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第4話 揺らぐ仮面

 翌朝、第一訓練場。

 秋の空気は澄み、砂混じりの風が吹き抜ける。観覧席も飾りもなく、ただ武具の音が乾いた空気に響くだけの場所。


 そこに、第二皇子レオンハルトが立っていた。

 普段、この時間に皇子が訓練場に姿を見せることはない。若い兵士たちは何事かと手を止め、ざわめきながら見守っていた。

 だが当の本人は、昨日の敗北を経てもなお無表情のまま、腰に剣を下げている。

 その瞳は平板で、誰が見ても「やはり殿下は退屈そうだ」と思うだろう。


 やがて、彼女が現れた。

 黒い簡素な鎧に、髪をひとつに束ねた紐が揺れる。――エリナ。辺境伯ヴァルトハイムの娘にして、昨日、皇子に初めて敗北を与えた少女だ。


 その瞬間、レオンハルトの無表情が、ふっとほころんだ。

 ほんの一瞬、唇の端が柔らかく上がる。

 それは、これまで誰一人として見たことのない笑みだった。


「おはよう。……よく眠れたか、エリナ」


 優しい声音に、見守る兵士たちの背筋が一斉に震えた。

 あの“氷の皇子”と呼ばれる男が、笑った――?

 黒竜の襲撃に匹敵するほどの衝撃的な光景に、皆が言葉を失う。


 エリナはわずかに戸惑い、それから小さく頷いた。

 控えめな微笑みをレオンハルトに投げかける。

「おはようございます。……殿下は噂と違って、お優しいのですね」


 その言葉は何気なく放たれたものだったが、レオンハルト自身の胸に鋭く突き刺さった。

 噂――帝国の天才、神の如き冷徹さ、誰も寄せつけぬ存在。

 それが虚像であることを彼は知っている。

 だが、彼女だけは笑みを添えて「優しい」と言ってくれた。


 胸の奥が熱を帯び、呼吸がわずかに揺れる。

 剣を振るときでさえ乱れたことのない鼓動が、今は速く打っていた。


 ――レオンハルト自身、その事実に一番戸惑っていた。

 なぜ自分が、彼女の言葉ひとつ、微笑みひとつで揺らぐのか。


(……どうして、こんな気持ちになる?)


 答えに届かぬまま、レオンハルトはその戸惑いを胸の奥に抱きしめた。

 ――ならば、剣で確かめるしかない。


「手合わせを願いたい」


 皇子はゆるやかに剣を抜いた。

 銀光を帯びる刃は、彼の手に収まると同時に獰猛な生を得たように輝く。

 その視線は普段どおり冷たく、兵士たちの心胆を凍らせたが――エリナに向けられたときだけ、わずかに柔らかさを帯びた。


「私は昨日、幸運で勝っただけです」

「幸運ではない。俺は確かに敗れた。あれは――必然だった」


 レオンハルトの声は静かで、しかし誰も反論できぬ力を宿していた。

 エリナは小さく息を呑み、剣を構える。視線は真っすぐ、気負いも怯えもない。


 ――刃が交わった。


 硬質な響きが訓練場に弾ける。

 皇子の踏み込みは稲妻のように速く、並の騎士なら一撃で沈むだろう。だがエリナは重心を低くして受け、体の小ささを生かして身を滑らせる。

 砂が舞い、鉄の音が連続する。


 見守る兵士たちは息を殺した。

 殿下が“楽しげに”剣を振っている――そんな光景、今まで誰も見たことがなかったからだ。


「……強いな」

「殿下には到底及びません」

「違う。俺が退屈しない唯一の剣だ」


 交錯の最中に投げられる言葉は、刃より鋭い。

 エリナの頬に熱がさす。だが彼女はむっとして、きっぱり言い返した。


「……また退屈しのぎですか?」


 鋭い視線に、レオンハルトの口元がわずかに緩む。

「そんなつもりはない。……君が強くて、剣を合わせるのが面白いからだ」


 砂を蹴る音に混じり、短いやり取りが火花のように散る。


 息を整えながら、エリナは苦笑を浮かべた。

「……やはり噂と違いますね。殿下はお優しい」


 その言葉に、レオンハルトの胸はまた高鳴った。

「優しい? ……そんなことを言うのは、帝国中で君だけだ」


 自分でも信じられないほど柔らかな声音がこぼれていた。


 笑みを浮かべるエリナを見ていると、刃を振るう手すら震えそうになる。

 普段、石像のように無表情な彼が、抑えきれず口元を綻ばせた。


 兵士たちは愕然とした。

 皇子が――笑っている?

