幕間 『Korea and Her Neighbors』
イザベラ・バードは、旅の記録を残した人である。
彼女の著書『Unbeaten Tracks in Japan』には、明治十一年、日本を旅したときの経験が記されている。
そして、その後、彼女は朝鮮半島にも足を運んだ。
一八九四年から一八九七年にかけて、四度にわたって朝鮮を訪れたバードは、その経験を『Korea and Her Neighbors』という本にまとめている。
この本の第三章には、旅に同行する通訳を探す苦労が記されている。
彼女は、イギリスを出発する前から、朝鮮の内陸部を旅することの難しさを知らされていた。
信頼できる使用人を見つけること。そして、それ以上に、信頼できる通訳を見つけること。
それが、旅を実現するための大きな課題だった。
ソウルでは、周囲の人々が協力して通訳候補者を探してくれた。
英語を学んだ朝鮮人たちと何人も面談した。しかし、バードの求める条件に合う人物は、なかなか現れなかった。
英語を話せても、長い旅に出る覚悟がない者がいた。
母親に虎が出るから行ってはいけないと言われた者もいた。
三か月も家を離れられないという者もいた。
バードが求めていたのは、英語を話せるだけの人ではなかった。
長い旅を共にし、困難に向き合い、必要なときには自分で判断して行動できる人だった。
やがて、英語をかなり話せる若者が面談にやって来た。
ところが、その若者は部屋に入ると、気軽に椅子に身を投げ出し、足を肘掛けにかけた。
旅について質問を重ね、自分の荷物を運ぶ馬と、自分が乗る馬の二頭が必要だと言った。
バードは、旅の困難を乗り越えるためには、荷物をできるだけ少なくする必要があると説明した。
すると、その若者は、衣服が九着なければ同行できないと言い出した。
外国人なら二着で済ませるとバードが話すと、若者はこう答えた。
外国人は、習慣が不潔だからだ、と。
バードは、その候補者を採用しなかった。
英語が話せることだけでは、旅の同行者として十分ではなかったのである。
その後、若い宣教師のミラー氏が、自分の知識だけでは不十分な朝鮮語を補うため、使用人を同行させることを条件に、旅への協力を申し出た。
さらに、コルフ司教から、中国人の使用人ウォンを紹介された。
バードは、ウォンについて、陽気で、底知れないほど善良で、何事にも不平を言わず、誰にでも手を貸そうとする人物だったと書いている。
正直で、勇敢で、花をこよなく愛し、英語もある程度話すことができた。
正式な使用人にはなりきれないところもあったが、バードは彼を大いに気に入り、別れなければならなくなったときには、本当に悲しんだという。
この記述から伝わってくるのは、バードが旅の同行者に求めていたものの一端である。
語学力は大切だ。
しかし、それだけではない。
長い道のりを一緒に歩けること。困難な状況でも前向きでいられること。相手と話し、笑い、目の前の出来事を共に楽しめること。
旅の面白さは、訪れた場所だけで決まるものではない。
誰と一緒に旅をするかによっても、大きく変わる。
バードは、朝鮮での経験を通じて、通訳や使用人という肩書だけでは測れない、同行者の人柄の大切さを記録に残した。
そして、時代をさかのぼる。
一八七八年。
日本を旅しようとしていたバードの前に、一人の若者が現れる。
伊藤鶴吉。
推薦状を持たず、ほかにも候補者がいるなかで、彼はバードと向き合うことになる。
博士は、若い鶴吉を採用することに賛成していなかった。
しかし、バードは彼と話をした。
その会話は、楽しかったのではないだろうか。
長い旅を共にする相手に、退屈な人は困る。
英語ができることは、もちろん必要だ。
けれど、話していて楽しいことも、同じくらい大切だったのかもしれない。
鶴吉は、単に言葉を訳すために選ばれたのではない。
バードにとって、これから始まる長い旅を共にする相手になったのである。




