2 ~side 藤井悠太~
俺の家は、母さんと親父、妹の4人暮らし。
妹はまだ3歳で幼かったから、俺がいつも面倒を見てた。
母さんは、いつもテレビに映る親父の顔を見て嬉しそうにニコニコして、鼻歌を歌いながら掃除したり、俺達の相手をしたり、良い母親だった。
俺の親父は、建築家で、最初にデザインした家が何かの有名な賞を取ったらしく、若手カリスマ建築家としてテレビやら依頼やらで引っ張りだこ。
小さいころから、親父は家にあまりいなかった。
家にいるほうが珍しかったくらいだよ。
「ねぇ、ママ、パパは?」
「ん?パパ?パパねぇ~ほらあそこよ」
にっこり笑って答える母さんは、テレビのほうを指差していた。
「悠太のパパはすごい人なのよ。とっても」
そう答える母さんはとても幸せそうで、親父が家にいない寂しさとか言ってはいけないと、子供ながらに思ったものだ。
「ただいま」
「あら、あなた?」
ドアが開き、親父がキャリーバックを持って現れた。
父親が久しぶりに家に帰ってきた。本当に、何週間ぶりに。テレビに出ている父親が家にいることがその時は妙に変に思えた。
「パパ!」
テレビから飛び出してきたように思えた幼かった俺は、当然のごとく父親に甘えようと駆け出す。
「…着替えを取りに来ただけだ。すぐ仕事にもどる」
走り寄った俺を無視して、親父は2階の自室に入っていった。
「…パパ」
落ち込んだ俺に、母さんは近づくと、そっと頭をなでて
「パパ、お仕事で疲れてるのよ。大丈夫、悠太のこと忘れてなんかないわよ」
と少し悲しそうな目で笑った。
それから数日後のこと。
いつものように親父が映るテレビを見ていた日のちょうど昼ごろ。
「まぁ、もうこんな時間。悠太、杏奈おなかすいちゃったね」
「あーい」
「ママ!オムライス食べたい!」
「分かった。オムライスね!悠太は冷蔵庫からケチャップ取って何を書くか杏奈と考えてて?」
「はーい」
いつものなんでもないお昼。
いつも同じように、3人でご飯を食べて、笑って、親父の映るテレビを見る。
そんないつもが、今日は少し違っていた。
「ゴホッ…ゴホゴホッ」
「ママ?」
せき込む母親の声がキッチンから聞こえて、不安になり駆け寄る幼い俺。
「どうしたの?!ママ?」
「だっ…大丈夫よ…ゴホッ…」
つらそうにしゃがみこむ母さん。
口に手を当てて、苦しそうにせき込んでいた。
「でも、ママ…それ…ケチャップ?」
「え?」
母の手にはべっとりと、赤い血がついていた。
その血に気付いていなかった母さんは、自分の手を見ると小さな悲鳴を上げる。
咳のせいで息の上がったのを、ゆっくりとおさえると、母さんは手を水道で洗い、口をすすいだ。
「ママ?」
「大丈夫よ…大丈夫…」
母さんは自分に言い聞かせているようだった。
「さっ、ご飯食べましょ。このお皿テーブルに運んで?」
落ち着いたあと、笑顔になった母に安心した俺は、本当に無知で、さっきまでの咳き込んでいた母の顔なんてすぐ忘れてしまった。
「はーい」
おいしそうなオムライスが乗せられたお皿を持つと、テーブルに向かう。
それから、三人でオムライスをたべると、いつものように過ごした。
それから3時になると、母さんは俺に妹の子守を任せ、「買い物に行って来るね」と家を出て行った。
「おにぃー、あしょぼー」
杏奈と一緒に、つみきで遊んでいた時、母さんは買い物ではなく、病院に行っていた。
このときの俺は、幼くて自分の体の不安を見せない母さんのその変化に気付いてやることができなかったんだ。
もっと俺が、大人だったら、母さんを一人で苦しませなかったかもしれない。
――――病院
深刻な表情の医師と 千鶴は家を出た時よりも一層不安気な表情だった。
レントゲンを見て先生は、頭を抱えている。
「藤井さん、どうして、ここまで放っておいたんですか。自覚症状は前からあったんじゃないですか?」
半ば、責めるように問う医師。
「育児の疲れかと思っていたんです。一人で幼い子二人を育てるのは、本当に体力がいりますし」
「旦那さんがいらっしゃるでしょう?少しは頼ることは」
「できません。主人は家族のために忙しく働いてます。そんなあの人にこれ以上負担させてはいけないんです」
「それでもこれからは、家族の支えが一番の治療となるんですよ」
その言葉に、千鶴は自分の死期が近いことを悟らざるを得なかった。
家族の支え、それ以外に治療法がない。私は助からない。もうあの子たちの成長を見届けることができない。
悠太も杏奈が大きくなっていく姿をもう見ることができない。
脳裏に浮かぶ子どもたちの笑顔が暗闇に消えていく。
「…あの…先生。私はあと…どれぐらい」
「あなたの癌は…もう多数のリンパ節へ転移しています。ここまでくると、治療は難しい…手術してももう」
「はっきり言ってください。私はあとどのぐらいの時間が残されているのですか?」
「もって、1ヶ月。もう少し発見が早かったら…」
「そう…ですか」
あの小さな母の異変のから10日経った日の事。
朝、眠気眼をこすりながらリビングに行くと、珍しいことに親父がいた。
「パパ?」
「……悠太か」
久し振りに聞く父の声。
こんな声だったかなと、親父の声を忘れかけていた自分におどろく。
テーブルの椅子に親父と母さんが座っていて、二人でコーヒーを飲んでいるようだった。
「そろそろ支度しなくちゃ。今日は保育園の日だから」
俺を見た母さんは、急いでエプロンを腰に巻くと朝食の準備に取りかかった。
キッチンに立ち、食器乾燥機の下方からまな板を取りだす。
俺は、親父の方に駆け寄った。
無言で親父を見つめる。
親父は黙って俺の頭をなでた。
「パパ…」
「…そろそろ、仕事行く」
俺の頭をなでながら親父は言う。
「あら、朝食あなたの分も用意してるのよ?」
「時間がない」
「そう。…じゃあ、お弁当だけでも」
母さんは、準備しておいた弁当箱を手に持つ。
「…弁当はいらないっていつも言っているだろう?」
「そ、そうね。でも、コンビニのばかりだと栄養が…」
「いらない。もう時間だ。行ってくる」
この時子供だった俺は、分からなかったけれど、あの頃から成長した今では、この親父の態度が許せなくてしかたがない。
さっさと玄関を出て行こうとする親父を追いかけて、母さんは小走りに玄関へ走った。
茫然とその様子を見つめる俺。
親父と母さんが出て行った扉をなすすべなく見つめていると、ドアのしまる音とともに何かが倒れる音が聞こえてきた。
「ママ?」
嫌な予感がして、リビングから玄関につながる扉を開ける。
「ママ!」
目を疑った。
母さんが、うつぶせで苦しい顔をして倒れていた。
口からは薄っすら吐血しているように見える。
「ママ!…ママ!」
ゆさゆさと母さんの体を揺するけれど、母さんの瞼は閉じたまま。
静かすぎる玄関。
ブロロロロロッ……
隣の車庫から、親父の車が出て行く音が聞こえる。
「パパ!ママが!ママがぁ!」
俺は急いで玄関を開けると、親父の車が走っていったであろう道を駆け抜けた。
でも、所詮子供の足。
追い付けるわけがない。
「パパ」
俺が初めて絶望を知った日。