 冷徹と畏れられたその顔に、人間らしい温もりを帯びるのを、誰一人想像すらしていなかった。


 だが、その笑顔はエリナの前でだけ。

 視線を周囲に向けた途端、また冷ややかで退屈そうな仮面が戻る。

 空気が一瞬にして凍りつき、誰も口を利けなかった。


 ――二面の皇子。

 氷の仮面と、彼女だけに見せるやわらかな笑み。


 剣を下ろしながら、レオンハルトはふと視線を逸らし、言葉を探すように低く口を開いた。

「……明日は武功祭だ。表彰に続いて晩餐会と舞踏会が行われる。例年なら、俺にとってはただの退屈な儀式だ」

 そこで声がわずかに濁る。

「だが――もし君と共にいられるなら……」


 短い沈黙のあと、意を決したように顔を上げた。

「エリナ。明日、君をエスコートさせてほしい」


 名指しで告げられ、エリナは一瞬だけ息を呑む。

 視線を伏せ、考えるように口を引き結ぶ。少しの沈黙の後、困ったように、しかしどこか温かな笑みを浮かべた。

「……はい。殿下がそう望まれるなら」


 その返事に、胸の奥が一気に跳ね上がる。

 鋼の仮面をまとった皇子の内側で、昂ぶりは抑えがたく広がった。

(……明日が来るのが、待ち遠しい)


 彼は初めて、退屈ではない未来を望んだ。


 そのとき、不意に声がした。

「……殿下、これをお使いください」


 差し出されたのは、薄青の布。

 エリナが懐から取り出したハンカチだった。


「まだ私は使っておりませんので」


 戸惑いながら受け取った瞬間、レオンハルトは自分の額にかすかな湿り気を感じた。

 ――汗。

 どれほどの戦でも乱れなかったはずの自分が、汗をかいていた。

 驚愕とともに胸を揺さぶるのは、不可解な高鳴り。


 その感覚を誤魔化すように、彼はハンカチを指先で撫で、無意識に折り目を確かめていた。


 ◇


 その日の昼には、噂が一気に広まった。

 ――皇子が訓練場で、辺境の娘と剣を交えたらしい。

 ――しかも武功祭で彼女をエスコートすると告げた、と。


 噂は風より速く、宮廷の回廊を駆け抜けた。

 貴族の夫人たちは扇の影で声を潜め、武官たちは口を歪めてささやき合う。


「殿下が“女”に微笑んだそうだ」

「信じられぬ。氷の皇子が?」

「いや、訓練場を見た兵が証言している」

「……獲物を見る目ではなく――」

「恋か」


 その一言に、空気が凍りついた。

 帝国始まっての天才、神に愛された皇子。その心を揺らしたのが、辺境の娘。

 許せぬ、と憤る者もいれば、羨望に顔を歪める者もいた。


 ◇


 皇宮の私室。

 側近ローレンツは殿下の前にひざまずき、報告していた。


「……殿下、今朝の訓練の様子はすでに広まっております。民は“殿下が人らしい”と喜んでおりますが……」

「だが、貴族たちは違うな」

「はい。辺境伯家に新たな力がつくのを恐れ、同時にエリナ殿への嫉妬も募らせております」


 レオンハルトは窓辺に立ち、無表情のまま外を眺めていた。

 秋の陽光は柔らかく、城下の広場に集う民を照らしている。

 その瞳に浮かぶものを、ローレンツは読み取れない。


「……捨ておけ」


 短く言い捨てた声は冷ややかで、いつもの皇子そのものだった。


 だがローレンツは気づいていた。

 殿下が指先に触れているのは、今朝エリナから受け取ったハンカチだ。

 誰にも気づかれぬよう懐に収めていたそれを、今は無意識に弄んでいる。


(……殿下が、物に執着を?)


 思わず目を伏せる。

 だが胸の奥には、奇妙な安堵が芽生えていた。


(退屈が……終わったのだ)


 それは側近として驚きであり、同時に喜びでもあった。

 氷の皇子の微笑みを見られる日が来ようとは――。


 ローレンツは誰にも聞こえぬほど小さく吐息を漏らした。

「……良いことです、殿下」


 その声は忠義の報告ではなく、ひとりの人間としての祈りに近かった。

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