第5話 辺境の娘、揺れる心
――その頃、エリナは辺境伯家のタウンハウスに戻っていた。
帝都の街は午後の陽光を受けて白く輝き、石畳の上に人々の影がまだ短く伸びている。
果物を積んだ荷馬車の車輪が軋み、商人たちの呼び声が風に乗って響いてくる。
遠く、訓練場での砂の匂いが、まだ袖に残っているような気がした。
タウンハウスの玄関に入ると、家人たちの視線が一斉に集まった。
いつもは淡々とした応対をする執事や侍女たちの目に、今はどこか生ぬるい熱を帯びた光が宿っている。
「殿下が……武功祭でエスコートを?」
王都で仕えている家令が驚きの声を上げ、慌ただしく書状を手に取った。
「これは辺境伯閣下にも報告せねば……急ぎの伝令を手配いたします」
「そんなに大袈裟なことではないのよ」
エリナは苦笑し、軽く手を振ったが、胸の奥がざわめいていた。
皆が湧き立つ気持ちが、自分の心の奥のものと呼応しているのを、自覚してしまう。
◇
彼女が大会に出場することになったのは、もともと三番目の兄ユリアンの代わりだった。
辺境では今、越冬に備えて活動を活発化させた魔獣が例年になく多く、父や兄たちはその対応に追われていた。
ユリアンも本来は武道大会に出場する予定だったが、急な討伐任務に就くことになった。
エリナは、いつもなら自らも戦力として北壁に立ち、魔獣を討っている。
だが今回は、父と兄たちが口を揃えて言った。
「たまには帝都で買い物をしたり、美味しいものを食べたり、女の子らしいことをしておいで」
その笑顔には、過酷な生活の中で娘にだけは少しでも温かな時間を与えたいという思いが滲んでいた。
エリナは胸の奥に熱いものを抱き、頷いた。
――けれど帝都に来た以上、ただ遊ぶだけではいけない。
辺境伯家の名を汚さぬために、恥ずかしくない成績を収めなければ。
その決意だけを胸に、彼女は剣を握ったのだった。
まさか、あの第二皇子を破ることができるなんて――夢にも思わなかった。
◇
自室に戻ると、窓辺に薄いカーテンが揺れていた。
午後の光が柔らかく差し込み、木の床が淡く光を返している。
鎧を脱いで椅子に掛け、髪を解く。
編み込んでいた紐がほどけ、胸元に滑り落ちた。
目を閉じると、今朝の光景がよみがえる。
黄金の髪、蒼金の瞳――氷の皇子と呼ばれる男の、あまりに整いすぎた美貌。
冷徹な剣筋の奥に、ひとひらの優しさが覗いた瞬間。
その優しい瞳に自分が捕らえられ、からめとられそうになった感覚。
あの時、剣を構えていなければ足がすくんでいたかもしれない。
(信じられない……殿下が、あんな瞳を……)
胸の奥に温かな脈動が広がり、どうしようもなく心を揺らしていた。
あの微笑み。
戦場でも宮廷でも決して見せないと聞く表情を、自分にだけ向けてくれた。
あのときの彼の声の柔らかさ、視線の真っ直ぐさ――思い出すだけで頬が熱を帯びる。
冷徹と噂される皇子の中に、あんなに人らしい温もりが隠されていたのか。
その温もりを自分だけが知ってしまったのだと思うと、甘やかな誇らしさが胸を満たす。
けれど、戸惑いも大きかった。
たった二度、剣を合わせただけなのに――なぜ、こんなにも惹かれてしまうのだろう。
戦いの緊張よりも、彼の一瞬の微笑みに心が乱される。
自分でも説明できない感情が、静かに、けれど確かに芽吹いていた。
◇
家人たちはすでに武功祭の準備に張り切っていた。
侍女たちは「殿下がエスコートなさるなら」と、髪飾りやドレスの仕立て直しに取りかかっている。
タウンハウス全体がまるで祭のような浮き立つ空気に包まれていた。
「殿下の前に出るのに、粗末な服ではいけませんわ」
「いや、派手すぎても辺境伯家らしくない」
「殿下は氷の皇子。清楚がよろしい」
エリナはその声を聞くたび、胸がくすぐったくなるような、同時に居心地の悪いような感覚に襲われた。
「そんなに気負わないで」
彼女はそう言って笑ったが、頬に自然と柔らかな色が灯るのを自覚してしまう。
心のどこかで、明日が待ち遠しいと願っている自分がいる。
けれど同時に、恐れもあった。
身分の違い。広がる噂。
明日の武功祭で隣に並べば、さらに多くの視線に晒されるだろう。
憧れにも似たこの感情が、やがて自分を傷つけるのではないか――そんな不安が影のように寄り添う。
彼女は窓辺に立ち、午後の街を見下ろした。
広場からは子どもたちの笑い声が響き、商人が荷を下ろし、日常のざわめきが流れていく。
それらの音に紛れ、胸の奥の鼓動だけが、ひときわ強く響いていた。
(私は、踏み込んではならないのではないか……)
唇を噛む。
けれど、心はどうしようもなく彼に惹かれていた。
凍りついたような彼の瞳が、ほんの一瞬でも自分を見て揺らぐのなら。
その揺らぎを見届けたい――そう思ってしまった。
エリナは胸に手を当て、深く息を吸い込んだ。
まだ午後の陽光は暖かい。
けれど、その奥に確かな熱が芽生えているのを、自分はもう否定できなかった。




