第3話 退屈の終焉
闘技場を見下ろす貴賓席では、皇帝と皇太子、大臣たちがざわめいていた。
「第二皇子が、敗北を?」
「相手は何者だ。素性は判明しているのか」
「名簿には“黒の無名”とある。推薦状の封蝋は――ヴァルトハイム辺境伯家のものでした」
白い髭の老臣が細く目をすがめる。
「古くから北を守り続ける家柄ですな。確か息子が三人、娘はただ一人。母は魔獣との戦いで討たれた女傑であったと聞きます」
「ヴァルトハイム……北壁の家か」
別の大臣が呟いた。
「しかし、女子が出場するとは」
「規定に“女子不可”はないはずだ。もともとは息子の誰かが出場する予定だったのだろう。辺境はいま魔獣の群れで人手が足りぬ。若い騎士を次々に前線へ出していると聞く」
「なるほど……推薦規定の但し書き。『領内緊急時の代替出場を認める』か」
視線が皇帝へと集まる。
皇帝の瞳は一度だけ遠く、照り返す砂を映した。
隣の皇太子は、唇の端をわずかに歪める。
完璧で、自分を常に覆い隠してきた弟が、初めて敗北した――その事実は、甘美な安堵と暗い喜びを同時に呼び起こしていた。
皇帝は何も言わなかった。
触らぬ神に祟りなし――いつもどおり息子に口出しはしない。
ただ、鋭く光るその横顔に、ほのかな興味の影が差したのを、確かに誰かが見ていた。
◇
退場口の影は薄暗い。
冷えた石壁をかすめる風が、砂をほんの少し巻き上げる。
少女は、兜を胸に抱え直していた。
レオンハルトは一歩、影へ踏み入る。
足音を殺すのは、彼にとって呼吸の延長にすぎない。
振り向いた少女の緑の瞳が、光を拾ってわずかに明るくなった。
さきほどと同じ、迷いのない目。戦いの火が、まだ芯に残っている。
言葉が喉に上がり、ほどけて消える。
帝国の天才皇子は、生まれて初めて、己の語彙が急に貧しくなる体験をしていた。
「……見事だった」
あまりに普通で、あまりに真っ直ぐな言葉。
少女は意外そうに瞬きをした。
「……ありがとうございます」
その声は、飾り気のない素朴さを帯び、どこか乾いていて、遠い草原を渡る風のように澄んでいた。
それなのに、不思議と心に沁み込み、もっと聞いていたいと胸が疼いた。
「名を聞いても?」
少女はほんのわずかに視線を泳がせてから、きちんと答えた。
「――エリナ。ヴァルトハイム辺境伯の娘です」
胸の内で何かが音を立ててはまっていく。
北の石壁。吹雪と魔獣の境。絶えず兵を失い、それでも火を絶やさぬ家。
娘はひとり。継承から遠く、名ではなく働きで居場所を勝ち取るしかない立場。
兜の下から現れた幼い顔は、飾り立てた家柄の金ではなく――石壁の風に磨かれた、凛とした顔だった。
まだ頬の線にはわずかに童さが残り、大きな目は緑の光を宿してまっすぐに輝いている。
童さと清らかさの対照が鮮烈な輪郭を形作る。
レオンハルトは、目を離すことができなかった。
心臓の鼓動が、剣戟の音よりも大きく耳に響く。
言葉は胸の奥で渦を巻き、沈黙が息苦しいほど長く伸びる――こんな感覚は、今まで一度もなかった。
「……なぜ、出た」
ようやく口をついた声は、詰問ではなく純粋な問いだった。
エリナは兜を抱き直し、言葉を選ぶように一拍おいてから答える。
「兵が、足りません。父も兄も、魔獣の前線に立っています。領の若い者はほとんど北壁に上がりました。……だから、代わりに私が出ました」
「……代わり」
レオンハルトはその語を低く反芻する。
代わり。
その言葉はレオンハルトの胸に妙に響いた。
常に“唯一”として扱われ、比べられることすらなかった自分。
