二話 死神の住処
……雨の音がする。
遠く、静かに。
一定のリズムで屋根を叩く音だけが、
暗闇の中に響いていた。
透子はゆっくりと目を開ける。
――違う。
すぐに気づいた。
さっきまでいた山の社ではない。
ああ、そうだ。
あの後、私は雨に打たれたせいなのか、
緊張の糸が切れたのか、気を失ってしまって。
冷え切っていた身体の下には
柔らかな敷布団があり、
指先には清潔な布の感触があった。
鼻先をくすぐるのは、淡い香の香り。
どこか落ち着く匂いだった。
恐る恐る身じろぎすると、
着物が擦れる音が静かな部屋に広がる。
「……起きたか」
低い声。
透子の肩がびくりと震えた。
部屋の奥。
そこに、あの男がいた。
闇に溶け込むような黒衣。
長い黒髪。
窓際に座る姿は、
人というより夜そのもののようだった。
雨に濡れた庭を背にして、
金色の瞳だけが静かに透子を見つめている。
逃げなければ。
本能はそう告げる。
なのに身体は動かなかった。
怖くないわけではない。
けれど――。
あの寂しそうな瞳が、あの辛そうな顔が、
頭から離れなかった。
「……ここは。」
掠れた声で尋ねると、男は短く答える。
「俺の屋敷だ。」
それだけ言って、再び沈黙が落ちた。
透子は戸惑う。
普通なら、もっと何か聞くべきなのだろう。
どうして自分を連れてきたのか。
何故助けたのか。
自分はこれからどうなるのか。
けれど。
男の纏う空気があまりにも静かで、冷たくて。
何も聞く気になれなかった。
まるで長い年月、
誰とも言葉を交わしてこなかったように
見えてしまったのだ。
その時。
ことり、と小さな音がした。
透子のすぐ傍に、湯気の立つ湯呑みが置かれる。
「飲め。」
透子は目を瞬かせた。
「……え?」
「人間は身体を冷やすと死ぬらしい。」
真顔だった。
本気で言っているらしい。
透子は思わず呆気に取られた。
死神なのに。
そんなことを言うなんて。
男は怪訝そうに眉を寄せた。
「何だ。」
「い、いえ……」
透子は小さく俯く。
人として扱われるなんて。
それも人ではなく、死神に。
そして次の瞬間。
くすり、と笑ってしまった。
その瞬間だった。
男の動きが止まる。
金色の瞳が、静かに見開かれた。
――笑った。
この娘は今、自分を見て笑ったのか。
恐怖でもなく。
怯えでもなく。
まるで、普通の人間に向けるみたいに。
男は初めて知る。
胸の奥が、妙に騒がしいことを。
「いただきます。」
湯呑みを持つ指先の冷たさに気が付き、
体がいかに冷え切っていたのか
自分でも少し驚いた。
一口飲み、ほっと息をついた。
温かい。
「ありがとうございます。
とても、美味しいです。」
自然と笑みがこぼれた。
男は一瞬目を見開いたかと思うと、
すぐにまた真顔になり、
ただ黙って透子を見つめていた。
何なんだ。この胸のざわつきは。
男は混乱していた。
笑顔で礼を言う女から、何故か目を逸らせない。
……気まぐれだ。
こいつを連れてきたのは、ただそれだけ。
自分を見ることのできる人間など、
初めてだったから。
スパーン!と勢いよく襖が開き、
男はまたか、と呆れながら視線を向けた。
透子は驚き、胸に手を当てて
同じく襖を開けた誰かを見ていた。
「主様!
生者様のお着替えを持ってまいりました!
って、あ!
もう目覚められたのですね!
いやー、良かった良かった!
しかし、
主様でもあんなに慌てることがあるのですね!」
「う、うるさい。
お前は何回言えば分かるんだ。
扉は静かに開けろ。
ほらさっさと行け。」
男が淡々とそう言う間に
透子のそばまで来たその女は、
やれやれといった感じで腰に手をやり
こう続けた。
「出て行くのは主様のほうです。
さっ、ほら行った行った!」
男はあっという間に部屋の外へ追い出された。
「生者様。私、座敷童子のいちと申します。
以後お見知り置きを。
この屋敷に長く勤めておりますが、
生きた方がこられるのは何百年ぶりでして、
私、興奮しております!
