六話 地獄へ
門の先に広がるのは、
現世とはまた違った静寂だった。
冷たい霧が足元を這う。
灰色の世界。
男は迷うことなく歩みを進める。
次第に灰色に赤が差す。
彼岸花だ。
風はないのに、その花は揺れている。
遠くの方から亡者たちの声が聞こえた。
泣き声にも、笑い声にも聞こえる。
男の表情は固く、歩く足は早い。
一刻も早く、確かめねば。
男は焦っていた。
獄卒たちが騒いでいた。
「死神がここまで来るとは、どういうことだ?」
「閻魔様に謁見したいと。」
「正式な手続きもなしでか?」
「こちらは亡者の裁きで
常に忙しいと言うのに……」
「現世で何かあったのか?」
口々に騒ぎ出す獄卒を静めるために、
閻魔大王はパン!とひとつ手を叩いた。
「静粛に。
して、死神が会いに来たのか。
通しなさい。」
「しかし、閻魔様。
亡者の裁きが滞ってしまいます。
正式な手順を踏んでもらわなければ……」
「よい。
あの死神が、規則を破ってまで来たのだ。
現世で何かがあったのは明白。
早く通せ。」
「御意……」
獄卒は急いで別の獄卒に、
死神を連れてくるように指示した。
死神は獄卒の案内で、
閻魔大王の前までやってきた。
獄卒たちが道を開ける。
視線が死神に集まっていた。
それもそうだろう。
死神がここまで来ることはほとんどないのだから。
男は少しほっとしていた。
ここで帰されては、元も子もないからだ。
玉座に座る閻魔大王は、
それはそれは大きな男だ。
身の丈は八尺ほどといったところか。
そんな大男が、静かに死神を見下ろしていた。
「……何があった。」
広間に響くその低い声は、重い。
男はすぐに本題に入った。時間が惜しかった。
「……土蜘蛛が、現れました。」
閻魔は眉間に皺を寄せた。
獄卒たちがざわつく。
「そんなはずはない。
確かに奴は地獄へ送った。
今もなお、責め苦を受けているぞ。
見間違えではないのか?」
閻魔の言葉に男は即座に返答した。
「間違えるはずなどございません!
確かにあいつだった。
俺が殺したのです。
あの気配を、間違うはずがない!
これがその証拠です。」
そう言うと、
男は懐からあの窓辺にかかっていた一本の糸を
閻魔大王に差し出した。
一本の細い糸。
それを見た瞬間、閻魔は驚きで目を見開いた。
「……確かに。
奴の糸だ。
しかし、何故そのようなものが……」
わずかだが、その糸からは確かに
土蜘蛛の妖気が感じられた。
「……あいつに、会わせて下さい。」
獄卒たちは息を飲んだ。
地獄の罪人は、
許されるまで地獄から出ることはできない。
死神もまた、ここから先には行けない決まりだ。
行けるのは、自分もまた死んだ時だけ。
死神は魂を黄泉に送るのが役目であり、
それ以上でもそれ以下でもない存在。
それを分かった上で、
男は閻魔にそう願ったのだ。
しかし、地獄にいるはずの土蜘蛛が、
何故か現世にもいるのもまた事実。
一刻も早く真相をつきとめねばならない。
「……分かった。許可しよう。」
「閻魔様!
しかしそれは、規則違反です!」
近くの獄卒が意見したが、
閻魔は片手を上げてそれを制した。
「ただし、条件がある。
お前一人では行かせられぬゆえ、
獄卒を一人連れていくこと。
決して離れてはならぬ。
そして、夜明けまでに戻ること。
これが条件だ。」
「感謝致します。閻魔様。」
死神は深々と頭を下げた。
「必ず戻るのだ、死神よ。」
「お呼びでしょうか、閻魔大王。」
低い声と共に、一人の獄卒が死神の隣へ立った。
白髪混じりの髪を後ろに束ねた男は、
目元に深い傷があった。
しかしその眼光は鋭く、歴戦の猛者のようだ。
長く地獄を見てきたのであろう。
この男、只者ではない……
そこに居るだけで凄みがあった。
「……玄道。
死神を土蜘蛛のところまで案内しろ。」
「御意。
……着いてまいれ、死神殿。」
地獄の門は固く閉ざされていた。
その門が今、ゆっくりと開き始める。
錆び付いたような重い音が響く。
門の隙間から熱気が漏れだし、
死神は眉間に皺を寄せた。
熱気だけではない。
焦げた臭いがする。そして、血の臭いも。
門に踏み込む前。
玄道は死神を厳しい目つきで見据えた。
「これより先は地獄。
罪人共の怨念が渦巻く場所だ。
決して私から離れぬように。」
「……承知した。玄道殿。」
「玄道様!