代わりなど不要とされ、孤独に座してきた自分。
それが当たり前だと信じていたのに――いま、目の前の少女は「代わり」として剣を取り、なお堂々と勝ち上がってきた。
まるで、自分が知らない世界の理を突きつけられたかのように。
「殿下は……どうして出場を?」
逆に問われ、レオンハルトは一瞬だけ言葉を失った。
どうして――勝つため。
名目は帝国の威信を示すため。
だが本当は、ただ退屈の穴を小石で埋めるように剣を振っていただけ。
ほんの少し視線を逸らして、正直に答える。
「……退屈だったから、だと思う」
エリナの目が大きく見開かれ、すぐにむっとした色に変わった。
唇をきゅっと結び、真剣な声で言う。
「それは、困ります」
「困る?」
「ええ。退屈しのぎの相手にされたら、困ります」
声色は澄んでいて、怒りを隠そうともしない。
その率直さが、かえって胸に突き刺さる。
レオンハルトの胸の奥で、何かがひやりと揺れ、同時に熱を帯びる。
矛盾する感覚に、思わず言葉が走った。
「……違う」
自分でも驚くほど速く。
「違う。君は退屈しのぎなんかじゃない。最初の一撃から――ずっと、本気だった」
その言葉は粗削りで、飾り気がない。
もっと気の利いた表現があるはずだと分かっていながら、それでも今の彼には、この不器用な真実しか言えなかった。
エリナは少し驚いたように瞬きをして、それから――ようやく、口元を柔らかくほころばせた。
「……光栄です、殿下」
殿下――その呼び名に、レオンハルトはわずかに肩をすくめる。
隔たりを示す言葉。
けれど今は、その距離が妙に寂しく思えてならなかった。
退場口の向こうから、呼び声がかかった。
「黒の騎士殿! 検分を――」
審査室へ向かう係の声だ。武具の点検、記録、賞金の手続き。
エリナは一礼し、歩みだす。
去っていく背に、レオンハルトは声を投げた。
低く、しかし確かに届く声で。
「エリナ・ヴァルトハイム。明朝、第一訓練場に来い」
足が止まる。
振り返った緑の瞳が、まっすぐ彼を射抜いた。
「……命令ですか」
「――願いだ」
ほんの一瞬、目を伏せてから、正面を見据える。
「手合わせを。そして……話がしたい」
闘技場のざわめきが遠のいたように思えた。
エリナの瞳が、秋の光をすくって淡く揺れる。
返事はなかった。だが、小さく頷いたように見えた。
◇
その夜、帝都は「第二皇子、前代未聞の敗北」の話題で持ちきりだった。
広場の酒場では、酔客が盃を打ち鳴らしながら口々に叫ぶ。
「皇子を倒した娘がいたぞ!」
「しかも辺境の出だと!」
粗野な笑いと驚きの声が混ざり、熱気に煙が揺れた。
一方、貴族のサロンでは、扇の陰からひそやかな声が漏れる。
「女子のくせに」
「辺境風情が」
「皇子に近づく女など、芽のうちに摘むべきだ」
甘い酒の香りの奥に、氷のような悪意が潜んでいた。
市井の者たちは面白半分に騒ぎ、上流は牙を研ぎ澄ます。
だが、どちらもまだ知らない。
その「敗北」が、皇子の退屈を終わらせる始まりになることを。
月は薄く、風は冷たい。
レオンハルトの私室は、広いのに不思議と静まり返っていた。
整然と並んだ書架、積まれた論文、壁に掛けられた戦杖や剣――どれも彼を飽きさせた戦利品のように沈黙している。
ただひとつ、燭台の火だけが高く燃え、天井に長い影を揺らしていた。
机上の紙片に、たった一行。
――明朝、第一訓練場。彼女に逢う。
窓外に流れる雲を見やり、彼は初めて胸の奥で言葉を形にした。
(退屈は、終わった)




