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   悪癖

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 朝、ひびきは起床して身支度を整えると、日課の鍛錬をするために庭へ向かう。

 まだ空は明るくなったばかりで、まだ山から太陽が隠れたまま。深呼吸をすると、細長く吐き出した息が白くなった。


 軽く膝を屈伸してから、ゆっくりと腰を落として構えを取る。

 目を閉じて息と心を整えながら、父を思い浮かべ――瞼を開くと同時に地を蹴った。


 いつも父と手合わせする時のように拳を繰り出し、素早い蹴りで空を切る。

 耳に鋭い風切り音が聞こえ、体がいつも通りに本調子だということを教えてくれた。


 今まで身につけた武術の型を組み合わせ、流れるようにこなしていく。

 体が温まり、額に滲んだ汗が一筋頬へ伝った頃。


「朝から元気いっぱいねー、ひびき」


 声をかけられ、ひびきは構えを解いて振り向く。そこには眠そうに欠伸をするミラルの姿があった。


 昨日は夕食を終えてから買ってきた酒を次から次に飲み、就寝する頃には一箱分の空いた酒瓶が居間に転がっていた。

 しかし本人が豪語するだけあって、頬が少し赤くなっただけで、普段とまったく変わらない様子だった。


 まだ納得していなかったが、仕事に影響が出ないならと大丈夫と割り切ってから、ミラルへ「おはようございます」と伝えた。


「せっかくですから、ミラルも一緒に体をほぐしますか?」


「……遠慮しとくわ。朝から疲れちゃったら、仕事が手につかなくなっちゃうもの」


 ミラルは肩をすくめると、親指でレスターの家を指した。


「そろそろ朝食ができるってセロが言ってたわ。今日は朝からイグニスと一緒にマニキス山の遺跡まで行ってもらうから、しっかり栄養つけてね」


「分かりました。でも、昨日の今日でイグニス先輩の体は大丈夫なのですか? 体調不良の時にあの山を登るとなれば、かなり負担がかかると思うのですが……」


 ひびきが起床して真っ先に隣を見ると、イグニスは布団に顔を埋めながら、微動だにせず死んだように眠っていた。心なしか精気も弱まっているような気もして、せめて朝ぐらいはゆっくり休んでもらいたいと思ってしまう。


 しかし、ミラルは「大丈夫よ」と軽い口調で言いのけた。


「イグニスは睡眠よりも、食事からのほうが体力を補充できるのよ。だから何か口に入れれば、すぐにいつもの調子に戻る――」


 急にミラルは言葉を止め、口に手を当てて考え始める。

 一人納得したように頷くと、爽やかにひびきへ笑いかけた。


「今日は早く動いてもらいたいからさ、今からイグニスを起こしに行ってもらえる? すぐに起きなかったら、遠慮なくベッドから引きずり下ろすなり、投げ飛ばすなりすれば良いから」


