第一章 一話 雨夜の生贄
雨の音が、ずっと聞こえていた。
屋根を叩く音。
地を濡らす音。
まるで村そのものが、
静かに沈んでいくような冷たい雨だった。
薄暗い座敷の隅で、少女は膝を抱えていた。
「……また、死んだそうよ。」
障子の向こうで、女たちの声がする。
「これで七人目だって。」
「気味が悪い……」
「あの娘が来てからだろう?」
少女――透子は、ぎゅっと指先を握りしめた。
聞こえないふりには、もう慣れている。
“死を呼ぶ娘”。
それが、村での透子の呼び名だった。
いつからだったか、
幼い頃から目が見えず、
光だけが朧気に感じる程度の透子は、
その代わりに“見えてしまう”ものがあった。
夜ごと、死人の声が聞こえる。
誰もいないはずの廊下を、濡れた足音が歩く。
そして時々――黒い影が、人の死を連れてくる。
村人たちは、それを恐れた。
だから透子は、この離れに閉じ込められて育った。
家族でさえ、まともに顔を見せない。
食事を運ぶ時ですら、障子越しだ。
『お前のせいで、村が穢れる。』
父の声を、透子は思い出す。
幼い頃、一度だけ抱きしめてほしくて、袖を掴んだことがあった。
だが返ってきたのは、冷たい拒絶だった。
『触るな。』
その言葉だけは、
今でも胸に棘のように残っている。
ぽつり、と。
雨音に混じって、誰かの声がした。
『……寒い。』
透子は顔を上げる。
部屋の隅に、誰かがいる。
女だった。
濡れた髪。
青白い顔。
水を滴らせながら、じっと透子を見つめている。
――死者だ。
透子は静かに目を伏せた。
「外へ行けないの?」
『帰れないの。』
女の声は、泣いているようだった。
『わたし、まだ……子どもが……』
透子は胸が痛んだ。
死者は怖くない。
怖いのは、いつだって生きている人間のほうだ。
その時だった。
廊下を踏みしめる音が響いた。
乱暴な足音。
障子が勢いよく開かれる。
「透子!」
母の声だった。
ひどく怯えている。
「村長様がお呼びだよ……!」
その声の震えで、透子は悟った。
――ああ。
とうとう来たのだ。
自分が“捨てられる日”が。
村長の屋敷は、ひどく騒がしかった。
普段は静かな村人たちが、
今夜ばかりは怯えた声で何かを囁き合っている。
透子は母に腕を引かれながら、
その空気を感じ取っていた。
咳の音。
泣く子どもの声。
漂う薬草の匂い。
疫病。
それが村を蝕んでいた。
「……あの娘だ。」
「死を招いたんだ。」
「山へ返さなければ。」
隠す気もない悪意が、突き刺さる。
透子は俯いたまま、何も言わなかった。
これは疫病。私のせいじゃない。
私は何もしていない。今までだってそうだ。
ただ、死者が見える。それだけなのに。
言い返したところで、誰も信じない。
村長は低い声で言った。
「今宵、“黄泉守様”へ娘を捧げる。」
空気が震えた。
村人たちが一斉に頭を下げる。
黄泉守。
死を司る神。
山の奥深くに棲む“死神”。
百年に一度、
死が溢れる年にだけ現れると言われている。
透子は小さく息を呑んだ。
――知っている。
その気配を。
幼い頃からずっと。
夜の闇の中で感じていた、冷たい視線。
「この娘を差し出せば、災いは去る。」
村長の言葉に、誰も逆らわない。
透子の母でさえ。
「……ごめんなさい。」
震える声がした。
けれど、その手は透子を庇わなかった。
縄が腕に巻かれる。
まるで罪人だった。
外へ出ると、激しい雨が降っていた。
冷たい雫が頬を打つ。
村人たちは提灯を持ち、透子を山へ連れて行く。
ぬかるんだ山道。
土の匂い。
風に混じる、妙な冷気。
透子だけが気づいていた。
――いる。
暗闇の奥に。
それは、人ではない。
山の空気そのものが、息を潜めているようだった。
やがて一行は、古びた社の前で止まる。
誰かが透子の背を押した。
「行け。」
乱暴な声。
透子はよろめきながら、社の中へ入る。
その瞬間。
ぴたり、と雨音が遠のいた。
異様な静寂。
ぞくりと背筋が粟立つ。
……いる。
すぐ近くに。
冷たい気配が、透子の頬を撫でた。
村人たちはもう逃げ出していた。
彼らの足音が遠のき、
透子は一人、闇の中に取り残される。
怖い。
怖いはずなのに――。
不思議と、涙は出なかった。
「……お前。」
低い声が響いた。
男の声だった。
その瞬間、空気が変わる。
重く、冷たく、息が詰まるほど濃い死の気配。
透子は震える指を握りしめた。
暗闇の中。
誰かが、目の前に立っている。
見えないはずなのに。
透子には、その姿だけがはっきり見えた。
黒く長い髪。
夜より深い黒衣。
そして――金色の瞳。
人ではない。
本能で分かる。
なのに、どうしてだろう。
その瞳は、ひどく寂しそうだった。
男がゆっくりと透子へ手を伸ばす。
白く冷たい指先。
だが触れる寸前で、ぴたりと止まった。
まるで何かを恐れているように。
「……何故だ。」
掠れた声だった。
「お前、俺が見えているのか?」
透子は唇を震わせる。
怖い。
けれど――。
「どうして、そんなに、お辛そうにしているのですか?」
次の瞬間。
男の瞳が、初めて揺れた。
一話 雨夜の生贄 [完]