お加減はいかがですか?
どこか痛いとことかございませんか?
あ、お腹空いてません?
私共別に食べなくても死にはしませんが、
主様はいつも土産にと甘いものをくださるのです。
今日もたくさん団子をくださいまして、
後で持ってきますね。それから」
「あ、あの!」
「はい! どうされました?生者様。」
透子が止めなければ永遠に喋っていたのではないだろうか、この女。もとい座敷童子。
勢いに押されつつも、透子は彼女の話をさえぎった。
「ここはいったいどこなのでしょうか。
あの人は自分の屋敷だと。
私、山の社に連れていかれて。
それで、いつの間にか気を失ったようで。」
「ここは、あのお社からさらに山奥にあります、
主様のお屋敷にございます。
普段、私共が呼ばれることは滅多にないのでが、 ふふっ。」
その時のことを思い出したのか、
いちはクスクスと笑っていた。
「あ! すいません!
あんなに慌てた主様を見るのは初めてでしたので、つい。
早く屋敷に運べと言われまして、
私と、あと何人かの者たちで
こちらへ運ばせていただきました!
さっ、もうこんな夜更けですし、
生者様もお疲れでしょう。
まずは湯に入られますか?
それともお食事にいたしましょうか?
あ、団子持ってきますね!
こちらに運んだ時に、
お召し物がもう雨でぐっちゃぐちゃだったので、 私が勝手に着替えさせていただきました。
こちらが明日のお着替えです。
こちらに置いておきますね。それから」
「あ、あの!
食事は結構です。あの、お気持ちだけで。
ありがとう、ございます。」
こんなに誰かに気遣われるのは初めての透子は、困惑した。
「そうですか…
では、お飲み物だけでも持ってきましょうかね。
あれ?」
透子のそばにある湯呑みを見て、
目をぱちぱちさせたいち。
「え?
これ、もしかして主様が?」
「はい。
人は体を冷やせば死んでしまうとおっしゃって。
とても、あたたかくて。
嬉しかったです…」
「ふふっ。そうですか。あの主様が。
でももう冷めてしまいましたね。
新しいのをお持ちします!
では、失礼します!」
そう言うと、
止める間もなくいちはあっという間に
部屋を後にした。
いちが部屋を出ると、
そこにはまだ自分の主人がいた。
なんとも言えない顔をしている。
ああ、なんともどかしい。
いちは気づいてしまいましたよ、主様。
「主様、お茶なんて淹れられたんですねぇ。」
「…黙れ。」
「嬉しかったです、だそうですよ?
良かったですね、主様。」
「うるさい。
何だその顔は。」
ニヤけるいちを見て、
嫌そうに顔を歪める主人に、
いちはいやいや何でもありませんと、
他に小言を言われる前に
その場から逃げたのだった。
いちが去って、廊下に静けさが戻った。
「どうしてあいつは、
いつもあんなに騒がしいんだ。」
若干呆れつつも、
まだ胸の中が妙にざわついていた。
『嬉しかったです…』
女の声が離れなかった。
いちが部屋を出たあと、
透子は自分の状況を整理し始めた。
村の人たちにあの社に連れて行かれて、
私は黄泉守様の生贄となった。
だけどそこで、あの人に会って。
気絶したところを助けてもらった。
「この先、どうなるんだろう。」
あの人は死神。
私は死んでしまうのかな。
でも…
人間は身体を冷やすと死ぬらしい--。
あの人は、私を気遣ってくれた。
その時のことを思い出した透子は、
胸に手を当てた。
なんだか、あたたかい。
こんなの初めて。
はぁとため息がこぼれ、
透子は布団へ倒れ込んだ。
今日はとっても疲れた。
少しだけ、と目を閉じた。
雨音はまだ止まない。
シトシトと振る雨が、何を連れてきたのか。
この日から、
自分の運命が大きく動き始めたことを、
透子はまだ知らない。
二話 死神の住処 [完]