こちらを。」
「ん。
では、参ろう。」
門番のひとりが玄道に鉄の棍棒を渡す。
玄道はそれを受け取ると、
軽々とそれを肩に担いで、門をくぐった。
後に続いて地獄に入った瞬間、
亡者たちの悲鳴が死神を襲った。
思わず耳を塞ぎたくなるような悲鳴。
泣き喚くその声たちは、聞くにたえない。
熱風で肌が焼けそうだ。
しかしなんだこの悲鳴は。
まとわりついてくるようで、気分が悪い。
目の前を歩く男は、平然としている。
死神は亡者たちの怨念を振り払うかのように
首を振った。
「亡者共の怨念だ。
あまり耳をかたむけるな。
心が持っていかれる。
気をつけよ。」
もう一度首を振った死神は、
玄道の背中に話しかけた。
「玄道殿は、平気なのか?」
ちらっと振り返った男は、
また踵を戻して死神に答えた。
「我ら獄卒は慣れている。」
正直、こんなところに慣れたくはないな
と死神は思った。
目の前の男はフッと笑った。
「最初は吐いたがな。」
「そうか……
厳しい仕事だな。」
「死神殿でもきついと見える。
もって、夜明けまでといったところか……」
「そうか……
だから閻魔様は時間を制限したのだな。」
気分の悪さについ口元を手で隠した。
「ああ。
……そうだな。楽しいことでも考えると良い。
意識を亡者に向けなければ少しは楽になるだろう。」
楽しいこと。
死神はふと、透子のことを考えた。
透子の笑顔。
透子が自分を呼ぶ声。
それがふと頭に過ぎる。
「黄泉守様!」
至るところから聞こえていた悲鳴が、
一瞬消えた。
透子の声がはっきりと聞こえたのだ。
死神はハッとする。
しかしそれはほんの一瞬。
またすぐに
亡者たちの苦しむ声がその場を支配していた。
「ほう……
その女が死神殿の寄りどころか。」
死神は驚き、立ち止まった。
数歩先で、男も止まる。
「……俺は、何も言ってはいない。
何故、透子を知っている。」
「私は、サトリだ。」
「サトリ……
それは、妖ではないのか。」
死神はやや警戒する。
「いや、半分だがな。
私の母がサトリなのだ。
故に時おり聞こえることがある。
勝手に聞いてしまった。
すまない。」
少し申し訳なさそうにする玄道に、
死神は頭をかいた。
「いや、それならば致し方ない。」
仕方ないとは言え、
自分が透子を思っていたのを知られたのは、
いささか恥ずかしい。
また二人は誰ともなく歩き出した。
「……心を寄せれる相手がいるのは良いことだ。」
「……ああ。そうだな。」
「どうだ?少しは楽になったか?」
亡者たちの悲鳴は止まないが、
あの気持ち悪さは軽くなっていた。
「ああ。だいぶマシだ。」
「その女子に感謝だな。」
徐々に霧が濃くなってきた。
それに呼応するように、妖気も濃くなっていた。
あいつだ……
「そろそろだ。もう、じきに着く……」
あいつは、いったいどんな地獄に堕とされたのだろうか。
死神は
土蜘蛛が地獄に送られたことは知っていても、
その先のことを何も知らなかった。
自分は送るだけだからだ。
「着いたぞ……」
「ここが……」
厳重に閉じられた門。
屈強な獄卒たちがその門を守っている。
土蜘蛛が逃げないように、厳重に……
「ここは、通常の地獄ではない。
それほど奴の罪は複雑で、重い……」
死神は黙って、目を閉じた。
あいつの罪は重い。
しかし、それはあいつだけの罪なのか?
あの時俺が……
「余計なことは考えるな……
同情は無用だ。」
「……ああ。分かっている。」
玄道に心を読まれたようだ。
嫌な気はしなかった。
むしろ救われた。
ここで気をしっかり持たなければ、
飲み込まれる。
「開けろ……」
玄道が門番にそう告げると、
獄卒たちは力強く頷く。
「開門!」
門番の号令を合図に、
門は重々しい音を響かせ、その口を開いた。
死神は覚悟を決めて、門をくぐった。
瞬間、音が一切消える。
異常なほどの静寂。
腹の底から体が冷える感覚。
「ここから、さらに下へ行く。
まずは、叫喚地獄だ……」
螺旋状の階段を降りていく。
「……私は、奴を見たことがある。」
「……何か、言っていたか。」
「いや。
……ただ、聞こえてきた。
奴は、異質だ。
あんなことをしでかしたというのに、
奴の心は善人のようだった。」
玄道は少し黙ると、違うなと言い直す。
「……善人のように、見えるの間違いだ。
奴の理性は正常だ。
正常ゆえに、異質だ。
しかし、少し腑に落ちない。」
「……どういうことだ。」
「善人と言えど、
どんな者にも悪の部分は存在する。
妖も人も動物も、心があるからな。
羨んだり、妬んだりするはずだ。
だが奴には、それがなかった。」
あいつはそんな奴だったのだろうか。
死神は昔の、
同胞だと思っていた頃の土蜘蛛を思い出していた。
あいつは、笑ったり、怒ったり、
俺の横でうるさい奴だった。
「ここだ……」
あーーーーー!!!!!!!!
静寂が終わる。
六話 地獄へ [完]




