございました。
こんな私に、良くしていただいて。」
胸のざわつきを感じながら、男は言った。
「礼を言われるようなことはしていない。
いいから、食べろ。」
「…ですが。
私は、黄泉守様の生贄です。
こんなに良くしていただいては…。」
「はぁ…。」
呆れたような声に、ビクッと肩が動いた。
「お前を食う予定はない。」
「え?」
思わず下げていた頭を上げて、男を見つめた。
男は真顔だった。
「お前たち人間は、
俺をいったい何だと思っているのだ。
人など食わぬわ。」
「…では、どうして私を、助けたのですか?」
すると男は黙ってしまった。
答えを探しているようだった。
長い沈黙のあと、男が静かに答えた。
「…分からぬ。
ただ…。」
射抜くように透子を見据えていた瞳が
すっと逸らされた。
「…ただ、お前をあそこへ放っておくことはできなかった。」
男の言葉を聞いて、透子はまた目頭が熱くなった。
いちに借りた手拭いでこぼれそうな涙を拭った。
「…優しいのですね。」
「…もう良いから、早く食ってしまえ。
あいつが膳を下げにくるぞ。」
ガシガシと頭をかいた男は、
視線を逸らしたままそう告げた。
「はいっ。
いただきます。あっ…」
「なんだ。」
「あの…。
私、目が見えないので。その、お魚が。」
茶碗を持つことはできても、
魚の身はほぐせない。
せっかく作ってくれたのに、
どうしようかと考えあぐねていると。
「貸せ。」
男はそう言って透子のそばへ座った。
透子の持つ箸を奪うと、魚の身をほぐし始めた。 魚は見えないが、彼の姿は見える透子は、
その指先から目が逸らせなかった。
器用に骨を取り除く指先。
とても大きな手が、驚くほど丁寧に動いていく。
ほぐした身を小鉢に移したあと、
ずいっと透子に差し出した。
「あ、ありがとうございます。」
「ん。」
今度は近くから女の表情を見てみた。
パクっと小さな口に、
先程自分がほぐした魚が入っていく。
妙な気分だった。
「おいしいです。」
少しほころんだように見えた女の顔を見て、
ほっとした。
「は?」
「え?」
「いや、何でもない…」
俺は今、安心したのか?
「ごちそうさまでした。」
時間はかかったが、
全て食べ終えた透子はほっと息をついた。
こんなにたくさん食べたのは初めてだった。
心も体も満たされた気分だった。
「わー! 全部食べてくれたんですね! 嬉しい!」
いつの間にかいちがいた。
驚いて声も出ない。
男は呆れていた。
いちが膳を片付けながら透子に笑顔を向ける。
「では次は、お庭でも見に行きますか?
ここのお庭はとっても広くて綺麗なんですよ!」
ちらっと男を見れば
「好きにしろ…」
と言われた。いちは喜んで、
「では、これを片付けてきますので、
その間にお着替えすませちゃってください!
さっ、主様!」
呼ばれた男は真顔でいちを見る。
やれやれと首を振ると
いちは手を叩いて主の退出を促した。
「主様がいては、生者様が着替えられませんよ!
ほら、出てく出てく。
それじゃ、また後で来ますね!」
静けさを取り戻した部屋で一人、
透子はそばに置かれた着物に触れた。
見えない透子にも、
この着物が上等なものだと分かった。
私にはもったいない。
そう思いながらも、
用意してくれたことに感謝しながら
その着物に袖を通した。
「ここのお庭は、かまいたちさんが手入れをしています。
かまいたちさーん!どこですかー?」
いちに連れられて来た透子は、
見えないなりに、その景色を楽しんでいた。
風がそよそよと透子の頬をかすめ、草木の匂いを連れてくる。
青く新鮮な空気が胸いっぱいに広がった。
「おーい、こっちだ!」
若い男の声が上の方から聞こえる。
「いたいた。あの人がかまいたちさんです。」
ビューっと強い風が吹いたかと思うと、
目の前に庭師の格好をした男が立っていた。
「おっ、この人が噂の生者様か。」
「こ、こんにちは。」
緊張しつつも挨拶をすれば、若い男はニカッと笑った。
「俺はかまいたちの涼ってんだ。
まっ、好きに呼んでくれ。
それで、おめぇの名前は?」
「あ。えっと。
透子と、言います。」
誰かに名乗るのは初めてで、
やはり緊張してしまい、
最後の方は声が小さくなってしまった。
隣で、はっと息を飲む声が聞こえて、
ついそちらを向く。
いちが目を見開いていた。
「あー!なんてこと!
私としたことが、
生者様のお名前をまだ聞いてませんでした!
とても良いお名前ですね!
これからは透子様とお呼びしますね!
私のことはいちとお呼びください!」
勢いに押されながらも、いちと呼び捨てるのははばかられたので、
「では、いちさんと呼ばせてください。」
「はい!人に呼ばれるのは初めてです!
なんだか胸がぽかぽかしますね!」
嬉しそうに言ういちに、透子もつられて微笑んだ。
そんな彼女たちの姿を遠くから男は眺めていた。
あいつ、透子というのか。
かまいたちの涼さんと別れ、
広い庭をいちと歩く。
すると、どこからか、
水の流れる音が聞こえてきた。
「水の音…」
「ここには池がありますよ。こっちです!」
手を引かれてついて行くと、水の匂いがした。
「綺麗でしょ?