 ミラルの目がやけにキラキラしている。新たなネタを手に入れられると期待しているように見えて、ひびきは小さく息をついた。


「……普通に起こしてきます」


 いくらなんでも、疲れ果てている人間にそんな扱いはできない。

 機敏に踵を返すと、ひびきは小走りに家へ向かった。




 部屋の前まで行くと、まずは軽く扉を叩いてみる。

 しばらく耳を澄まして中の様子を伺うが、イグニスの声どころか物音一つしない。


 ひびきはそっと扉を開けて中へ入ると、イグニスの枕元に立った。


「イグニス先輩、おはようございます。起きられますか?」


 顔を近づけて大きめの声で言ってみても、イグニスの体はぴくりとも動かない。

 やっぱりもう少し休ませたほうが良いような気がする。けれど、このまま起こさなかったら、ミラルが蹴り起こすことになるかもしれない。


 気の毒だったが仕方がないと、ひびきはイグニスの肩を揺さぶる。

 鈍い動きでイグニスが寝返りを打ち、顔と右腕を布団から出す。それでも体を起こすどころか、瞼さえ開かなかった。


 露わになった手には、いつもの革手袋がはめられたままだ。

 外す気力すらないほど酷く疲れていたのだろうかと思うと、自分がいつも通りに眠っていたことが申し訳なくなってしまう。


 何度も「起きて下さい」と声をかけ、小刻みに肩を揺さぶり続けていると、ついにイグニスが上体を起こした。

 だが、力なく首が項垂れてしまい、意識が浮上した様子はなかった。


(もしかして……起きたのは体だけで、まだ眠っているのか)


 顔を覗き込みながら、ひびきはイグニスの肩を叩く。

 ビクリと体が震え、頭が少しだけ上がった。


「……お腹……空い、た……」


 イグニスがかすれた声で、ボソボソと呟く。

 どうやらミラルが言った通り、何か食べれば元気になりそうな雰囲気だった。


 この調子なら心配しなくても良さそうだと、ひびきはホッと胸を撫で下ろした。


「朝食が出来ましたから、下に行けばすぐに食べられますよ。もし起きるのが辛いのでしたら、何か食べられる物を運んできますけれど――」


 話の途中、イグニスがこちらの手首を掴んできた。

 肌に食い込む指の力が強くて、ひびきの鼓動が大きく跳ねた。


(様子がおかしい。まさか寝ぼけて力の加減ができない、なんてことは……)


 大蛇すら押さえ込んでしまったあの怪力が、自分に向けられるかもしれない。

 そうひびきが危惧した瞬間、全身が総毛立った。


(力では絶対に敵わない。それなら離れるよりも――)


 ひびきは両足に力を入れ、掴まれたままイグニスの手首を掴み、引っ張り起こそうと試みる。

 ベッドから退かせば、完全に目が覚めてくれる。そうすれば手を離してくれると思った。


 が、イグニスの腰が浮くよりも先に、グイッと腕を引っ張られて体勢を崩されてしまった。


 引き寄せられ顔が間近になった刹那、イグニスの手がひびきの頬を捕らえる。

 そして半開きになった唇を近づけると、こちらの口を塞いでしまった。


 一瞬、自分の身に起きたことが受け入れられず、ひびきは思考を停止させる。

 じわじわと唇から伝わってくる体温と生々しい感触が、頭の中を、胸の奥を、否が応にもかき混ぜてきた。


(と、とにかく離れないと……!)

 

 現実に引き戻され、ひびきは身をよじり、掴まれていない手でイグニスの胸を強く押して抵抗する。

 しかし、離れるどころか呆気なく押し倒され、小柄な体がベッドに沈む。

 イグニスにのしかかられる形になってしまい、胸が押し潰され、息が詰まった。


 頭の中がグルグル回り始め、段々と体から力が抜けていく。

 もう抗う術は残っていない。ただイグニスの目覚めを待つことしかできない。


 ずっと離れない唇のせいで、息が苦しくなってくる。

 鼓動もますます速まるばかりで、胸から鈍い痛みが全身に巡っていく。


 早く息を吸いたい。

 ひびきの意識が遠のき、それだけしか考えられなくなった時。


 ようやくイグニスの顔が上がり、重苦しかったものが消えた。


「……え? ひびき、ちゃん……?」


 状況がまだ飲み込めないのか、イグニスは呆けたような顔でひびきを見下ろしていた。

 上がってしまった息を整えてから、ひびきは唇を動かした。


「すみません……退いてくれませんか?」


 こちらの声を聞いた瞬間、イグニスの目が点になり、顔から血の気が引いていく。そして大きく飛び退き――。

 ――ゴンッ! 床に額を強く打ち付け、土下座した。


「ご、ごめん! 俺、前日に疲れると、次の日に寝ぼけてこうなっちゃうんだ。天に誓ってわざとじゃない……って、言うだけ言い訳がましくなるなあ。本っ当にごめん。ひびきちゃんの気がすむなら、どんな罰でも受けるから」


