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第7話 氷に宿る火種

 夜の皇宮。

 執務室には静寂が満ち、積み上げられた書類の山も、行き交う部下たちの足音も、今は遠い。

 蝋燭の炎だけが規則正しく揺れ、石床に長い影を伸ばしていた。


 レオンハルトは椅子に深く身を沈め、静かに目を閉じる。

 瞼の裏に蘇るのは、朝の訓練場――砂を蹴り、剣を構えた少女の姿だった。


 エリナ。ヴァルトハイム辺境伯の娘。

 神に愛された皇子とまで称された自分に、初めて「敗北」を与えた存在。


 小柄な身体で退かず、怯まず、真っ直ぐに剣を振るう姿。

 あの時、確かに自分は退屈ではなかった。

 むしろ――初めて息をすることさえ忘れるほどに胸を熱くした。


 そして、その後の言葉。

「お優しいのですね」と彼女は言った。

 帝国の誰もが「冷徹」と呼び、近づこうとしなかった自分に。


 ――優しい。


 その一言は、剣戟より鋭く胸に突き刺さった。

 思い返すだけで心臓が速まり、呼吸が乱れる。

 敗北の悔しさではない。戦いの昂ぶりでもない。

 もっと曖昧で、掴みどころのないざわめきだった。


(……なぜ、こんなにも揺らぐ)


 レオンハルトは唇を固く結び、額に手を当てる。

 胸の奥を焼くのは、名を与えられぬ感情。

 それを認めてしまえば、自分の生き方そのものが変わってしまう気がした。


 明日、武功祭の舞踏会で――彼は初めて、誰かをエスコートする。

 それだけで帝国中が騒ぎ立てるだろう。

 辺境の娘が第二皇子の隣に並ぶ。貴族も大臣も、公爵家も黙ってはいまい。


 予想はついている。

 嘲り、嫉妬、排斥、陰口。

 そのすべてが、彼女に浴びせられる。


「……エリナ」


 低く名を呼んだ声は、独り言のように室内に溶けた。

 だが続く言葉は喉の奥で途切れる。

 

 ――君を、守りたい。

 そう、言い切ることがどうしてもできなかった。


 それは、彼女を自分の庇護のもとに抱え込むということ。

 誰にも肩入れせず、“完全”を課されてきた自分が、初めて一人を選ぶということ。


 しかも彼女は己の足で立ち、自らの意思で道を選び取る強さを宿している。

 そんな相手に「守る」と告げれば、そこには必ず――彼女を自分のものにしたいという影が差す。

 その影を認めることは、彼にとって耐え難い葛藤であり、同時に不安でもあった。


 ――もし認めた瞬間、欲は弱みとなる。

 弱みは狙われ、奪われる。

 彼女を失う可能性を思えば、どんな戦場よりも鋭い痛みが胸を抉った。


 だから言えない。

 言葉にすれば、自分はもう後戻りできなくなるから。


 それでも――否応なく胸の奥に芽生えてしまったものがある。

 彼女を守りたいと認められないまま、それでも確かに、初めて「誰かを求める」という欲が自分の内に生まれていた。


 苛立ちもあった。

 なぜ自分が、一人の娘にここまで心を乱されるのか。

 これまで誰にも心を寄せず、一人で歩むことを選んできた自分が、答えのない問いに囚われている。

 その事実がどうしようもなく不快で、苛烈に胸を焼いた。


(なぜ、君なのだ)


 問いは答えを得ぬまま胸に沈み、炎と氷がせめぎ合う。

 氷の皇子と呼ばれた男が、ただ一人の瞳で揺らぐなどあってはならないはずだった。


 だが――。

 ひとつの確信がある。


 ――明日、また会える。


 その思いだけが、夜の静けさの中で彼を支えていた。

 蝋燭の炎が揺れるたび、胸の奥で小さな炎が呼応する。

 それはまだ頼りなく揺れる灯火。

 ひとたび燃え広がれば、彼の世界を根底から塗り替えてしまうだろう。


 だが、胸の奥では――確かに火種が燻り始めていた。

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