ここの鯉は太ってて、
とっても美味しそうなんですが、
主様に食べてはダメだと言われています。」
少し残念そうないちにくすりと笑みがこぼれた。
「とっても、綺麗なんでしょうね。
見えないのが残念です。」
「え?」
「どうしましたか? いちさん。」
「あの、透子様は目が、見えていないのですか?」
驚いて目を見開いたいちに、
透子は何でもないように答えた。
「はい。
小さい頃は見えていたようなんですが、
ある日をさかいに見えなくなってしまって。
覚えてはいないのですが。」
「そうだったのですね。
どうりで、
透子様、音で歩いておられたのですね。
私、全く気づきませんでした。
お食事も綺麗に食べられてましたし、
お着物も綺麗に着られていますし!」
透子様はすごい!と手を打って褒めてくれたいちに、透子は照れた。
「着物は慣れで。
でも、食事のほうは、黄泉守様がお魚をほぐしてくれて。とても助かりました。」
「主様が!?」
いちはさらに大きな目をまん丸にして、
驚いていた。
「黄泉守様は、お優しい方なのですね。」
するといちは、首をブンブン振って否定した。
「いえいえ。
きっとそれは、相手が貴女だからと言いますか…」
「え?」
「あ、いやいや。違うのです。
主様はああ見えて、大変お優しいお方です。
私もよく冷たい目で見られがちですが、
なんだかんだ皆に優しいです。
だから、透子様にも優しくされるのは、
不思議ではないのですが…」
言い淀むいちに不安になった。
「…変、でしょうか。」
「いいえ!
むしろとんでもなく貴重!
めったに見られない主様が見られて、
私は嬉しいです。
透子様が来てくれたおかげですね!」
ありがとうございます! 透子様!
と、いちは透子の両手を取ってブンブンと
強く振る。
なんとも力強い握手に押されて後ずさる。
ズルッと草履が滑るのを感じた。
落ちる!
このままではいちさんも!
透子は咄嗟にいちを突き飛ばした。
そして自分は池に落ちる覚悟を決め、
強く目を瞑った。
その瞬間、力強い誰かの腕に引き寄せられた。
ハッとして振り返ると、
初めて焦った男の顔を見た。
透子の胸がどきりとなった。
男は透子を抱き寄せたまま、低く言った。
「何故、自分が落ちる方を選ぶ。」
男は静かに怒っていた。
でも透子には何故怒っているのか分からない。
それでも怒らせてしまった焦りから
すぐに謝った。
「…すみません。」
「…謝るな。俺は、何故かと聞いている。」
「それは…。分かりません。
ただ、いちさんも落ちてしまうと思って、
とっさに…」
はぁと深いため息をついた男は、
いまだに尻もちをついているいちを見やる。
「いち!」
「は、はい!」
「気をつけよ。」
静かに叱られるいち。
今回は自分の不注意で
透子を危険にさらしてしまったと、
いちは反省した。
「はい。申し訳ありません。
透子様も、怖い思いをさせました。」
しょんぼり肩を落とすいちに、透子は慌てた。
「いえ! 私は大丈夫です。
あの、いちさん。ありがとうございました。
お庭を案内してくれて。
目が見えない私を、気遣ってくれて。
嬉しかったです。
こんなに嬉しいのは生まれて初めてです!」
そう言って笑顔を見せると、
いちは一気に表情が明るくなった。
そんないちの表情に透子も自然と口角が上がった。
「このお屋敷がすごいのはお庭だけじゃないですよ!
それでは私は仕事にもどります!
あとは主様にお任せします。
いっぱい案内してもらって下さい!」
それじゃ!と走って行ってしまった。
「おい! 俺は案内するとは言ってないぞ!」
いちの後ろ姿にそう叫ぶと、
ピタリと動きを止めたいちは勢いよく振り返った。
「それより主様。
いつまでそうしてるおつもりで?
透子様が可愛いのは分かりますが…」
遠くからでも分かるにやけ顔で
いちがそう言うと、
男はハッとして透子から離れた。
男に支えられていた透子は少しよろける。
男はとっさに透子の腕を掴んだ。
その様子にいちはまたにやけた。
「透子様のこと、よろしくお願いしますねー。」
二人だけになり、なんだか気まずい。
腕を掴んだまま、男は尋ねた。
「…歩けるか?」
「はい…」
透子は小さく頷いた。
「あの。」
「なんだ。」
「その、手を。
つないで、いただけますか?
まだ、少し。怖くて。」
数秒、男は固まった。
男は、またあの胸のざわつきを感じていた。
そしてはたと気づく。
「おまえ、俺に触れられて平気なのか?」
質問の意味が分からず、
透子はキョトンと小首をかしげた。
「…?
何故、そのようなことを聞かれるのですか?」
「…人は、俺に触れられない。
人は死を恐れる。死の気配が強い俺に、
人間は耐えられない。
故に、お前は平気なのかと聞いたのだ。」
物憂げに揺れる男の瞳に、
透子は胸が締め付けられた。
「…冷たいとは、思います。
ですが、怖いとは思いません。」
「…そうか。」
男は静かにそう言うと、透子の手をそっと握った。
ひんやりとする男の手に、
透子はむしろ安心した。
初めて触れた人間の女の手は、小さく、
柔らかかった。
恐れもせず、逃げもしない。
初めて人に受け入れられたことに、
男は胸が熱くなった。
三話 死神と朝餉 [完]