 イグニスの懺悔を聞きながら、ひびきはゆっくりと上体を起こす。まだ動悸は治まらず、頭がクラクラしていた。


「いえ、不用意に近づいた私も悪いですから、もう気にしないで下さい。あまり引きずられて、仕事に差し支えが出ては困りますし……」


 本人に意識がないことは十分に分かっていた。だから不慮の事故だと素直に受け入れられる。

 ただ、怒りは沸かなかったが、とにかく恥ずかしい。一刻も早く忘れて、無かったことにしたかった。


 大きくため息をついてから、イグニスは頭を上げる。その顔は親からはぐれてしまった子犬のような悲壮感が漂っていた。


「こんなことなら、見損なわれたくないってカッコつけず、先に言っておけば良かった。こんな事態になりそうな時はひびきちゃんを近づかせないようにしてくれって、ミラルに念入りに頼んでいたのに――」


「えっ……ミラルからまったく聞いていませんよ? むしろイグニス先輩を起こしに行けと言われましたが……」


 お互いに体を硬直させて視線を送りあってから、同時に扉を見る。

 

(……悪意はそっちにあったのか)


 唖然となってから、ひびきは頭を抱えて息をつく。


 と、急にイグニスは立ち上がり、勢いよく部屋を出た。

 自分も続こうと思い、起き上がろうとする。けれど妙に力が入らず、腰がベッドから離れなかった。


 開けっ放しの扉の向こうから、イグニスの鋭い声が聞こえてくる。


「ミラル! 何てことをしてくれたんだ……あのまま取り返しのつかないことになったら、どうする気だったんだ?!」


 姿を見なくても、声だけでイグニスの真剣な怒りが伝わってくる。

 居間にいるらしく、ミラルの声も小さいながら聞こえてきた。


「その時はその時よ。せっかく前日頑張ったご褒美と思って、最高のお目覚めをプレゼントしたのに……」


「た、確かに、今までの中で一番幸せなお目覚めだったさ。でもな、こんな騙すような形でやるなよ! 女の子が理不尽に唇を奪われて、どれだけ傷つくと思っているんだ」


 ……そんなことを大声で言わないで下さい、イグニス先輩。

 おそらく家中に声が響いているはず。レスターたちの耳に入ってしまっただろう。


 しばらくミラルとイグニスの応酬に耳を傾けていると、ひびきの体に少しずつ力が戻ってくる。

 ジワリと膝に力を加えて鈍い動きで立ち上がると、二人を止めなければと部屋を出た。


 二階の手すりから前に身を乗り出して文句を言うイグニスの隣に並ぶと、ひびきは彼の背をポンッと叩いた。


「もう終わったことを言い続けていても意味がありません。早く朝食を終えて、仕事に取りかかりましょう」


 二人の激しく言い合っていた声が、唐突に静まる。


 ミラルは居間のソファーに座ったまま、驚いた顔でこちらを見上げる。

 振り返ったイグニスも、口を硬く閉ざしてひびきに目を見張っていた。


「ひびき……アンタ、起きても大丈夫なの?」


 こんなことで驚いているミラルが理解できず、ひびきは内心首を傾げる。


「はい。まだ軽く目眩は残っていますが、すぐに治まると思います。食事が終わる頃には回復して、マニキス山へ向かえます」


 こちらの話が終わり、二、三度瞬きしてから、ミラルはにっかり笑った。


「頼もしい限りじゃない。今日は休ませた方が良いと思ってたけれど、予定通りで行ってもらうわ」


 そう言うとミラルは「あーお腹空いた」と背伸びをして、食堂へと消えていく。


 何か様子がおかしい。


 漂う違和感を気にしながら、ひびきはイグニスと共に階段を降りる。

 ――今までよりも一段分、距離を取りながら。



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